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安保法案反対運動とは何であったか――二つの「護憲」思想をめぐる問題 [日本・現代社会]

9月19日未明、日本国の暴力装置が国外に殺し合いに行くことを「合法」化する安保法案が成立した。今夏以来日本の各地で繰り広げられた法案に反対する運動は、国会前を中心に、1960年の安保闘争以来の高揚を示したとさえ言われる。この安保法案反対運動とは何であったか。この運動の本質はどのように捉えることができるだろうか。

この運動をとりあえず「護憲」運動と呼ぶことは、多くの人の同意するところだろう。ただしこの「護憲」という言葉は、日本の近現代史および政治思想の上で、大きく二つの異なる内容を含んでいることに注意せねばならない。

第一の内容は、日本国憲法のうち特に9条を守れ、という思想および運動である。1950年代以来、日本の支配層の改憲策動は憲法9条の改定を最優先とするものであったから、これに対抗する護憲運動が主として9条を守ることを掲げたのは当然だろう。この意味での護憲運動はもっぱら平和運動として展開され、嫌戦気分の漂う戦後日本社会の多数派の合意が底辺でそれを支えつつも、アジア・沖縄・戦後責任・フェミニズムなどさまざまな問題提起を受け止めながら、思想的・運動的に少しずつではあれ深化していった。

「護憲」の第二の内容は、憲法に基づく政治のあり方(立憲政治)を守れ、というものである。旧憲法(大日本帝国憲法)下の日本近代史において「護憲運動」と言うと、主にこの意味での「憲政擁護運動」を指す。ここで憲政(立憲政治)というのは、国家権力の行使を憲法によって制限し、国民の権利を保護するという、近代国家の根本原則(立憲主義)に則った政治のことを指している。日露戦争後から1920年代までの「大正デモクラシー」期、この意味での護憲運動が「民本主義」者を中心に活発に展開されたことは、よく知られている。

このたびの安保法案反対運動には、上に挙げた「護憲」の二つの意味が混在しているように思われる。安保法案が憲法9条違反であることは、安保法案に反対するほぼ全ての人が合意するところだろう。ただしこの「護憲」運動には、9条の精髄(とくに第2項の戦力不保持と交戦権否認)を維持しさらに発展させてゆくことを目指す平和運動としての側面と、安保法案の違憲性に抗議し立憲政治を守ることを目指すデモクラシー運動としての側面との、両者が含まれていたと思われる。そして、この二つの内容を含む「護憲」をどう捉えるかは、運動の参加者個々人において、相当ニュアンスが違っていたのである。

特に注意すべきは、上の第二の意味でもっぱら「護憲」を捉え、安保法案への反対を立憲政治の擁護(すなわち立憲主義)の運動としてこれに参加した人たちの中に、第一の意味での「護憲」(9条の維持と発展という平和思想・運動)を軽視さらには批判する人も、少なくないことだ。そこには例えば、小林節氏のような9条改憲論者が含まれている。安保法案反対において、第二の「護憲」のみを強調するならば、憲法改正の規定に従って「国民」の意志として9条を改定し第2項を削除すれば、立憲主義の原則に従いつつ集団的自衛権を行使できる、という論理すら可能になってくる。

国会前での安保法案反対運動でマスメディアから注目されたSEALDsの中心メンバーやその周辺の支援者にも、9条は改定したほうがよい、という主張が現れているらしい。とりわけ野間易通氏に至っては、「憲法9条2項は改正または削除すべし」「国連PKFでの自衛隊の武力行使も反対ではない」などと断言しているのである。

日本近代史を振り返っても、第二の「護憲」の主張は必ずしも平和思想と結びつかなかった。「大正デモクラシー」の憲政擁護運動(護憲運動)では、閥族(藩閥・官僚・軍人)の強権政治は憲法の精神を無視する「非立憲」的専制だとし、それに対して民意に基づく政治(具体的には世論の代表者たる衆議院が行政権力をコントロールする議院内閣制の政党政治)の実現が目指され、そこに立憲政治の本質(「憲政の有終の美」)があるとされた。ただし、彼ら「立憲的」政治家・言論人の立場は、「内に立憲主義、外に帝国主義」というべきものがほとんどであった。「民本主義」を代表する知識人の吉野作造も、1915年に日本政府が中国政府に突き付けた露骨な侵略的要求である「対華21カ条要求」を熱烈に支持したのである(「非立憲的」軍閥政治家の山縣有朋すら21カ条要求には慎重であったにもかかわらず)。なお吉野はやがてこうした帝国主義的立場を修正していくが、そうした反省すら当時の「立憲的」言論人として例外的であった。

大正デモクラシーの左派として、吉野の弟子にあたる学生たちを中心とする「新人会」グループがあり、無産政党運動にも多くの人材を輩出したが、1930年代における彼らの右旋回は鮮明だった。赤松克麿(吉野の娘婿)は満洲事変後に軍部を支持し、ファシズム類似の「日本国家社会党」を結成して「一君万民の国民精神」に基づく社会運動を称揚したし、麻生久・三輪寿壮ら新人会出身の無産政党指導者たちも、日中戦争下で近衛文麿らの「新体制」運動に積極的に加担し、大政翼賛会や産業報国会の結成に関与していったのである。

戦前の「護憲」運動の系譜を引く人びとのこうした無残な失敗を踏まえ、戦後の日本では「護憲」思想に新たな意味が吹き込まれつつ、平和運動が取り組まれた。それは紆余曲折と試行錯誤を経ながら、少なくとも90年代までは曲がりなりにも思想的な深化を遂げていったといえよう。だがとくに今世紀に入ると、平和運動の周辺では、思想を後退させることで運動の底辺を広げようという「現実主義」(?)的な提言(自衛隊の9条合憲論や専守防衛論)が目立ってきた。

とりわけ今回の安保法制反対運動では、立憲主義という後退線で保守勢力と政略的に連携することが重視され、そうした雰囲気の中で、SEALDs人気が各メディアを通じて突出することになった。SEALDsの主張は明らかに、従来の平和運動の思想的成果(とりわけ歴史認識問題)を踏まえようとしない保守的なものであるにもかかわらず、不思議なことに、社会運動・平和運動の中にもこれを無条件に支持する人が多く、その批判者に対しては〈運動の邪魔をするな〉とばかりに罵倒が浴びせられもした。さらに、SEALDs声明文の歴史認識に疑問を呈した外国人研究者に対して、SEALDs周辺から罵倒や誹謗・中傷が集中するという、深刻な事態すら起きている。安倍自公政権の非立憲的な独善ぶりもさることながら、こうした社会運動の側の思想的な頽廃にこそ、私は日本社会の真の危機をみるものである。

安倍政権一味によるクーデター的な立憲政治の破壊行為に対して、私たち民衆はこれに全力で立ち向かい阻止しなければならない。その限りでは、あえて「立憲主義」の線に後退して保守派を含む幅広い人びとと連携することが必要な局面もあるだろう。その一方で、立憲主義だけでは決して戦争を阻止できないという歴史の厳然たる事実も、常に想起しておかねばならない。

戦後日本における平和運動と思想の起伏に富んだ錯誤と苦悩の歩みの蓄積は、私たち民衆にとってかけがえのない財産である。アジア・沖縄・戦後責任・歴史認識・フェミニズムなどさまざまな観点からの批判的な問題提起を受け止めつつ、紆余曲折を経た末に一応たどりついたその運動的・思想的到達点(全くもって不十分ながら)を、私たちはもう一度確認し、そこからさらに一歩前へと歩みを進めてゆきたい。上に述べた二つの「護憲」思想の差異と役割をめぐる緊張感を失うことなく、私たちは考え、悩み、行動し、アジアの人びとと共に平和のうちに生存できるような未来を必死に切り開いてゆかねばならない。

「満洲国」の爪痕(8)南嶺大営――満洲事変と長春 [満洲国]

日本の関東軍が満洲(中国東北部)に全面的な軍事侵略を開始した柳条湖事件からちょうど84年目の9月18日、満洲事変における最大の激戦地の一つ、長春の南嶺大営(南大営)旧址を訪れた。ここには満洲事変まで、国民革命軍東北辺防軍(張学良麾下)の砲兵第10団(1370人)と歩兵第25旅5団(2350人)が駐屯し、満洲における中国軍(国民党)の重要拠点だった。
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(南嶺大営の東北軍砲兵第10団部正門)

満洲事変の勃発前から、長春には「満鉄附属地」と呼ばれる、日本帝国の事実上の植民地域があった。その由来は1905年、日露戦争に勝利した日本が、ロシアから関東州(旅順・大連など遼東半島南端部)の租借権や、大連―長春間の鉄道とそれに付属する利権を譲渡されたことにある。翌年、植民経営の機関として南満州鉄道株式会社が設立され、鉄道の沿線用地および停車場のある市街地は「満鉄附属地」に編入され、日本帝国の重要な権益としてその行政権下に置かれた。満鉄附属地内では、日本領事が司法・外交権、関東都督府(関東州における日本の植民統治機関で、民政部と陸軍部から成る)が軍事・警察権、満鉄が行政権を握り、中国側の権力は一切及ばなかった。1919年、関東都督府の改組で陸軍部が独立した。これが関東軍だ。

長春では、満鉄の長春駅を中心に広大な満鉄附属地が設定され、これを守備するために関東軍および独立守備隊が駐屯していた。
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(ピンク色の部分が長春の満鉄附属地。『長春偽満洲国那些事』吉林文史出版社、2011年、10頁より)

満洲事変勃発の直前には、関東軍第二師団第三旅団第四連隊の二個大隊と、独立守備隊の一個中隊合わせて1000人ほどの日本軍が長春にあり、これを警戒する南嶺大営および寛城子(二道溝)兵営の兵力合わせて6000余人の中国東北軍が、対峙していた。

1931年9月18日午後10時20分頃、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄線の線路が突然爆破された。中国東北部全土に軍事侵略を開始するための関東軍の謀略だった。この爆破を中国軍の仕業と偽った関東軍は、中国軍の最大拠点である奉天の北大営を奇襲してこれを制圧、まもなく奉天全市を占領下に置いた。

9月19日未明、長春の日本軍は南嶺大営と寛城子兵営の中国軍を奇襲、これに対して中国軍も激しく抵抗したが、激戦の末、日本軍はいずれも同日夕刻までに制圧した。半日の戦闘で、中国側の戦死者は約300人、日本側の戦死者は66人だった。
a6.JPG(南嶺大営への日本軍の突入跡)

関東軍の独断専行による軍事行動に、陸軍中央も同調・協力し、朝鮮軍(植民地朝鮮に駐屯する日本陸軍)は関東軍の支援のために独断で越境して満洲に入った。関東軍は日本政府の「不拡大」方針を無視して占領地を拡大、11月には黒龍江省のチチハル、翌年2月にはハルビンを陥落させた。こうした既成事実を、やがて政府も追認するようになった。

こうして満洲全土の主要都市をほぼ制圧した関東軍は32年3月、傀儡国家「満洲国」の建国を宣言させ、長春はその国都として「新京」と改称された。だが、住民の意思と無関係に日本軍が勝手に「建国」させたこの「国家」は、支配の正当性がきわめていかがわしかった。中国東北軍の残存部隊は、農民・馬賊などを糾合して「救国軍」を結成、各地で激しい抵抗を継続させた。朝鮮人を多数含む満洲の共産主義者たちも、抗日武装闘争を開始して遊撃戦を繰り広げた。以後十数年にわたる満洲抗日戦争の幕開けである。

こうした泥沼の状況で、日本側は抗日闘争参加者を「匪賊」と呼び、武力による徹底的な殺戮の対象とする一方(七三一部隊による人体実験にも供された)、満洲国の支配の正当性を捏造するためのプロパガンダ戦にも力を入れた。その一環として、満洲事変における最大の激戦地だった長春の南嶺と寛城子は、満洲国建国の聖地として宣伝されることになる。早くも31年の年末には、南嶺で戦死した日本兵の「英霊」を称えるプロパガンダ映画『噫!南嶺三十八勇士』が製作されている。
z9.jpg(『噫!南嶺三十八勇士』の宣伝絵葉書)

軍歌「噫!南嶺」でも「戦い済んで声限り 満州野に叫ぶ勝鬨に 見よ南嶺の空高く 夕日に映る日の御旗」と高唱された南嶺の地は、血塗られた色の夕日のイメージとともに当時の人びとの頭に刻み込まれた。
z4.jpg(絵葉書「南嶺で奮戦する倉本少佐」)

満洲建国を聖化する巡礼地として、南嶺と寛城子の戦跡には威圧的な記念碑が建てられた。満洲を永遠に中国から切り離して日本に従属させることを企図したモニュメントといえよう。それは、満洲事変および「匪賊討伐」戦(すなわち満洲抗日戦争)における日本・満洲国側の「英霊」を祀った「建国忠霊廟」(拙ブログ「「満洲国」の爪痕(1)――「靖国」としての建国忠霊廟」を参照)とともに、この人造国家の「国民」意識を発揚することを目的としたイデオロギー装置にほかならない。
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(絵葉書「国都新京ノ偉観」左が寛城子戦跡記念碑、右が南嶺戦跡記念碑)

1945年8月の日本敗戦に伴う満洲国崩壊後、これらのモニュメントは中国の人びとによって徹底的に破壊された。満洲事変という歴史上まれにみる愚挙をきっかけに、以後十数年にわたって中国東北の大地にいったいどれだけ膨大な血が流されたのかを思うと、気が遠くなる。

南嶺戦跡の地は現在、富裕層向けの高層マンションが林立する地区となっている。満洲事変80周年の2011年9月18日、高層マンション群の谷間に、「長春南大営旧址陳列館」がオープンし、この地で関東軍と戦い敗れた中国東北軍砲兵第10団部の正門が復元された。陳列館は「九・一九長春抗戦史跡」として、日本の満洲侵略および抗日戦に関する説明パネルと遺物が多数展示されている。
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(復元された中国東北軍砲兵第10団部の正門)

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この南嶺の地で戦闘が行われてからちょうど84年目の今日9月19日未明、日本では安保法案が一部支配層によって強行的に成立させられた。それは、日本国の暴力装置が再び外国に殺し合いに行くことを「合法」化するものである。東アジアに悲劇の歴史が繰り返されることを、私たち民衆は何としても食い止めねばならない。

長春だより

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