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「明治日本の社会的キリスト教(1)(2)」『キリスト教文化』 [日本・近代史]

雑誌『キリスト教文化』(かんよう出版、2014年春号)が、中国にいる私の手元にも届きました。

今号の特集は「戦争とキリスト教」と題し、興味深い論考が数多くあります(池住義憲「「戦争準備」行為とキリスト者―どのようにプロテスト(抵抗)するか、できるのか」、山下明子「日本軍性奴隷制度の問題とキリスト教」、柴崎聰「戦争と戦後日本のキリスト教文学」、一色哲「闘いのなかのキリスト教 ─ 沖縄の戦後から」、金井創「沖縄―貴い隅の石」、梁在成「原発と戦争、そしてキリスト教信仰」、金興洙「一九五三年停戦協定、戦後の韓国教会」、尹善子「韓国の従軍聖職者活動の昨日、今日、そして明日」、河東基「良心的兵役拒否、僕の内側でこだまするイエスの声」)。

私も本誌で「明治日本の社会的キリスト教―地上における〈神の国〉を求めて」と題する論考を、前号に続いて連載しました。なお私自身はキリスト教の信仰をもっておりませんが、近現代の日本(および東アジア)においてキリスト教の思想と運動がきわめて重要な社会的役割を果たしてきたことを深く感じています。このたび執筆の機会を与えてくださったかんよう出版に感謝します。

かんよう出版HP
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かんよう出版FBページ
https://www.facebook.com/kanyoushuppan

私は、上に紹介した本誌の特集「戦争とキリスト教」の各文章を読み、キリスト者の方々が今まさに大事な動きをしていることを知って感銘を受けました。そうした現在まで続くキリスト教思想と運動の社会的な役割を、十九世紀末から二十世紀初頭(いわゆる明治時代後期)に遡って考察することが、拙稿の目的といえます。その課題を述べた部分を以下に引用します。

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社会問題に取り組む諸団体や、「社会主義」「民主主義」「平和主義」という当時からすればきわめてラディカルな理念を掲げた政党が、多くのクリスチャンによって設立されたという事実は、明治日本のキリスト教界の特異な一面を物語っている。当時のキリスト教界では、いわゆる「社会的キリスト教」(social Christianity)が一定の影響力をもっていた。十九世紀後半のアメリカ合衆国において発展し、次いで日本でも受容されたその教説は、救済の地上性を強調し、社会問題の解決を教会の責務と考える点に、顕著な特徴があった。

明治期のキリスト教史において、社会的キリスト教が時代を画する重要な役割を担ったことは疑いえない事実である。ところが、それを主題とする研究はほとんど存在せず、キリスト教史の中に明確な位置づけを与えられていない。そこで、これまで不当に軽視されてきた明治期の社会的キリスト教について その思想と運動のあり方を明らかにすることを本稿の課題としたい。
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(大田英昭「明治日本の社会的キリスト教(1)」『キリスト教文化』2013年秋号)

明治時代の「社会的キリスト教」のあり方について、今号では特に片山潜(1859~1933年)に即して考察しました。片山潜は1884年二十五歳でアメリカに渡り、労働生活を送るなかでキリスト教に入信、聖職者を目指して神学校で学びます。当時のアメリカでは、産業社会の急激な発展に伴って激烈な労働争議や都市の貧困が深刻化していました。こうした社会問題にキリスト教会として立ち向かったのがアメリカの「社会的キリスト教」で、片山はその深い影響を受けて1896年、帰国しました。

片山は帰国後、東京でセツルメント運動を起こし、また日本最初の労働組合運動の指導者として活躍、さらに社会主義運動・民主主義運動へと進み、1901年に幸徳秋水・木下尚江・安部磯雄らとともに「社会民主党」を結成しました。こうした彼の行動を深いところで支えていたのが、キリスト教の信仰です。とくに労働運動において片山が、中国人をはじめとする外国人労働者との連帯を強く訴えた背景には、彼がアメリカでの労働と信仰の日々のなかで体得した人類同胞思想がありました。

その後「大逆事件」に代表される日本政府の凶暴な弾圧により、片山は1914年、アメリカに亡命することを余儀なくされます。さらに1921年、彼はロシア革命直後のソヴィエト・ロシアに渡り、やがてコミンテルンの幹部となって国際共産主義運動に参加し、モスクワで最期を迎えました。こうした晩年の経歴から、片山におけるキリスト教思想の意義は軽視されがちですが、しかしその思想は最後まで失われることなく彼の血肉になっていたと思います。今回の論考を、私は次のように結びました。

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(前略)
社会民主党の創設者として名を連ねた六名のうち五名がクリスチャンだったし、日露戦争に際して日本の社会主義者が反戦平和を訴え続けた背景としても、社会的キリスト教の思想的影響は無視できない。1904年8月にアムステルダムで開催された第二インターナショナル大会で、片山とG・プレハーノフ(Georgi Plekhanov, 1856‐1918年)とが、戦争に反対する日露両国の民衆を代表して壇上で握手した際に、片山の念頭にあったのは、社会主義のインターナショナリズムと同時に、キリスト教の人類同胞主義だったのではあるまいか。

さらに七年を経た1911年秋、片山はイエスの「天国の福音」について次のように述べている。

「〔耶蘇の〕山上の垂訓は、実に彼の社会問題の解決法、彼の建設せんとする理想の天国、即ち神州の憲法である。彼が運動を始むるや、非常なる熱心、勇気、期望をもって居たのである。その成功に対する信仰は偉大なる者であつた。「天国は近けり、悔い改めよ」とは、彼の民衆に対する警句であった。彼は地上に天国を建設することが出来ると確信せる者の如くである。その識見、威厳は壮烈なる者であった。…(中略)…耶蘇は無垢の青年で社会に出た。刻苦艱難奮闘の結果、正義の人となったのである。理想の大人格となったのである。我が唯一の師表、ユニークの救世主となったのである。…(中略)…耶蘇が今日人類社会に勢力があるのは、その我々に残したる経験である。その経験、その誠実偉大なる信仰に依って、我々をして神に達するの道を教えたのにある。実に彼自ら神の子たる本分を尽し、我々にも神の子たり、其本分を全うする道を教えて呉れたのである。これ予の信ずる耶蘇である。実に救主と尊敬する基督である。」(「耶蘇は如何にして誘惑に勝ちたる乎」『東洋時論』1911年11月)

(中略)

制度としてのキリスト教会から片山が次第に遠ざかりつつあったのは事実であろう。しかしそれは、信仰が冷却したというよりも、むしろ、上の引用の如き意味で「大人格」「救世主」とされるイエスの福音に向けて、彼の信仰がいっそう純化したことを意味するのではなかろうか。片山の信仰の行方、ないし彼の「棄教」をめぐる問題は、キリスト教の本質とは何か、という困難な問いを含んでいる。この問題にここで答えを出すだけの準備が私にはない。しかし、ただ一つ言えることは、共産主義インターナショナル(コミンテルン)の運動に加わった片山が一九二一年ソヴィエト・ロシアに渡った後も、彼が若き日にアメリカで得た人類同胞主義は、最期の日まで微動だにしなかったに違いない、ということである。
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(大田英昭「明治日本の社会的キリスト教(2)」『キリスト教文化』2014年春号)

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「昭和の日」雑感 [日本・近代史]

海外に住んでいるので忘れていたが、昨日は「昭和の日」という休日であったことに気付いた。裕仁の誕生日だ。89年に本人が死去した後「みどりの日」と改称、さらに2005年小泉内閣のときに祝日法が改正され、2007年から施行されて現在の名称となった。なぜこの日を今わざわざ祝わねばならないのか、根拠は全く不明だ。

裕仁の祖父である睦仁(明治天皇)の誕生日(11月3日)は、死後から15年を経て「明治節」として1927年に復活し、「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」することがうたわれた(「明治節制定ノ詔書」)。戦後は1946年のこの日に新憲法が公布され、名義上それを祝う「文化の日」として48年の祝日法で定められ、今日に至っている。かつて大日本帝国憲法(旧憲法)が紀元節(2月11日。実在しない神武天皇の即位日としてでっちあげられた。現・建国記念の日)に発布されたのと同じように、天皇主義者の吉田茂が新憲法の公布日をわざと明治節に合わせたのかもしれない。

他方、裕仁の父・嘉仁(大正天皇)の誕生日(8月31日)は、祝日として残されることがなかった。なぜ、ひとり裕仁の誕生日だけが、新憲法公布を記念する「文化の日」のような名目すらないのに、露骨にも「昭和の日」の名で祝日として残されているのか?改正祝日法ではその趣旨について、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と説明されている。が、祝日法改正による改名を推進した神社本庁のHPにあるように、「昭和天皇の御事蹟を顧みる」ことを国民に強要することが、支配層の本音だろう。1927年に明治節が制定されたとき、「臣民ト共ニ永ク天皇ノ遺徳ヲ仰キ明治ノ昭代ヲ追憶」することがうたわれたのと、何と似通っていることか。
http://www.jinjahoncho.or.jp/column/000020.html (神社本庁・コラム「昭和の日」)

だがそもそも、裕仁の「御事蹟」とは何か?「昭和の時代」なるものを「顧みる」のであれば、彼が大日本帝国憲法の下で、大元帥として陸海軍を統帥する大権を唯ひとり有していた二十年間に、次々と実施された日本の侵略戦争によって国内外の膨大な人びとが犠牲にされたこと対する彼の責任をこそ、なによりもまず「顧みる」必要がある。それをせずに彼の「御事績」を寿ぐことがいかに欺瞞に満ちているかは、言うまでもない。

「昭和の日」および現行の天皇誕生日のほかにも、現代日本の祝日には天皇制に由来するものが少なくない。建国記念の日(2月11日、戦前の祝日「紀元節」)、春分の日(3月21日頃、戦前の祭日「春季皇霊祭」)、秋分の日(9月23日頃、戦前の祭日「秋季皇霊祭」)、文化の日(11月3日、戦前の祝日「明治節」)、勤労感謝の日(11月23日、戦前の祭日「新嘗祭」)。なお戦前の祝祭日ではないが、1996年から施行された海の日(7月20日、2003年から7月第3月曜日)の起源は、1876年に睦仁(明治天皇)が汽船「明治丸」で北海道・東北地方を巡り7月20日に横浜に帰着したことを記念して、1941年(!)に「海の記念日」とされたことにある。

つまり、現行の15の祝日のうち8つまでが、天皇制とつながりをもっていることになる。人間の生活と労働のあり方を決定する暦において、日本人はいまだに天皇制の時間枠組みに(おそらくほとんどの人は無自覚に)支配され続けている。そしてそれは、戦後日本の支配層が自覚的に行っていることで、21世紀に入りいっそう強化されているのだ。

なお少し前から、成人の日や敬老の日、体育の日などいくつかの祝日は、労働者の連休を増やすため月曜日に移動されている(ハッピーマンデー制度)。しかし、天皇の誕生日に由来する祝日(昭和の日・文化の日・天皇誕生日)と、戦前の祝祭日に由来し天皇制ときわめて深いつながりをもつ4つの祝日(建国記念の日・春分の日・秋分の日・勤労感謝の日)については、決して動かされることがない。とりわけ春季皇霊祭(春分)・秋季皇霊祭(秋分)・新嘗祭(勤労感謝の日)の三つは、皇居宮中三殿で天皇による祭祀が行われる「大祭日」で、首相・衆参両院議長・最高裁長官の「三権の長」もこれにしばしば出席してきた。

支配層がこれらの日付を決して動かそうとしないのは、天皇制と宮中祭祀にまつわるそうした理由がある。「天皇が下々の安泰のために皇祖皇宗(歴代天皇ら自分の祖先神)や天神地祇を祀るありがたい日」というわけだ。天皇制とその「万世一系」神話および祭祀は、日本の支配層が今も国民の統合と支配の正統性根拠として利用し続けている。憲法で定められているはずの政教分離原則が、この国で果たしてどこまで貫徹しているのか、実に疑わしい。

長春だより

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