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岡崎一氏の拙著への書評(『初期社会主義研究』30号)に対する応答 [日本・近代史]

拙著『日本社会主義思想史序説―明治国家への対抗構想』(日本評論社、2021年)について、岡崎一氏(元東京都立大学教授)による書評が『初期社会主義研究』(30号、2022年3月)に掲載された、との知らせを受けた。

私は中国にいるので、当該号はしばらく入手できない。が、幸い同誌編集部の方が最終校正刷りのPDFファイルを送ってくださったので、書評を閲読することができた。

拙著を「初期社会主義研究に果敢に挑戦する刺激的好著」とする岡崎氏の評言はありがたく、当該分野における氏の長年の研究に基づく有益な指摘は尊重したい。ただし、氏の見解の中には、首をひねらざるを得ないもの、研究者としてとうてい承服できないものも少なくない。以下、岡崎氏の書評のうち疑問を感じる個所について、私からの応答を記しておきたい(なお『初期社会主義研究』30号の引用ページ数は最終校正刷りによる)。

私は拙著の序章4頁で、城多虎雄「論欧洲社会党」(『朝野新聞』1882年6~8月)について、「この論説は、「社会党ノ主義」=社会主義の理論と運動について、日本で初めて体系的に紹介したものといってよい」と記した。こうした私の評価について、岡崎氏は次のように批判している。

城多虎雄「論欧洲社会党」(『朝野新聞』一八八二年六~八月)の紹介に当り、〈この論説は、「社会党ノ主義」=社会主義の理論と運動について、日本で初めて体系的に紹介したものといってよい〉(四頁)と記しているが、久松定弘(編纂)『理想境事情 一名 社会党沿革』(進学舎、一八八二年二月)の方が先行しており、〈初めて〉という指摘は妥当ではないと考える。これは単純に著者が『明治文化全集』(日本評論新社)に拠っただけのことで、前記の久松や原田潜『自由提綱財産平均論』(春陽堂、一八八二年一一月)を翻刻している『明治文化資料叢書』第五巻社会主義編(風間書房)を見落としたためであろう。

(『初期社会主義研究』30号、260~261頁)

岡崎氏は、私があたかも『明治文化資料叢書』第5巻社会主義編を見落としたかのように推測しているが、理解に苦しむ。私はこの巻を持っているし、目を通してもいる。そもそも久松の『理想境事情』は、昔は稀覯本だったかもしれないが、今では国会図書館デジタルコレクションに収録されており、誰でも容易に閲読できる。確かに数十年前なら『明治文化全集』などの史料集に頼らざるを得ない研究状況があったのだろうが、史料へのアクセスが格段に向上している現在はそうではない。

久松の『理想境事情』と、城多の長大な論文「論欧洲社会党」との内容を比較すれば、両者の水準の差は明らかである。久松の『理想境事情』は、社会主義を単純に国民同権や財産平等分配の主張と同一視したうえで、ヨーロッパの社会主義者や運動を羅列的に紹介しているに過ぎない。対して城多の「論欧洲社会党」は、中等社会(ブルジョアジー)と労力社会(プロレタリアート)との対立から「近世文明」における社会主義発生の必然性を論じ、第一インターナショナルおよびドイツ・ロシア・フランス・イギリスの社会主義運動の発展過程をそれぞれ詳しく紹介したうえで、生産手段の共有と公平な分配という根本的主張に至る社会主義の論理を考察し、その主張の是非について独自の検討を加えている。

このように、社会主義の理論と運動史の体系的な把握において、城多の重厚な論考は久松の編著の薄っぺらな内容を圧倒しているのである。私が城多の論説を「社会主義の理論と運動について、日本で初めて体系的に紹介したもの」であると考える根拠はここにある。

なお、単に社会主義の理論と運動を紹介するだけであれば、久松の『理想境事情』よりはるか前の1878~79年に、『東京日日新聞』を始めとする在京の諸新聞がそれを活発に行っていたことは、拙著の第一章で詳論したとおりである。

また、拙著の序章で、1890年代初頭に特徴的な社会主義理解の例として、陸羯南内藤湖南とを挙げたことについて、岡崎氏は次のように批判している。

政教社関係として陸羯南と内藤湖南にしか言及していない(四~五頁)が、この二人よりは「社会主義一斑」(『日本人』一八九四年三~五月)の筆者である長澤別天に言及する方が寧ろ妥当であろう。

(『初期社会主義研究』30号、261頁)

長澤別天の社会主義論については、私は前著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の第4章第1節で扱っているので、参照されたい。私がこのたび拙著の序章「近現代日本における「社会主義」概念の展開」を書くにあたっては、長澤よりも早い時期に書かれた陸・内藤の社会主義観の方にこそ、当時の「国民主義」・「国粋保存主義」に基づく独特な見解が色濃く現れていると考えてこれを紹介した一方、長澤の社会主義論は紙幅の関係上割愛したのである。

次に拙著第1章での、1878年12月の『横浜毎日新聞』における「社会党」論に関して、岡崎氏は次のように指摘している。

社会党に一定の理解を示す楠佐柄「社会党者流ガ処分」を社説として掲載した『横浜毎日新聞』(三頁)だが、これは一八七四年から当紙主筆を務め(一八七九年『東京横浜毎日新聞』と改称)一八八八年には社長となった島田三郎の存在抜きには考えられず、将来の島田の『世界之大問題社会主義概評』(一九〇一年)――『毎日新聞』(一八八六年改称)に連載した諸篇を纏めて単行化したもの――の発行を予兆したものと言えようか。

(『初期社会主義研究』30号、261頁)

島田三郎は、日本最初の日刊紙として明治三年十二月(1871年1月)に創刊された『横浜毎日新聞』の草創期である73年に入社し、翌年社員総代の島田豊寛の養子となった。ただし島田三郎は75年元老院に入って(のち文部省に移る)、いったん同紙から離れており、明治十四年の政変(81年10月)で免官された後、『東京横浜毎日新聞』に再入社している。したがって、1878年12月の『横浜毎日新聞』社説の内容が、「島田三郎の存在抜きには考えられ」ないという岡崎氏の断言は、根拠が疑わしく、首肯できない

同じく拙著第1章で言及した『郵便報知新聞』の「社会党」論に関し、岡崎氏は次のように指摘する。

一八八二~九〇年には報知社社長も努めた矢野龍溪が、やがて西洋ユートピア文学の基準に照らしてみても遜色のない日本初の本格的なユートピア文学作品『新社会』(一九〇二年)と講演集『社会主義全集』(一九〇三年)を公表することになる史実は、(著者の視角には入ってはいないものの)実に興味深い。

(『初期社会主義研究』30号、261頁)

矢野龍渓は『郵便報知新聞』紙上で、「貧民救助法ヲ論ズ」(1876年6月8日)など社会問題に関係する社説を早い時期から書いており、後年の社会主義への関心とあわせて考えると、岡崎氏の指摘どおり確かに興味深いといえる。ただし、私は前著『日本社会民主主義の形成』第9章第2節および第4節で、1902年春から片山潜と矢野との交流が始まり、同年7月から矢野が社会主義協会の演説会に出演するようになったことや、片山の主宰する『労働世界』に「社会主義談」「四級団改善の急務」など矢野の談話・論説が掲載された事実を指摘し、また矢野のユートピア小説『新社会』を、それに対する木下尚江の批評とあわせて紹介している。したがって、「著者の視角には入ってはいない」などとする岡崎氏の決めつけはいただけない

第4章「初期民友社の社会・労働問題論と「平民主義」─竹越与三郎を中心に」では、同じくヘンリー・ジョージを引用しながらも民友社内の竹越と徳富蘇峰では〈平民主義〉・〈社会問題〉の捉え方に差異があったことを指摘しているが、同じく「慈善事業の進歩を望む」(『評論』一八九四年六月五日)でジョージを引用した北村透谷との比較を付加すれば、更に興味深くなったことであろう。 (中略) 海外移民の問題も取り上げられているが、より広く文学畑の文献(内田魯庵「くれの廿八日」など)まで含めて論じてもらいたいものである。

(『初期社会主義研究』30号、261~262頁)

第4章での研究対象は、初期民友社の社会・労働問題論として1887年から1890年の時期に限定している。したがって、北村透谷の1894年の評論や、内田魯庵の小説「くれの廿八日」(1898年)は、本稿での比較検討の対象外である。


『労働世界』について〈同紙〉(二〇八頁一一行目)となっているが、これは〈同誌〉の誤記か誤植であろう。

(『初期社会主義研究』30号、262頁)

これは誤記でも誤植でもなく、『労働世界』が労働組合期成会の機関であるという事実に基づく正しい表記である。労働組合期成会について最も詳細な研究をしてきた二村一夫氏も、次のように指摘している。「1897(明治30)年12月1日、労働組合期成会の機関紙『労働世界』が創刊されました。もともと機関紙の刊行は創立当初から計画され…」、「『労働世界』は、復刻版がサイズを縮小して刊行されたことなどから、しばしば「雑誌」と間違えられていますが、実際はタブロイド判の新聞でした」(「高野房太郎とその時代 (71)」『二村一夫著作集』(オンライン版))。

事実、当時の『労働世界』は当事者たちによって例外なく「新聞」と称されているのである(「鉄工組合本部臨時本部委員総会議事速記録」『労働世界』55号、1900年2月15日、附録第一~二面)。

片山潜が主筆を務めた『労働世界』は、第一次と第二次とに区別される。第一次『労働世界』は、労働組合期成会(および鉄工組合)の機関紙として1897年12月から1901年12月まで全100号が発行された、新聞体の定期刊行物である。他方、第二次『労働世界』は、1902年4月から1903年3月『社会主義』に改題されるまで発行された、雑誌体の定期刊行物である。岡崎氏はおそらく両者を混同しているのではあるまいか

なお、当時の「新聞紙条例」には新聞と雑誌の明確な概念的区別はなく(どちらも新聞紙条例により取り締まりを受けた)、両者は主に体裁によって区別されていたといってよい(ただし雑誌のうち、「専ラ学術、技芸、統計、広告ノ類ヲ記載スル雑誌」については「新聞紙条例」ではなく「出版法」の規制を受けた)。

そして、岡崎氏の次のような私への〈アドバイス〉には看過できない問題がある。

蔑称(特に〈支那〉)に繰り返し〔ママ〕を傍記しているが、史料という観点からすると、一々傍記するよりも、寧ろ「凡例」で著者の見解として予め明確な断り書きを入れておけば良かったと考える。

(『初期社会主義研究』30号、263頁)

ここには、現在差別語として他者の尊厳を傷つける恐れのある歴史的語彙の扱いについての、岡崎氏と私との間に横たわる認識の落差がある。現在中国で歴史教育に携わっている私は、「支那」という語がその歴史的経緯のために、いかに中国の人びとの尊厳を傷つける言葉であるかを、痛切に理解している。だから、歴史的史料からの引用においても、当時の文脈におけるこの語の使われ方はどうであれ、この語が現在注記なしには決して用いられるべきではないことを示すために、繁雑をいとわずあえてこの語に〔ママ〕と傍記した次第である。この件について岡崎氏の考え方は私と異なるらしいが、氏の〈アドバイス〉を受け容れることはできない。

以上、拙著に対する岡崎氏の書評のうち、疑問を感じる箇所について私からの応答を記した。そもそも書評はその性格上、一方通行的になされることが多く、学術誌においても書評に対する査読は通常行われない。そのため、事実からかけ離れた「指摘」や、学術的客観性・公平性の担保されない「意見」「主張」ですらも、そのまま流通してしまいがちである。

書評は本来、その内容について書評執筆者が責任を負うべき著作物であるが、そうした自覚に乏しいものも散見される(岡崎氏の書評がそうだというのではない。念の為)。書評者の責任の自覚を喚起するには、書評に対する批評が不可欠であり、それがひいては書評全体のレベルを高めることにもつながるだろう。私はこれまで、自著への批評に対してはもっぱら沈黙してきたけれども、今後は上記のことを期待しつつ、なるべく積極的に応答してゆきたいと考えている。

末筆ながら、初期社会主義研究の大先輩である岡崎氏の、拙著に対する懇切かつ忌憚なき批評に、改めて感謝したい。

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(以下、2022年6月3日追記)

第一次『労働世界』について、私は上に、「『労働世界』が労働組合期成会の機関紙であるという事実」と書いた。が、第一次『労働世界』は新聞であるか、雑誌であるかという問題について、さらに以下の注釈を付けておきたい。

第一次『労働世界』発刊前の1897年9月4日の労働組合期成会第二回月次会では「雑誌発行調査委員」が選ばれ、10月10日の第三回月次会で「雑誌社」の事業についての報告が可決されている(片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』労働新聞社、1901年、第三編第一章第一節)。

ただしこれはあくまで発刊前の計画のことなので、実際に刊行された『労働世界』は計画と異なる、と見ることもできる。実際、「雑誌社」の事業は「労働新聞社」として実現したのである。そもそも新聞紙条例が適用される定期刊行物には「新聞」と「雑誌」の明確な区別基準がなく、体裁によって主観的に区別するしかない。体裁や当時の当事者自身の認識からすれば、本記事で書いたように、第一次『労働世界』は新聞とするのが適切であろう。

ただし、『日本の労働運動』の記述を重視するならば、第一次『労働世界』を雑誌とする見方も、誤りであるとまではいえないだろう。事実私も9年前の前著『日本社会民主主義の形成』では、第一次『労働世界』を雑誌として扱っていたことがあった。また本書の第5・6章は旧稿のため、この見解がそのまま残されている。本書の中に第一次『労働世界』を新聞とする見解と雑誌とする見解の両者が混在したままになっているのは、私自身のチェック不足であった。

いずれにせよ、上記の「『労働世界』が労働組合期成会の機関紙であるという事実に基づく正しい表記である」という部分は、「『労働世界』が労働組合期成会の機関紙であるという現在の有力な説に基づく表記である」と訂正されるべきであろう。


日本共産党の自衛隊「活用」論の歴史過程 [日本・現代社会]

日本共産党の志位委員長は4月7日、「参議院選挙勝利・全国総決起集会」において、ウクライナ情勢を踏まえて次のように述べた。

憲法9条を生かした日本政府のまともな外交努力がないもとで、「外交だけで日本を守れるか」というご心配もあるかもしれません。それに対しては、東アジアに平和な国際環境をつくる外交努力によって、そうした不安をとりのぞくことが何よりも大事だということを、重ねて強調したいと思います。同時に、万が一、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守りぬくというのが、日本共産党の立場であります。 (中略)  ここで強調しておきたいのは、憲法9条は、戦争を放棄し、戦力の保持を禁止していますが、無抵抗主義ではないということです。憲法9条のもとでも個別的自衛権は存在するし、必要に迫られた場合にはその権利を行使することは当然であるというのが、日本共産党の確固とした立場であることも、強調しておきたいと思います。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-04-08/2022040804_01_0.html

この発言がNHKや『読売新聞』などで報じられたことで、波紋が広がっている。
これについて、共産党は突然立場を変えたのかと訝しがる人もいれば、いや、これは綱領に沿う一貫した党の立場だ、という見方もある。実際のところは果たしてどうだろうか。

まず注意したいのは、日本共産党は敗戦直後から現在まで一貫して、日本国家が自衛権を保持することを正当なこととして主張してきたことだ。

1946年6月の衆議院本会議で日本国憲法草案の審議が行われた際、第9条の戦争放棄条項について、日本共産党政治局員の野坂参三は次のように主張した。戦争には日本の帝国主義者が起こしたような「侵略戦争」と、中国のように「侵略された国が自国を守るための戦争」すなわち「防衛的な戦争」(自衛戦争)とがある。前者は「不正の戦争」であるが、後者は「正しい戦争と言つて差支へないと思ふ」、したがって放棄すべきは侵略戦争であって自衛戦争ではない、と。それに対して吉田茂首相は、自衛戦争を認めるのは「戦争を誘発する有害な考へである」と答弁している(第90回帝国議会衆議院本会議第8号、1946年6月28日)。

他方、自衛隊については、共産党は1961年綱領(第8回党大会)で、「日本の自衛隊は……日本独占資本の支配の武器であるとともに、アメリカの極東戦略の一翼としての役割をおわされ」ており、「アメリカ帝国主義と日本独占資本は、自衛隊の増強と核武装化をすすめ、弾圧機構の拡充をおこない……軍国主義の復活と政治的反動をつよめている」として、「自衛隊の解散を要求」している。

日本共産党は、外国からの侵略に対する日本国家の武装的抵抗としての自衛を正当な権利として認める考えから、日本社会党の「非武装・中立」論とは異なる立場を取ってきた。1975年第12回党大会では、「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」の採択にあたり「急迫不正の侵略にたいして、国民の自発的抵抗はもちろん、政府が国民を結集し、あるいは警察力を動員するなどして、その侵略をうちやぶることも、自衛権の発動として当然」であり、「憲法第九条をふくむ現行憲法全体の大前提である国家の主権と独立、国民の生活と生存があやうくされたとき、可能なあらゆる手段を動員してたたかうことは、主権国家として当然」だとされた。

外部からの侵略に対し「可能なあらゆる手段を動員してたたかう」自衛権の保持の主張と、自衛隊否定の主張とを調和させることは、容易ではなかった。将来幅広い民主統一戦線を結集して「民主連合政府」が樹立され、アメリカ帝国主義を追い払い、日本が「独立・中立」の主権国家となったあかつきには、憲法9条はむしろ日本の独立・中立を守るのに必要な自衛権を制約しかねない。そこで9条を将来改定することも議論された。1980年5月の三中総で採択された「八〇年代をきりひらく民主連合政府の当面の中心政策」では、自衛隊解散に進む一方、「独立国として自衛措置のあり方について国民的な検討と討論を開始する」とされた。こうした共産党の安全保障政策方針は「中立・自衛」論と呼ばれる。

だが、冷戦終結後の90年代になると、このような共産党の「中立・自衛」論は転換されることになる。

1994年7月の第20回党大会の決議では、「憲法九条にしるされたあらゆる戦力の放棄は……わが党がめざす社会主義・共産主義の理想と合致したものである」という考えのもと、「わが国が独立・中立の道をすすみだしたさいの日本の安全保障」として「急迫不正の主権侵害にたいしては、警察力や自主的自警組織など憲法九条と矛盾しない自衛措置をとることが基本」だとしている。将来においても憲法9条を維持し、戦力を保持せず、「急迫不正」の侵略に対する自衛措置は非軍事的になされることが明記されたのである。

ところが、さらに大きな転換が、2000年11月の第22回党大会決議で行われた(https://www.jcp.or.jp/web_policy/2000/11/post-330.html )。この決議では、将来の「民主連合政府」において自衛隊問題を「段階的」に解決する方針を打ち出した。その第一段階は「日米安保条約廃棄前の段階」、第二段階は「日米安保条約が廃棄され、日本が日米軍事同盟からぬけだした段階」、第三段階は「国民の合意で、憲法九条の完全実施――自衛隊解消にとりくむ段階」であるとされる。

こうした「憲法九条の完全実施への接近の過程では、自衛隊が憲法違反の存在であるという認識には変わりがないが、これが一定の期間存在することはさけられない」として、次のように述べられている。

憲法と自衛隊との矛盾を引き継ぎながら、それを憲法九条の完全実 施の方向で解消することをめざすのが、民主連合政府に参加するわが党の立場である。 / そうした過渡的な時期に、急迫不正の主権侵害、大規模災害など、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を国民の安全のために活用する。国民の生活と生存、基本的人権、国の主権と独立など、憲法が立脚している原理を守るために、可能なあらゆる手段を用いることは、政治の当然の責務である。


こうして日本共産党は、「自衛隊を国民の安全のために活用する」という主張を始めて打ち出したのである。その背景には、98年7月の参議院選挙の比例代表で共産党が過去最高の得票数を得たことで、政権に参加する道を模索する動きが出はじめたことがあるだろう。

ただし、「急迫不正の主権侵害」下での自衛隊の「活用」というのはあくまで、将来実現されるべき、日米安保条約と自衛隊を解消してゆく過渡期たる「民主連合政府」においてのことだとされていることに、注意せねばならない。このことについて、2003年8月に行われた講演で、志位委員長は次のように明言している。(https://www.shii.gr.jp/pol/2003/2003_08/2003_0826_1.html

こうした自衛隊の段階的解消という方針は、民主連合政府と自衛隊が、一定期間共存することが避けられないということを意味します。このことから、一つの理論的設問が出てきます。そうした過渡的な時期に、万一日本が攻められたらどうするのか。この設問に対する私たちの答えは、そういうときには、動員可能なあらゆる手段を行使して、日本国民の生命と安全を守る、あらゆる手段のなかから自衛隊を排除しない、すなわち自衛隊も活用していくということが、私たちの答えです。


ところが2015年以降、この方針が変えられてゆく。2015年9月に安保法制が成立した後、日本共産党は安保法制を廃止するための政権交代を実現するため、安保法制廃止の一点で一致する政党・個人・団体による「国民連合政府」という連立政権構想を打ち出し、他の野党に選挙協力を呼び掛けた。なお、この「国民連合政府」というのが、日米安保廃棄など「民主主義革命」の課題を担う「民主連合政府」とは異なり、単に安保法制廃止の一点のみでまとまった連立政権として考えられていることは注意を要する。

この構想は、他の野党から懐疑や反対の声が出たために棚上げとなったが、これ以降「野党共闘」の選挙協力が行われるようになった。2016年7月の参院選に際し、日本共産党の「参院選法定2号ビラ」には次のように書かれている。

私たちは、自衛隊は憲法違反の存在だと考えています。同時に、すぐになくすことは考えていません。国民の圧倒的多数が「自衛隊がなくても大丈夫」という合意ができるまで、なくすことはできません。将来の展望として、国民の合意で9条の完全実施にふみだすというのが、私たちの方針です。 / それまでは自衛隊が存続することになりますが、その期間に、万一、急迫不正の主権侵害や大規模災害などがあった場合には、国民の命を守るために自衛隊に活動してもらう―この方針を党大会で決めています。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-07-01/2016070103_02_0.html

2000年の党大会決議では、「急迫不正の主権侵害」下での自衛隊の「活用」というのは、あくまで将来の「民主連合政府」でのことだとされていたのが、このビラではそれがあいまいになっている。2017年1月の第27回党大会の決議においても、次のように述べられている。

かなりの長期間にわたって、自衛隊と共存する期間が続くが、こういう期間に、急迫不正の主権侵害や大規模災害など、必要に迫られた場合には、自衛隊を活用することも含めて、あらゆる手段を使って国民の命を守る。日本共産党の立場こそ、憲法を守ることと、国民の命を守ることの、両方を真剣に追求する最も責任ある立場である。

https://www.jcp.or.jp/web_policy/2017/01/post-746.html

自衛隊の「活用」は「民主連合政府」が将来樹立された後のことである、という2000年決議での限定が、この2017年の決議では消えてしまっている。前年の参院選での野党共闘に対しては、与党側から、自衛隊を違憲とする共産党と、立場の全く異なる他の野党とが共闘するのは「野合」だ、という非難が盛んになされた。そうした攻撃に対し、野党共闘の正当性を主張するための論理を作る中で、この決議が打ち出されていることに注目したい。ここでは、非自公政権に共産党が参加する場合、党は「急迫不正の主権侵害」に対する自衛隊の「活用」に反対しない、ということが示唆されているようにみえる。

今年2022年のはじめ、日本共産党は「あなたの「?」におこたえします」というパンフレットを作成し、将来共産党が政権に入った場合(あるいは閣外協力)、日米安保・自衛隊・天皇制など基本的な国策をどうするかを説明している(https://www.jcp.or.jp/web_download/202202-JCP-gimon.pdf )。その中で、「私たちは“安保条約の賛否”をこえて、皆さんと力をあわせます」、「与党になったら天皇制は廃止?そんなことは絶対にしません」などと明記するのとともに、自衛隊については次のように説明している。

国民が「なくても安心」となるまでは存続/ 共産党は、いますぐ自衛隊をなくそうなどと考えていません。将来、アジアが平和になり、国民の圧倒的多数が「軍事力がなくても安心だ」と考えたときに、はじめて憲法9条の理想にむけてふみだそうと提案しています。 / 万が一、「急迫不正」の侵略をうけたら…自衛隊もふくめて、あらゆる手段をもちいて命を守ります。国民の生存、基本的人権、国の主権と独立を守るのは、政治の当然の責務だからです。


このパンフレットに「民主連合政府」の文字はどこにもない。ここに読み取れるのは、共産党が非自公政権に参加した場合、あるいは閣外協力の場合でも、「急迫不正」の侵略に対しては自衛隊の武力行使を認める、ということである。パンフレットの末尾には、「安保条約や自衛隊など、他の野党と意見のちがう問題を政権には持ち込みません」と明記されている。

ここでもう一度、冒頭で挙げた今月7日の志位委員長の発言を検討しよう。

憲法9条を生かした日本政府のまともな外交努力がないもとで、「外交だけで日本を守れるか」というご心配もあるかもしれません。それに対しては、東アジアに平和な国際環境をつくる外交努力によって、そうした不安をとりのぞくことが何よりも大事だということを、重ねて強調したいと思います。同時に、万が一、急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守りぬくというのが、日本共産党の立場であります。 (中略) ここで強調しておきたいのは、憲法9条は、戦争を放棄し、戦力の保持を禁止していますが、無抵抗主義ではないということです。憲法9条のもとでも個別的自衛権は存在するし、必要に迫られた場合にはその権利を行使することは当然であるというのが、日本共産党の確固とした立場であることも、強調しておきたいと思います。


この志位発言には、従来の共産党の見解に新しく付け加えられたことがある。「急迫不正」の侵略に対して自衛隊を使用する目的は従来、「国民の生命と安全」を守ることとされていたのが、ここではさらに「日本の主権を守り抜く」ことがはっきりと付加されたことである。さらに、共産党の参加・協力する政権に限らず、現在の自公政権においても、「急迫不正の主権侵害が起こった場合」には、「個別的自衛権」の行使、すなわち「自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守りぬく」のが共産党の立場だ、と宣言しているように読み取れるのである。

自衛隊の使用をめぐる今回の志位氏の発言の趣旨は、決して突然現れたものではない。その原型は、2000年の大会決議における党の方針転換において生まれたものであった。そしてその原型は以後、二十数年間の政治情勢の変化の中で徐々に変質を加えてゆき、ウクライナ戦争勃発による危機感の高まりによって、ついにここに至ったのである。

国会内政党の中で最も「左」に位置する共産党の自衛隊をめぐる見解の変化は、近年の国際情勢の変動に伴う日本の世論全体の動きを反映しているのであろう。ともかく今後、自衛隊の武力行使をめぐって、国会で「挙国一致」の状況が出現しないとも限らない。そういう悪夢だけは決して見たくないものだ。

1896年徳富蘇峰の欧州旅行と青木周蔵書簡 [日本・近代史]

今学期の授業では、『徳富蘇峰関係文書』(全3巻、山川出版社)に収録された徳富蘇峰宛てのさまざまな書簡を学生たちといっしょに読んでいる。長春市は先月11日からすでに一か月近くロックダウンが続いており、大学キャンパスも封鎖されたままなので、オンライン授業となっているけれども。

幕末の動乱期に生まれ、明治維新から大日本帝国の滅亡に至る全過程を経験し、さらに新憲法制定、東西冷戦の開始、55年体制の成立を経て、亡くなるまでの蘇峰の95年の生涯は、近代日本の栄光と没落、光と闇とを体現するものといってよい。

蘇峰は1863年、肥後水俣の惣庄屋の家に生まれ、14歳で熊本バンド(日本プロテスタント・キリスト教の源流の一つ)の結盟に参加、京都の同志社英学校に学び、帰郷後は自由民権運動に参加した。さらに上京して1887年民友社を創立、雑誌『国民之友』と日刊『国民新聞』を創刊して「平民主義」を中心に平和・自由・進歩を説き、一躍論壇の寵児となった。が、日清戦争の頃から「日本膨張論」ついで帝国主義に転じ、「変節者」との罵声を浴びつつ藩閥政府に接近、『国民新聞』は桂太郎の機関紙となって日露戦争遂行に全面協力したあげく、その社屋は1905年の日比谷焼打事件で民衆に襲撃された。

韓国併合の1910年、蘇峰は朝鮮総督府の機関紙『京城日報』の監督となり、翌年には貴族院勅選議員に就任、皇室中心主義および「白閥打破」を唱えて大正デモクラシーに対抗した。31年の満洲事変後は軍部と結んで「興亜の大義」「挙国一致」を唱え、国民を戦争に動員する言論界の動きを主導した。40年、日独伊三国軍事同盟締結の建白書を近衛文麿首相に提出、41年には東条英機首相の依頼で「大東亜戦争」の「開戦の詔書」の作成に関与した。42年、大日本言論報国会会長に就任、43年文化勲章を受章。

45年敗戦後、蘇峰は「百敗院泡沫頑蘇居士」の戒名を自称、A級戦犯容疑者に名を連ねたが、高齢のため自宅拘禁となり、後に不起訴とされた。公職追放処分を受けて46年貴族院勅選議員を辞任、文化勲章を返上して、熱海に隠遁した。52年『近世日本国民史』全100巻を完結。57年死去。

95年に及ぶ長い生涯の間、蘇峰は新聞人として政財界・思想界・文学界・芸術界・学界の大物たちと交際している。自由民権期から戦後に至る、近代日本の各界の著名人から蘇峰に宛てられた膨大な数の書簡を蘇峰は保存していた。うち約4万6千通(差出人数約1万2千人)の書簡が、神奈川県二宮の徳富蘇峰記念館に所蔵されている。IMG_4420.JPGその一部をまとめて公刊されたのが『徳富蘇峰関係文書』だが、大部分の書簡は未公刊のまま同館に眠っている。まさしく日本近代史・思想史の史料の宝庫といっていい。

今学期の授業では、藩閥官僚・政治家(青木周蔵・井上馨・井上毅・大隈重信・桂太郎・金子堅太郎・清浦奎吾)たちの蘇峰宛ての書簡を読んでいる。書簡の大部分は候文なので、その読み方の訓練を兼ねた授業である。中国の学生たちは漢文体の文語を読むのは得意だが、純和文体や候文はあまり読み慣れていない。ただし候文については、読み方のちょっとしたコツを教えると飲み込みが早く、やがてすらすらと読めるようになる。

先日は青木周蔵の書簡19通を読んだ。青木といえば、高校の日本史ではもっぱら条約改正(特に治外法権の撤廃)に尽力した外交官として登場するが、藩閥官僚政治家の中でもとくに過激な彼の侵略主義的外交思想については、あまり知られていないだろう。

1889年、青木は第一次山県有朋内閣の外相に就任した。山県首相は翌90年12月、第一回帝国議会の施政方針演説で、次のように主張した。国家の独立自営のためには、主権線(国境線)を守るだけではなく、その安全と密接に関係する地域=「利益線」の防護が重要である、と。「利益線」とは具体的に朝鮮を指す。日本の独立維持のためには朝鮮を影響下に置くことが必要というわけで、そのための軍拡予算の必要を山県は国会に訴えたのである。

ちなみにこの「利益線」という考え方は、ロシアが自らの独立維持に不可欠な勢力圏としてウクライナのNATO加盟を絶対に阻止しようと侵略戦争を起こした発想と、どこか似ている。

同じ1890年、青木周蔵外相は「東亜細亜列国ノ権衡」という意見書を提出した。それは山県の「利益線」論よりもさらに「積極的」=侵略的なものだ。この意見書の中で青木は、ヨーロッパが戦乱に入る時期を狙い、日本と清国が連合してロシアを討ち、朝鮮を日本の版図とし、さらに「満洲」(中国東北部)とカムチャッカをも日本の手中に収め、その代わりにシベリアを清国に与える、という外交政略を提言している。山県もびっくりの誇大妄想的な侵略思想だ。

さて、徳富蘇峰は1896年から97年にかけて欧米を旅行したが、当時の日本の知識人がもっぱら西欧に目を向けていたのに対し、蘇峰が東欧を重視したのは特徴的だ。彼はロシア帝国(ポーランドやウクライナを含む)、ルーマニア、オーストリア=ハンガリー帝国、トルコを巡遊し、ブカレストではルーマニア国王・首相のほか、たまたま来訪中のセルビア国王にも謁見している。ロシア帝国ではポーランドのワルシャワ、サンクトペテルブルク、モスクワのほか、ウクライナのキーウ(キエフ)とオデーサ(オデッサ)にも滞在した。

その間、蘇峰はヤースナヤ・ポリャーナのトルストイの屋敷を訪問し、親しく話をした。「人道」と「愛国心」とについて、トルストイは両立しないと言い、蘇峰は両立すると言った。蘇峰はトルストイ家で拾った木の葉を記念に持ち帰った。それを押し葉にした帳面は今も蘇峰記念館で見ることができる。なおトルストイは、日本の「雑誌編集者で大金持ち」「貴族」「聡明で自由思想の人」という蘇峰の印象について、モスクワの妻に宛てた手紙に書いている。

この旅行の途次、蘇峰はベルリンで駐独公使の青木に会った。互いに意気投合したようで、欧州旅行中の蘇峰に宛てて青木が書いた手紙が7通残されている。

うち、1897年4月20日付の青木の蘇峰宛書簡は興味深い。この手紙で青木は、日本の政界から体よく左遷されているわが身の不遇をかこち、自分の「不人望」について愚痴をだらだらと並べた後、自分自身の抱懐する外交政策を次のように披瀝している。

「老生は大臣時代に先〔さきだ〕ち既に呂宋〔ルソン〕を領略するの意ありて今尚ほ窃〔ひそか〕に之〔これ〕を抱持す……故に老兄若〔も〕し之〔これ〕を協賛するに意あらば西班牙〔スペイン〕人之〔の〕注意を惹起せざる様に運動して我同胞数千(数万なれば更に善し)を該島に出稼または移住する様に御駆引有之度〔これありたく〕候」


ここには、青木が長年抱いているというフィリピンに対する露骨な侵略の意図が、赤裸々に述べられている。そしてその手始めとして、日本人を数千または数万人移住させるという策を蘇峰に授けている。さらに青木は、陸軍の重鎮で日清戦争の際に征清総督府参謀長を務めた川上操六中将に宛てて、次のようなことづてを蘇峰に頼んだ。

「日本は来年(今年と申さば無理ならん)に至り露と戦ふの準備あるや。遼東鶏林之恥辱を雪〔すす〕ぐに意あるは老生之確信する処なれども果〔はたし〕て然らば速〔すみやか〕に準備を整ふべし。……と窃〔ひそか〕に御伝可被下〔おつたえくださるべく〕候」

「遼東鶏林〔鶏林は朝鮮の異称〕之恥辱」とは、日清戦争で分捕った遼東半島を露・仏・独の三国干渉によって手放さざるを得なくなったことと、閔妃暗殺事件後に朝鮮王宮が日本の影響力を排除しロシアを頼るようになったこととを指す。これらの「恥辱」をすすぐために、ロシアとの戦争準備を速やかにはじめる(それによって遼東と朝鮮を分捕る)べきだと、青木は提言しているのである。

この手紙の末尾に青木は次のように書いている。
「秘密々々御一見後御焼棄可被下〔くださるべく〕候」
読み終わったら手紙を焼き捨てるよう、蘇峰に頼んでいるのである。しかしどういうわけか、蘇峰は青木の指示に従わず、この「秘密」の手紙をわざわざ日本まで持ち帰り、大切に保管した。その結果、青木の恐るべき侵略思想が、その愚痴もふくめて永遠に記録され、125年後に中国で授業の教材にされることになるとは、青木も蘇峰も想像すらしなかったであろう。

2021年衆院選と社民党――「無産政党」の来し方、行く末 [日本・現代社会]

一昨日投開票された衆院選の結果がほぼ出そろった。「予想どおり」「予想外」の両面があるこの結果について、すでにさまざまな分析や論評が出ている。

ここで私は、比例代表で社民党の議席獲得数がついにゼロになった事実について考えたい。

社民党は、2012年以来三度の総選挙で、沖縄の小選挙区で1議席、九州ブロックの比例代表で1議席のみという低迷が続いていた。それが今回、ついに九州ブロックの議席を失うことになった。
昨年末の立憲民主党との合同問題をめぐる分裂騒動から、この事態はすでに予想されていたのではあるが。
政党交付金の対象となる政党要件の維持どころか、党そのものの存続すらもはや危うい状況だ。

社民党の党勢の衰退は最近はじまったことではない。その衰勢はすでに四十年前、前身の日本社会党において誰の目にも明らかになっていた構造的な問題といえる。

そこには大きくいえば、支持層の維持・拡大の失敗、党指導部や活動家の世代交代の失敗、基本政策のなし崩し的転換の失敗、という三つの失敗があったように思う。

①総評の組織の上にあぐらをかき、その解体後は「風」頼みとなり、冷戦終結前後の政治構造の根本的変動に対応できず、保守勢力の攻勢を前になすすべもなく、「非自共」および「自社さ」政権のぬるま湯につかっている間に足元の地盤はますます空洞化し、やがて崩壊した。

②党勢の衰えにつれてパイが小さくなると、古参の人々は既得の小利権にしがみついて若い世代の育成を怠り、組織に新しい活力が失われ、ますますパイが小さくなるという悪循環。今や社民党の高齢化は他党と比べても群を抜く。党組織も運動団体も支持層も、日本社会の高齢化を見事に先取りする逆ピラミッド型だ。

③もともと左右のイデオロギー対立が激しいところに、政権というエサを与えられたとたん、日米安保体制・自衛隊・憲法といった国家観の基幹にかかわる政策になし崩し的転換が行われた。その不透明な決定過程は、多くの支持者の信頼を失う結果となり、運動の分裂と衰退を招き、この政党に対する不信感を残したまま、現在に至る。

この三つの失敗は互いに結びつき、負の面がいっそう増幅されている。

他方、同じ党名のドイツ社民党(SPD)が9月の連邦議会選挙で16年ぶりに第1党となる勝利を収めたことは、記憶に新しい。

SPDも、日本の社民党も、その起源をたどれば19世紀後半~20世紀初頭の国際社会主義運動にゆきつく。日本の場合は1901年の社会民主党結成後、弾圧による断絶や内部分裂によって党名の変遷が激しいが、20世紀初頭の社会主義運動の中心にいた安部磯雄や山川均は、戦後の日本社会党結成にあたって、その右派と左派の最長老であった。

ドイツ社民党の結成にあずかった一大勢力アイゼナッハ派はエンゲルスを相談役とし、同党は長らくマルクス主義を指導思想とする労働者階級の政党だった。ところが冷戦下の50年代末、SPDはマルクス主義から離れて「国民政党」に転換、西欧社民(民主社会主義)勢力の主流となった。

それに対して、冷戦下の日本社会党は「民主社会主義」を標榜する一部の右派が60年に離脱したが、その後も山川均以来の労農派マルクス主義をひきつぐ「協会」派や、「構造改革」派その他、複雑で激しいイデオロギー対立は陰険な派閥的権力闘争と結びつき、泥沼の様相を呈した。冷戦終結前後の「西欧社民」主義への転換もなし崩し的に行われ、しかも中途半端に終わった。

96年の社民党への党名変更も、積極的な理念に基づくものとはいえず、なんとなく世論に受け入れられやすそうな名前に変えてみました、くらいのものでしかあるまい。

もちろん、冷戦下の社会情勢や国際関係、歴史的背景の違いから、日本社会党がSPDのような「西欧社民」型政党に転換する可能性があったかというと疑問があるし、それが本来望ましかったはずだと断言することもできない。

それはともかく、SPDとは対照的に、日本社会党・社民党が急角度に没落への道をたどったのは、権力の弾圧を受けたからではなく、むしろ、戦後政治の転換期にあらわれた党内外の諸問題に真剣に取り組む意志もリーダーシップもないまま、成り行き任せに失敗に失敗を重ねた結果の自滅、といわねばならないだろう。

今回の衆院選で、無党派層の「風」は、左右のポピュリスト政党「維新」と「れいわ」に向かって吹き、「立民」も「共産」も議席を減らす結果となった。「社民」は「れいわ」のはるかに後塵を拝し、比例の得票では「N党」と肩を並べる泡沫政党にまで転落した。

「無産階級」の国際社会主義運動に由来する政党(共産・社民)の議席数は今や、男子普選がはじまった1920年代のレベルにまで後退している。当時の無産政党が、治安維持法・治安警察法による暴力的弾圧にも耐えて議席を得たことを考えれば、そうした苛烈な治安立法の存在しない現在のほうが、「無産政党」の置かれた状況はより深刻だ。

世論の流れといえばそれまでだが、しかし本当にそれでいいのか?新自由主義やナショナリズムの煽動が猛威をふるう今の日本で、「無産政党」が本来果たすべき役割は小さくないだろう。百数十年の歴史を背負ってきたそのひとつの灯が今、消えつつあることの深刻さを考えたい。

三度(みたび)二村一夫氏の反論に答える――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

三年ぶりのブログ更新となります。

日本で最初に労働組合の結成を主張した論説とされる「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者は誰か、という問題をめぐり、三年前、二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との間で論争が起こりました。

二村氏がその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)およびWEB版『二村一夫著作集』において、「労働者の声」の筆者を高野房太郎であると断定したのに対し、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)で二村氏の説に根拠がないことを指摘し、竹越与三郎こそ「労働者の声」の筆者である蓋然性が高いことを述べました。その後、私の指摘に反論する二村氏のWEB版『二村一夫著作集』と、それに再反論する拙ブログの間で、論争となったのです。

私はこの論争において、二村氏の主張の多くが事実誤認にもとづいており、高野房太郎説は学術的に存立の余地のないことを立証しました。(「再び二村一夫氏の反論に答える(1)」2018年6月10日「再び二村一夫氏の反論に答える(2)」2018年6月16日「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」2018年6月17日)。また同時に、私自身の竹越与三郎説も根拠がまだ不十分であることを反省したうえで、「『国民之友』だけではなく『国民新聞』の膨大な論説の検討が不可欠」であると、今後の課題を提示しました。

その後二村氏は、論文「再論・「労働者の声」の筆者は誰か?」『大原社会問題研究所雑誌』(730号、2019年8月)において、高野房太郎執筆説が誤りであったことを自ら認められました。学術的良心に基づき自説を撤回された二村氏の勇気に、私も感銘を受けました。

しかし二村氏は同論文において、高野房太郎説を撤回するのと同時に、竹越与三郎説の「蓋然性は限りなくゼロに近い」と述べ、徳富蘇峰を「労働者の声」の筆者とする新説を提唱されました。

これに対して私は最近、この問題をめぐる現時点での自分なりの結論として、論文「初期民友社の社会・労働問題論と「平民主義」―竹越与三郎を中心に」『大原社会問題研究所雑誌』(751号、2021年5月)を発表しました。この拙論で私は、竹越与三郎・徳富蘇峰ら民友社の社会・労働問題論を分析し、とりわけ私が先に今後の課題としていた『国民新聞』所載の社会・労働問題論説を精査したうえで、二村氏の新説=徳富蘇峰説の是非を論じつつ、「労働者の声」の筆者について再検討しました。リンク先から拙論のPDFファイルをダウンロードできますので、興味のある方はぜひお読みください。

従来の研究で看過されてきた『国民新聞』の論説を一つ一つ精査するなかで、私は一つの発見をしました。それは、長年の間、日本で最初に労働組合の結成を提唱した論説であると考えられてきた「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)より七か月も前に、『国民新聞』25号(1890 年2 月25 日)の社説「労働者の組合」がすでに労働組合の結成を提唱していた事実です。この社説以後、『国民新聞』には労働問題・労働運動をめぐる論説がたびたび掲載されており、『国民新聞』179 号(1890 年7 月29 日)の社説「職人の無気力」において再び、労働者の地位向上のための団結が提唱されています。これらの社説はいずれも無署名ですが、竹越が『国民新聞』の社説・論説担当の政治記者として1890年初頭、国民新聞社(民友社)に入社した事実に留意すべきでしょう。

このように新たに発掘された『国民新聞』の労働問題・労働運動論の延長線上に、「労働者の声」を位置付けることができることを、私は拙論で明らかにしました。

一方、私は拙論において、1880年代末から1890年に至る竹越与三郎と徳富蘇峰の「平民主義」の主張を比較しつつ分析しました。竹越の「平民主義」は、産業革命による生産力の進歩がもたらす貧富の懸隔や労資の矛盾など「社会問題」に着目し、富の分配を正し貧富の両階級が調和する社会の実現を目指すものでした。それに対して蘇峰の「平民主義」は、産業革命による生産力の進歩を楽観的に展望し、農商工の非特権的な地方名望家の政治的主体としての成長を高く評価するものでした。上に述べた『国民新聞』社説の労働問題・労働運動論(および『国民之友』の「労働者の声」)の思想的基礎には、蘇峰よりもむしろ竹越の「平民主義」の理念があるとみるべきでしょう。

なお二村氏が「労働者の声」の筆者として新たに蘇峰説を提唱し、竹越説を否定した根拠は、①文体、②使用語彙、③内容の三点にまとめられます。しかし、この三点をめぐる二村氏の分析と推論には、学術的に妥当とはいいがたい方法・史料・解釈上の問題が多々あることがわかりました。

例えば二村氏は、「労働者の声」と、竹越の論説「社会問題の成行」(『六合雑誌』81号、1887年9月30日)および蘇峰の論説「平民的運動の新現象」(『国民之友』69号、1890年1月3日)それぞれの総文字数・句点数・読点数を数えて、句点で区切られた一文の平均文字数と、句点と読点とで区切られた部分の平均文字数とをそれぞれ算出し、「労働者の声」の数値は竹越の文章よりも蘇峰の文章の数値に近いと結論して、これをもって文体の面から蘇峰執筆説の有力な根拠の一つとしています(67-68, 74ページ)。

この数値を算出するにあたり二村氏は、竹越の「社会問題の成行」のテキストとして、西田毅編『竹越三叉集』(三一書房、1985年)を利用しています。ところが実は、『六合雑誌』に掲載された「社会問題の成行」の初出テキストには句読点がほとんどなく、二村氏が数えた句読点の大部分は、『竹越三叉集』の編者が校訂の際に便宜上付加したものだったのです。ですから二村氏の算出した数値は、竹越と蘇峰の文体を比較するうえで全く参考になりません。

二村氏の新説には、そのほかにも深刻な問題が多々ありますが、詳しくは拙論の本文の3(2) をご覧ください。「労働者の声」の筆者をめぐる問題について、私は次のように結論しました。

----------------(引用はじめ)
以上、「労働者の声」の筆者は蘇峰であるとする二村氏の説について検討してきた。文体・使用語彙・内容をめぐる氏の分析と推論には、方法・史料・解釈上の問題が少なからずあり、氏の結論を支持するための十分な根拠は見出せないと言わざるを得ない。そもそも、文体および使用語彙から「労働者の声」の筆者を確定するのは困難であろう。ただし先述のように、「労働者の声」の内容が、竹越の入社後に『国民新聞』の社説・論説で盛んに唱えられた「社会問題」論および労働問題・労働運動論の直接の延長線上にあることを考えあわせるならば、その筆者が竹越自身であると確定できないまでも、彼独自の「平民主義」の論理に沿って書かれたものとみて差し支えないと考える。
----------------(引用おわり)

「アジアにおけるマルクス主義の伝播」シンポジウム [東アジア・近代史]

11月17・18日、上海の華東師範大学で開催された「アジアにおけるマルクス主義の伝播」をめぐるシンポジウムに参加した。このテーマで、中国大陸・台湾・朝鮮半島・日本の各地域から50人を超える研究者・作家・芸術家たちが一堂に会したこと自体、意義のあることだろうと思う。

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会議の中で考えたことをいくつか、備忘録として記しておく。

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1.アジアのマルクス主義は、ロシア革命後の国際共産主義運動との連関で発展し、植民地解放・反帝国主義の闘争と結合したことではじめて実践的に大きな意味をもった。

2.「民族」解放と「階級」闘争とをどのように関係づけるか(さらに「民族」「階級」の概念自体をどのように捉えるか)をめぐっては、原則上・戦略上にさまざまな考え方があったし、今もある。各地の運動がかつてコミンテルンの指導の混乱に振り回されたのは周知のこととして、現在でも「民族」「階級」をめぐり、理論上・運動上の深刻な分裂がある(特に台湾、韓国)。

3.アジアの中でも、日本の社会(主義)運動は三つの点で特異な例外をなしている。①レーニン主義が主流になる以前の社会民主主義・無政府主義運動の経験をもち、それが長く尾を引いていること。②帝国主義本国における運動であること。③天皇制との対決を強いられていること。それらのことは、戦前から戦後を通して、日本の社会運動にナショナリズムや帝国主義問題をめぐって特殊な陰影を与えてきたし、今も与えている(戦後責任問題など)。

4.上と関連して、日本共産党の党史などに、戦前の台湾共産党(日本共産党台湾民族支部)や、在日朝鮮人の役割、旧満洲での運動(日本共産党満洲地方事務局)等のことがなおざりに(というよりも無視)されてきたのは、見過ごしてよい問題ではないだろう。

5.マルクス・レーニン主義が、ある国家体制の根幹をなす指導的思想となり、その正統性が国家権力と結合するとき、マルクスの予見しなかったさまざまなことが起きたし、いまも起きている。

6.大陸の執政党に近い台湾の「統一左派」の紹介と顕彰は、会議の中心テーマの一つだった。今回はじめて、彼らの歴史とその論理の一端について知る機会に恵まれた(とくに2.28や「保釣運動」をめぐる件、米日帝国主義との闘争など)。ただし「民族」「階級」問題をめぐる台湾の左派における運動・思想上の激烈な対立について、事情に疎い部外者がにわかに立ち入るのは憚られる。
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政治的に敏感なテーマを含むシンポの議論には暗黙の制約があり、自由闊達な発言にはばかりがあったのは仕方がない。むしろ会議の後、いろいろな人と出会い、語り合えたことこそ、実に有益だった。

「自由湯」の引き札 [日本・近代史]

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先日一時帰国の際、京都の古本市で買った明治時代の「自由湯」という薬の引き札(宣伝広告)。

自由民権をアジった流行歌、川上音二郎の「オッペケペー節」の冒頭に、「権利幸福きらいな人に、自由湯をば飲ましたい、オッペケぺ~」と出てくる、あの「自由湯」だ。もちろん「自由党」にかけられているわけだが、本当に「自由湯」なる薬が存在していたとは。

引き札の口上も振るっている。「大人小児 四季(いちねんぢうの)風邪薬(かぜくすり) 熱醒(ねつさまし) 頭痛(づつう) 逆上(のぼせ) 啖咳(たんせき) 傷冷(ひゑこみ) 暑邪(しよきあたり) 中湿(ねびへ) 霍乱(くわくらん) 腹瀉(くだりばら) 産前産後温ニ吉(さんぜんさんご あたためによし)」。定価二銭の万能薬だ。

ちなみにこの「自由湯」の発売元、「大和国葛上郡御所町」の「本舗 玉巻」はおそらく、戦前から戦後にかけての奈良県の製薬会社「玉巻自由堂薬房」の前身で、少なくとも1970年代までは営業していたようだ。

日本人の宗教的「寛容」性?――和辻哲郎『尊皇思想とその伝統』(岩波書店、1943年) [日本・近代史]

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今学期の授業では、和辻哲郎『尊皇思想とその伝統』(岩波書店、1943年)を学生たちと一緒に読んでいる。先日の授業で扱ったのは、有名な「祀る神」「祀られる神」を和辻が論じた部分だが、学生たちから質問(というか失笑)が出たのは次の箇所。

「(日本古代の神観念では)究極者は一切の有るところの神々の根源でありつゝ、それ自身いかなる神でもない。云ひかへれば神々の根源は決して神として有るものにはならないところのもの、即ち神聖なる『無』である。それは根源的な一者を対象的に把捉しなかつたといふことを意味する。絶対者に対する態度としてはまことに正しいのである。…(中略)…それはやがてあらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性として、我々の宗教史の特殊な性格を形成するに至るのである。」(44頁)
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学生の質問は、「日本の宗教史の特殊な性格」が「あらゆる世界宗教に対する自由寛容な受容性」にある、という和辻の説明が、まったく理解できないということ。16世紀末からのキリシタン弾圧や、近代の国家神道下の「信教の自由」の実態はいうまでもなく、人々の宗教意識においても、いったいどこに「自由寛容な受容性」があるのか?

日本の宗教観念にたいするこのような自画自賛の箇所は、戦時中に書いたこの本を和辻が戦後に改訂した『日本倫理思想史』(1952年)においても、ほとんど変わりがない。

日本人は宗教的に「寛容」だ、などという言説は今でもしばしばみられるが、そのような「神話」の出どころは、あるいはこの辺にあったのかもしれない。もちろん、結婚式は教会で、葬式は寺で、みたいな宗教観念の雑居性は、宗教的「寛容」と何の関係もないのであるが。

和辻は1943年4月に海軍大学校で「日本の臣道」という講演を行っている。この講演で和辻は、日本人の宗教意識の「寛容」さと「尊皇」との関連について、次のように述べている。

---------------------(引用はじめ)
我々の祖先は究極のもの、絶対的のものを特殊の形に限定しないで、不定のままに、無限定のままにとどめているのであります。(中略)

天皇は天つ日嗣にましますがゆえに、すなわち天照大御神の神聖性を担いたもうがゆえに、現御神にましますのであります。その神聖性は絶対者のものでありますが、しかしその絶対者は無限定のままであり、そうしてその限定された形が天照大御神と天つ日嗣とであります。そうなれば天皇への帰依を除いて絶対者への帰依はあり得ないことになります。これが尊皇の立場であります。

この立場は絶対者を国家に具現せしめる点においていわゆる世界宗教よりもはるかに具体的であり、絶対者を特定の神としない点においていわゆる世界宗教よりも一段高い立場に立つのであります。従ってどんな宗教をも寛容に取り入れ、これを御稜威の輝きたらしめることができるのであります。万邦をして所を得しめるという壮大な理念はこの高い立場に立っているのであります。
---------------------(引用おわり)
『和辻哲郎全集』14巻(岩波書店、1962年)307~308頁

和辻のいわゆる日本の宗教的「寛容」という観念が、天皇(現人神)崇拝と全く矛盾しないどころか、密接に結びついていたことがよくわかる。この宗教的「寛容」こそ、「万邦をして所を得しめる」(1940年、日独伊三国同盟締結の際の天皇の詔書に出てくる言葉)という「壮大な理念」(!)につながるというわけである。
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再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

「再び二村一夫氏の反論に答える」は今回で完結します。

これまでの二村一夫氏と私との論争の経過と、私の主張については、以下の本ブログ記事をご覧ください。

「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について〔2014年5月5日〕
二村一夫氏の反論に答える〔2018年5月13日〕
再び二村一夫氏の反論に答える(1)〔2018年6月10日〕
再び二村一夫氏の反論に答える(2)〔2018年6月16日〕

また、二村一夫氏の主張と反論については、WEB版『二村一夫著作集』の以下のリンクをご覧ください。

高野房太郎とその時代 (38)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(2)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)

【3.高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠は妥当か?】

二村一夫氏が『国民之友』の社説「労働者の声」(95号、1890年9月23日)の筆者は高野房太郎であると断言する主な根拠は、「労働者の声」と、高野の「日本に於ける労働問題」(『読売新聞』1891年8月7~10日)など同時期の高野の文章とを比較し、両者の筆者が同一だという推論による。二村氏は著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)において、その推論の理由を四つ示している。しかし、その理由がいずれも説得力のないことを、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)および本ブログ2014年5月5日の記事ですでに指摘してある。

二村氏は私の批判に対し、「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)で反論している。この反論が妥当かどうか、検討を加えたうえで、二村氏の説が学術的に全く成り立たない理由を改めて示したい。

3.1 二つの論説の文章の論旨は一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」の執筆者は高野であると考える第一の根拠として、「労働者の声」と、高野の論説「日本に於ける労働問題」とは論旨が一致すると、次のように主張している(99頁)。

----------------(引用はじめ)
この論稿〔「労働者の声」―引用者注〕は「同業組合」=「労働組合」および「共同会社」=「協同組合」の結成こそが、日本の労働者の地位を向上させる鍵であると主張していますが、これは高野房太郎「日本に於ける労働問題」と完全に一致しています。また、引用は省きましたが同盟罷工に対する態度など、細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません
----------------(引用おわり)

これに対して私は前掲拙著で、「労働者の声」と高野の「日本に於ける労働問題」とは、労働組合の機能にかんする説明において、①前者が共済的機能を最も重視しているのに対し、後者はそれを二次的な「方便」としていること、②前者が同盟罷工(ストライキ)の機能を重視しているのに対し、後者は同盟罷工の効力に否定的であること、③後者は教育的機能を重視しているが、前者はそうした観点がないこと、という三つの点にわたる食い違いを指摘した。

これに対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論している。

----------------(引用はじめ)
「労働者の声」と「日本における労働問題」は、同じ時期に、まったく同じテーマで書いているわけではありません。論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です。…(中略)…私が注目したのは、論旨や用語の細部にいたるまでの一致ではなく、「労働者の声」の論旨が全体として、高野房太郎の他の論稿や、彼のその後の言動と、いささかの矛盾もない事実なのです。
----------------(引用おわり)

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」の論旨は「細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません」と断言したはずだ。しかるに「再論(3)」では、「論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です」などと開き直っている。自家撞着とはこのことをいう

ましてや、私が指摘しているのは決して「細部」ではない。〈労働組合はいかなる機能をもつべきか〉についての説明は、「労働者の声」においても「日本に於ける労働問題」においても、最も大切なテーマである。この肝心なところで、二つの論説の趣旨は三点にわたって食い違っている。とりわけ、二村氏は前掲著書で「同盟罷工に対する態度など、細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません」と断言し、それを二つの論説の筆者が同一であるという主張の根拠としていたが、まさにこの「同盟罷工に対する態度」で、二つの論説の論旨は大きく「食い違」っているのである。そしてこのことは、二つの論説の筆者が別人であることを、強く示唆している。

3.2 二つの論説の「呼びかけ」の姿勢は一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」と高野の「日本に於ける労働運動」との一致点について、さらに次のように述べた。

----------------(引用はじめ)
また「労働者の声」は、この呼びかけを労働者に向かって発しているのではなく、世の慈善心ある義人、天下の志士仁人に向かって説き、労役者の友となるよう訴えています。この姿勢も房太郎と完全に一致しています。
----------------(引用おわり)

これに対して、私は前掲拙著において次のように批判した。「労働組合の結成を労働者自身に任せておくべきではない理由として、高野の「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者における倫理性の欠如を強調するのに対し、「労働者の声」は、日本の労働者が世論を喚起する手段を持たないことを指摘するにとどまり、労働者の倫理性についての言及はない」(188頁)。つまり、二つの論説は、その呼びかけの「姿勢」において、「完全に一致」しているなどとは決していえないのである。

この批判に対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論している。「論稿によって、その主張のポイントの細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なことです。二つの論文がまったく同じことを繰り返すはずもないのです。

二村氏は前掲著書で、二つの論説が有識者に呼びかける姿勢は「完全に一致」していると断定したではないか。しかるに今や、「細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なこと」などと自家撞着の言を放ってはばからない。しかも、二つの論説の労働者観が異なっていることは、果たして「細部」などとみなして無視できることだろうか。それはむしろ、二つの論説の筆者が別人であることを示す、重要なポイントの一つなのである。

3.3 二つの論説は用語が一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」と高野の諸論稿とが、文体や用語の点で一致しているとして、次のように書いている(99頁)

----------------(引用はじめ)
さらに「労働者の声」は、論旨だけでなく、文体や用語の点でも、房太郎の論稿と共通するところが少なくありません。たとえば「吾人」「労役者」「友愛協会」「不幸に遭遇」といった言葉が、両者に共通しているのです。
----------------(引用おわり)

これに対して私は、前掲拙著で次のように批判した。「「労働者の声」と高野の文章の間には、用語の一致よりも不一致のほうが目立つ。たとえば「労働者の声」が用いる「同業組合」という語は、同時期の高野の諸論稿には現れず、「労役者の会合」「労役者の結合」という言葉を高野は用いている。またストライキについて、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されているのに対し、高野は一貫して「同盟罷工」の語を用いている」(188頁)。したがって、二村氏は「労働者の声」と高野の諸論稿の間で一致する用語だけを恣意的に拾っているに過ぎないのではないか。

この批判に対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論する。

----------------(引用はじめ)
たしかに、高野は「日本の労働問題」では「同業組合」という語を使っていません。しかし他の箇所、たとえば「職工諸君に寄す」では、「しからばいかにして同業組合は組織すべきか」と、「同業組合」の語を使っています。また「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っているのです。
----------------(引用おわり)

ここでの二村氏の主張は、反論として全く意味をなさない。私は「労働者の声」の用いる「同業組合」という語が同時期の高野の諸論稿には現れないことを指摘したのである。その語が高野の文章に現れるのが七年後の「職工諸君に寄す」まで待たねばならないのなら、むしろそれは私の指摘を補強しているわけだ。また私は、高野は終始一貫して「同盟罷工」の語を使っているのに対し、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されていることの矛盾を指摘しているのである。「「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っている」などという二村氏の指摘が全く反論になっていないのは、いうまでもない。

労働組合やストライキを指す言葉は、「労働者の声」でも高野の諸論稿でも、最も重要なキー概念である。そのキー概念を表す言葉に食い違いがある以上、「労働者の声」の筆者は高野ではないと考えるのが自然であろう

3.4 『国民之友』の編集者が外部からの投稿を「加筆訂正」し自誌の社説とした、などという想定は妥当か?

「労働者の声」と高野の諸論稿とは、重要なキー概念を表す用語の使い方に齟齬がある、という私の指摘に対し、二村氏は「再論(3)」で次のような反論を試みている。

----------------(引用はじめ)
用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。
----------------(引用おわり)

おそらく二村氏は、「労働者の声」と高野の文章とが、論旨においても用語においても齟齬のあることに気づいており、それを覆い隠すために、「編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い」などという説を案出したのであろう。この説(以下、これを「加筆訂正」説と呼ぶ)の前提として、二村氏は次のように説明している。

----------------(引用はじめ)
高野房太郎は、すでに論壇デビューを果たしていました。それも、日刊の全国紙『読売新聞』の寄稿家として、実績をあげていたのです。「労働者の声」掲載の3ヵ月前には、『読売新聞』紙上に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を11回にわたって連載しています。掲載年月日は、1890(明治23)年5月31日に始まり、6月7日、10日、13日、18日、19日、23日~27日です。優秀なジャーナリストであった徳富蘇峰は、たえず新たな海外情報を入手するため、アンテナを張っていたはずで、おそらく高野房太郎論文も読んでいたことでしょう。 さらに言えば『国民之友』には「東京各新聞の社説」という、毎号掲載される記事枠があります。この欄を維持するには、民友社は主要新聞をすべて購読し、これを読む担当記者を置く必要があったに相違ありません。房太郎の「米国通信」、とりわけ米国の労働社会という特異なテーマを扱った力作、しかも11回もに分け、長期間掲載された「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」が、蘇峰ら民友社記者の目にとまらなかったとしたら、その方がよほど不思議です。山路愛山の文才を、初対面で見抜いた徳富蘇峰のことです、「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を読んで、高野房太郎の知識・才能を評価していた可能性は高いと思われます。
----------------(引用おわり)

まず二村氏の単純な誤りから指摘しておこう。当時の『読売新聞』は「全国紙」ではなく(そもそも当時は「全国紙」自体が存在しないが)、その勢力範囲は東京に限られていた。

それはともかく、二村氏が「加筆訂正」説を唱えるからには、当然出てくる次のような疑問に、二村氏はぜひとも答えなければならない。

①二村氏も知っているとおり、『国民之友』には外部の投稿を受け入れるための寄書制度(一般の投書家による投稿、および著名な有識者や有望な若手に委嘱された「特別寄書家」による寄稿)がある。高野房太郎が「労働者の声」の原稿を『国民之友』に投稿したと仮定する場合、なぜ『国民之友』編集部はこれを一般の投稿として扱わず、自誌の「社説」として掲載したのか?(ちなみに『国民之友』にそのような事例が一つも存在しないことは、【1】で述べたとおりである)

②『国民之友』(民友社)が多くの若手の学者・評論家・作家・詩人の才能を見出し、彼らを『国民之友』で論壇・文壇デビューさせ、「特別寄書家」の列に加えるなどして数々の才能を開花させたことは、よく知られている。仮に、二村氏のいうように、蘇峰ら『国民之友』編集者が『読売新聞』を読み、「高野房太郎の知識・才能を評価していた」としても、なぜ『国民之友』は「特別寄書家」の待遇を高野に与えず、高野の投稿を勝手に「加筆訂正」して自らの社説とするばかりか、高野の名を伏せたまま、その名を以後も全く表に出さなかったのか?(それは当時の論壇社会の通念においても決して許されない剽窃行為であり、民友社がこんな不正を働いた事例は聞いたことがない。)なぜ民友社は以後も、『国民之友』に高野の投稿をただのひとつも掲載することがなかったのか?なぜ『国民之友』と比べて格下の『国民新聞』にただ一度だけ高野の投稿を載せるにとどまったのか?それは「高野房太郎の知識・才能を評価していた」という仮定と矛盾しないか?

③『国民之友』が高野の投稿に勝手に「加筆訂正」し、高野の投稿文という事実を伏せて社説として掲載した、と仮定してみよう。『国民之友』はそうした剽窃行為を行うばかりか、高野を「特別寄書家」の列にも加えず、彼を無視し続けている。高野はこのような民友社の不正と非礼をなぜ黙認したのか?高野は『読売新聞』で論壇デビューしたばかりであり、自分の名前を論壇に売り出すことは彼にとって重要だったはずだ。とりわけ『国民之友』は、当時の若手の論客や駆け出しの作家にとって、論壇・文壇への登龍門として重視されていた。なぜ高野は民友社に抗議しなかったのか?なぜ高野は社説「労働者の声」の本当の筆者は自分だと誰にも言わず、以後も沈黙を通したのか?

④高野はあえて『国民之友』に貸しを作ったのだと、無理やりに仮定してみよう。しかしその後高野は『国民之友』から何らの見返りを求めた形跡もなく、『国民之友』から無視され続けている。高野は格下の『国民新聞』に一度投稿しただけで、『読売新聞』『東京経済雑誌』『太陽』などに分散して投稿している。それはなぜか?

以上のように、高野房太郎の投稿文を徳富蘇峰ら『国民之友』編集者が「加筆訂正」し、高野の名を伏せて自らの社説として掲載した、などという不自然な説を二村氏が主張し続ける限り、合理的には説明のつかない矛盾や不都合に次々とぶつからざるを得ないのである。そもそも社説「労働者の声」の筆者は高野であるなどという、およそありそうにない説に固執せず、他の社説と同様に民友社員の記者がこれを執筆したと考えれば、何の矛盾や不都合にもぶつからずに済むのであるが。

二村氏はそれでもなお、無理矢理なこじつけで、上の「加筆訂正」説を強引に主張しつづけようとするかもしれない。そこで私は、二村氏の「加筆訂正」説が学術的に決して成り立たないことを立証しておく

二村氏が「加筆訂正」説を「論証」する筋道は、次のとおりである(二村、前掲書、100~101頁。なお、この「論証」は、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」でも繰り返されているので、興味のある読者は確認してほしい)。

(a) 『国民之友』93号(1890年9月3日)の時事欄に掲載された「労役者の組合」という小文がある。この小文と、社説「労働者の声」とは、「同じ雑誌に、同様な主題の文章があいついで掲載され、論旨も一致」している。
(b) したがって、社説「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一人物である。
(c) 「労役者の組合」は労働者の「団結」に相当する言葉として、「結合」の語を用いている。
(d) ところが、「労働者の声」では「結合」ではなく「団結」という語が多く用いられている。
(e) 「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一であるにもかかわらず、「労働者の声」が「団結」という言葉を用いているのはなぜか。それは、もともと「労働者の声」の原稿には「結合」という語が用いられていたはずだが、この原稿を社説として掲載する際に、『国民之友』の編集者が、「「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断し、これを改めたから」である。
(f) したがって、社説「労働者の声」は、「筆者の草稿そのままではなく、『国民之友』の編集者の筆が入っている」と判断される。

この二村氏の「加筆訂正」説の「論証」は、二つの前提条件によって成り立っている。第一は、社説「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一人物だという前提第二は、『国民之友』の編集者が「「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断」したという前提

まず二村の第一の前提の当否については、あえて今は問わない。

ここで問題にしたいのは、第二の前提である。二村氏によれば、『国民之友』の編集者は、「労働者の声」の原稿の中に頻出していたはずの「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断し、これを社説として掲載する際に、「団結」の語に改めたのだ、というのである。さらに二村氏は「再論(3)」で次のように書いている。

----------------(引用はじめ)
用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。高野房太郎は、今なら「団結」というであろう箇所を、もっぱら「結合」の語を用いていました。これは一貫した高野房太郎の文章の特色です。「労働者の声」と同一筆者が執筆したものと考えられる「労役者の組合」では、団結の語はなく、すべて「結合」が用いられています。これは「労役者の組合」が、雑誌巻末の記事欄掲載の短文で、投稿がそのまま使われたからでしょう。これに対し「労働者の声」は、社説欄に掲載された論説です。この場合、蘇峰ら編集者による加筆訂正があったことは、容易に想像されます。「労働者の声」では「大結合」という複合語で「結合」の語が使われていますが、他には「結合」はなく、もっぱら「団結」が用いられています。これはおそらく、編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え、書き換えたからだろうと推測されます
----------------(引用おわり)

つまり二村氏の推測によれば、「労働者の声」の元原稿には、労働者の「団結」を表す言葉として、高野房太郎が一貫して愛用していた「結合」という語が用いられていたはずだが、蘇峰ら『国民之友』編集者は、この「結合」という言葉が社説の日本語として熟していないと判断し、「団結」の語に書き換えたのだというのである。そして二村氏は、この推測をもって「加筆訂正」説の根拠としているのである。こうした二村氏の推測が正しいかどうかは、労働問題をテーマとして扱った『国民之友』の他の社説を実際に検討すれば、すぐに明らかとなる。

まず、社説「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)から引用しよう。なおこの社説は『蘇峰文選』(民友社、1915年)に収録されていることからわかるように、徳富蘇峰が自ら執筆したものである。ここで蘇峰は、1889年の有名なロンドン・ドック・ストライキにおける労働者の団結を念頭に、次のように述べているのである。

弱者の権の要所は只結合に在り、数多の貧人結合し、是に於て少数の富人に抵抗するを得、数多の愚者結合し、是に於て少数の智者に抵抗するを得、数多の無権者結合し、是に於て少数の権者に抵抗するを得

次に、社説「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)を検討する。この社説も『蘇峰文選』に収録され、執筆者は蘇峰である。

多数を占む、既に勢力なり、況や之が結合して、一の団体を為すに於てをや、所謂合すれば強を成すとの訓言は、既に欧米諸国に於ける職工同盟に於て、実行せられたり」

彼の職工…(中略)…富を有する一個人、若くは此の少数人の団結に向て、戦を挑み、或は交綏し、或は捷ち、動もすれば彼等をして、和を請はしむるに到りたる所以の者は何ぞや、其結合に拠るなり

結合には、強迫的の結合と、随意的の結合あり、而して彼の職工同盟の如きは、随意的の結合なり、其の結合をして、鞏固、確実、有力ならしむるに就ては、…(後略)

以上から明らかなように、『国民之友』の主宰者・主筆・編集責任者である徳富蘇峰自身が、「労働者の声」の前後の時期にあたる二つの社説で、労働者の「団結」を表す言葉として「結合」という語を数多く用いているのである。したがって、『国民之友』の「編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え」ていた、などという二村氏の思い込みは、完全に否定されることになる。

繰り返すが、「労働者の声」の元の原稿にあった「結合」という文字を、『国民之友』の編集者が日本語として熟していないと考え、社説として掲載する際に「団結」の語に改めた、などという二村氏の推測は、全く当たっていない。この誤った推測を必須の前提として二村氏が組み立てた「加筆訂正」説は、今やその根底から崩れ去ったといわねばならない。

高野房太郎の諸論稿は、労働者の「団結」を言い表すのに、一貫して「結合」という言葉を用いていた。しかし、社説「労働者の声」は「団結」という言葉を多用している。二村氏は、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説を維持するために、『国民之友』の編集者が高野の原稿を社説として掲載する際に「結合」の語を「団結」の語に改めた、などと無理やりに想定したが、この想定の根拠はもはや存在しない。「労働者の声」の原稿は最初から「団結」という語を用いていたと考えるべきである。

「労働者の声」は、労働者の「団結」・「罷工同盟」・「同業組合」という、全体の論旨のキーワードにおいて、同時期の高野の諸論稿とは用語法が大きく異なっている。この不都合な事実を二村氏が覆い隠すために主張した「加筆訂正」説も、すでにみたように、もはや存立の余地はないのである。

3.5 小括

以上本節では、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠を再検討してきた。二村氏は、「労働者の声」と、同時期の高野の諸論稿とが、論旨・呼びかけの姿勢・用語などの面で一致するとし、そのことをもって高野が「労働者の声」の筆者であると断言していた。しかし、上に詳しく検討したとおり、二村氏の説明とは異なり、「労働者の声」と同時期の高野の諸論稿とは、論旨・呼びかけの姿勢・用語のいずれの面においても、重要な点で異なっている。二村氏は、「労働者の声」と高野の諸論稿とで重要な用語が異なっていることについて、それは『国民之友』の編者が高野の原稿を「加筆訂正」したからだ、などという説を主張したが、この説も事実無根であることが明らかになった。

以上の検討から、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張は、学術的な根拠をすべて否定されたといわねばならない。

【おわりに】

以上、本稿では【1.『国民之友』の無署名社説に「社外執筆者」は存在するか?】・【2.「労働者の声」の筆者は民友社員ではないのか?】・【3.高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠は妥当か?】という三つの事柄について、二村一夫氏の「再論(3)」での反論を詳しく検討してきた。

その結果、【1】については、当時の高野房太郎のように民友社とは無縁な若者が『国民之友』の無署名社説を執筆したなどという事例は一つも確認できず、また『国民之友』の社外投稿者の名を記した一覧表にも高野房太郎の名は見いだせないことを明らかにした。【2】については、『国民之友』は労働問題にまったく無関心だった、などという二村氏の断定が事実無根であり、むしろ社説「労働者の声」は『国民之友』における労働問題論の展開過程の中にしっかりと位置づけられることを明らかにし、したがって「労働者の声」を執筆したのは徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるのが、学術的に合理的な推論であることを示した。【3】については、「労働者の声」は同時期の高野房太郎の文章と比較して、論旨・呼びかけの姿勢・用語のいずれにおいても重要な部分で食い違っており、高野房太郎を「労働者の声」の筆者であると断定する二村氏の主張の根拠はすべて否定されることを示した。

以上の検討から、『国民之友』の社説「労働者の声」の筆者を高野房太郎であるとする二村氏の説は完全に否定され、その筆者は、徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるべきことが、論証されたわけである。

なお、二村氏は「再論(3)」の結びに、次のように書いている。

----------------(引用はじめ)
「竹越三叉執筆説」をとられる大田氏は、三叉のどの論稿、あるいは論稿群をもって、彼が「労働者の声」と完全に一致する主張を保持していたとお考えなのでしょうか? 文体、用語、論旨など、さまざまな面で、学兄が私に要求されている水準を満たす竹越三叉作品を、是非ともお教えいただきたいと存じます。 もっと率直に言わせていただけば、学兄の「二村批判」の根拠は「〈労働者の声〉竹越三叉執筆説」ですが、その主張は「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています。しかし、この2点の論稿は、「竹越三叉執筆説」を論証するための出発点とはなり得ても、そのまま「証拠」として使い得る内実を有してはいません。大田英昭氏の「二村批判」は、歴史科学が要求する最低限の史料批判を抜きに、自らの判断こそ正しいとの「思い込み」で議論を進めておられます。そうした手続き上の問題があったことへの自覚がおありでしょうか? 「二村批判」のためには、まず「竹越三叉執筆説」を実証する作業が必要だったのではありませんか?
----------------(引用おわり)

二村一夫氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)の本文の一節の全体(98~102頁)を用いて、「労働者の声」の筆者は誰かについて詳論し、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(102頁)という断定を下したのである。二村一夫氏は自らの著書で断定した説の真実性について、専門研究者とりわけ労働史の大家として、重い責任を負っている。

なお二村氏の同書は、第15回社会政策学会学術賞第23回沖永賞を受賞するなど、社会的評価も高く、一定の「権威」をもっている。しかも、「労働者の声」の筆者は高野房太郎であるという断定は、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」でも繰り返されている。したがって、この著書(およびWEB版著作集)で展開された説が真実でない場合、その偽りの説が学界に対して与える悪影響は決して小さくない。

実際、例えば小松隆二氏は同書の書評で、この著作における「日本労働運動史全体に関わる理解を覆す新発見」の一つとして、「「労働者の声」の真の執筆者」が「高野と特定できること」を挙げているのである(小松隆二「書評と紹介―二村一夫著『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』」『大原社会問題研究所雑誌』607号、2009年 5月)。

私が本稿で詳しく論証したように、「労働者の声」の筆者を高野房太郎と断定する二村一夫氏の説は、全く事実無根なのである。二村氏およびその著書の有する「権威」ゆえに、根拠のない偽りの説がまともに検証もされないまま、あたかも事実であるかのように学界に流通するのを、私は研究者の端くれとして見過ごすわけにはいかない。あえて二村氏の説を詳しく検討し、その根拠として氏が主張することの一つ一つが歴史的事実に反することを明らかにしたゆえんである。高野房太郎本人にとっても、自分が書いてもいない文章を自分のものだといわれるのは不本意であろう。

私が拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の第4章の注(73)で、二村氏の説を批判したのも、そのような思いからであった。なお私はこの注において、家永三郎氏の蘇峰証言と佐々木敏二氏の論文、および当時の竹越三叉の社会問題への関心の高さを示すいくつかの史料を根拠として、「民友社の幹部でもある竹越が「労働者の声」を執筆した蓋然性は非常に高いと考えられよう」(189頁)と書いた(したがって、そこでの私の説が「「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています」という二村氏の指摘は誤っている)。

ただし、私が主張したのはあくまで、竹越が「労働者の声」を執筆した「蓋然性」の高さであって、二村氏のように執筆者が誰かを断定したわけではない。私は、竹越を含む民友社内の社説記者の誰かが「労働者の声」を執筆したのは確実だと考えるが、その執筆者が誰であるかを断定したことはないし、今も断定できるだけの材料をもっていない。

私は、竹越が「労働者の声」を執筆した蓋然性は高いと今も考えている。しかし、正直に言えば、五年前に書いたことの根拠が不十分であったことも、今回の二村氏との論争を通じて痛感した。とくに、「労働者の声」の執筆者について考察するには、『国民之友』だけではなく『国民新聞』の膨大な論説の検討が不可欠であり、とりわけ文体について詳細な比較が必要であることを感じる。そうした今後の検討によって、竹越を執筆者とする蓋然性の高さは変化するかもしれないし、今まで名前が挙がっていない人物が浮上する可能性もある。私は自説への固執よりも、歴史的真実の探求を最優先にしたいと考えている。「労働者の声」の執筆者をめぐるさらなる検討は、今後の課題としたい。

再び二村一夫氏の反論に答える(2)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

前回の投稿に続き、「労働者の声」(『国民之友』95号)の筆者は誰か、をめぐる二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との論争で、二村氏の反論に対する私の応答の第二回目である。

今までの論争の経過については、本ブログの前回の投稿「再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」を参照されたい。

【2.「労働者の声」の筆者は民友社員ではないのか?】

さて、前回の【はじめに 論争の経緯と問題の所在】で記したように、二村一夫氏が「労働者の声」の筆者は高野房太郎であると主張するためには、第二の条件として、その筆者が民友社員の記者ではないことを論証する必要がある。この点に関して、二村氏の「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)の議論を検討しよう。

2.1 『国民之友』の労働問題に関する社説について

二村氏は、「労働者の声」の筆者が民友社員ではないことを主張する根拠として、『国民之友』には「労働者の声」を除き労働問題に関する社説は皆無であると、次のように断定的に述べている。

-----------------(引用はじめ)
『国民之友』に掲載された労働問題に関する論説は、「労働者の声」を除けば、すべて「特別寄書家」によるものでした。家永氏は、『国民之友』の社説欄で「労働者の声」が例外的な論稿であることを認識し、ほかに労働問題に関する論説が皆無であるのは何故かを疑い、問うべきでした。
-----------------(引用おわり)

ここで二村氏が書いていることは、事実に反する

『国民之友』の社説欄に掲載された論説のうち、労働問題に関する社説は「労働者の声」(95号、1890年9月23日)にとどまらない。例えば、「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)「社会的立法の時代」(157号、1892年6月13日)「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)は、いずれも社説欄に掲載された労働問題に関する論説である。

「平民的運動の新現象」は、徳富蘇峰の執筆した社説で、民友社の平民主義の新たな方向性を示す重要論説として、後年『蘇峰文選』(民友社、1915年)に収録されている。この論説で蘇峰は、「昨年八月来倫敦テームス河畔の船渠労役者の間に始まりたる罷工同盟」、すなわち1889年夏の有名なロンドン・ドック・ストライキに着目し、このストが「弱者の権の発達」において画期的な事件であることを強調する。「弱者の権とは何ぞや、多数の弱者連合して、協力して以て少数の強者に当る者なり」。「弱者の権の要所は只結合に在り、数多の貧人結合し、是に於て少数の富人に抵抗するを得、数多の愚者結合し、是に於て少数の智者に抵抗するを得、数多の無権者結合し、是に於て少数の権者に抵抗するを得」。こうした労働者の「結合」=団結による力の増大を、蘇峰は「平民的運動の新現象」と捉え、民友社の平民主義の発展する方向性が労働問題=社会問題にあることを示唆しているのである。

「平民主義第二着の勝利」も蘇峰の筆による社説で、やはり『蘇峰文選』に収録されている。この社説で蘇峰は、「富を以て武力を制し」た十九世紀の平民主義の「第一着の勝利」に続いて、今後の課題は「労作を以て富を制」する「第二着の勝利」に達することだと述べる。蘇峰によれば、この新たな平民主義は「労作の勢力」に基づくもので、とくに「欧米諸国に於ける職工同盟〔「トレードユニオン」とルビが振られている―引用者注〕」が注目される。この「随意的の結合」に基づく「労作の勢力」は、さらに教育の普及、参政権の拡大によって、政治的な力を獲得しつつある。例えば英国で、「総員百二十五万人」を擁する「職工同盟大会」の「二百の団結の代表者五百人」が「八時間勤労条例を実行することを議決」したように、この「労作の勢力」はやがて「富の分配に非常なる変動を生じ」、「手工労役者は必らず其の階級の絶対的に進歩上騰するを見」るだろう、というのである。

以上の社説が欧米の労働問題を素材としているのに対し、「社会的立法の時代」「社会問題の新潮」は日本の労働問題をテーマとする社説である。「社会的立法の時代」のほうは、「紡績所の増加するに従つて、十一二歳の少女が、一日三四銭の賃銀のために、線煙蒸々の中に十四時間も直立し、之がため肺病となりて夭死するが如き」状況の出現を背景として、児童労働者の労働時間制限や、「鉱業条例」による鉱夫の保護、「職工条例」による職工の保護など、「弱者、少数、労力の味方」となるような「社会的立法」を為政者に要求したものである。

また、社説「社会問題の新潮」は、東京の石工および煉瓦積工のストライキや活版職工の動きを挙げて、「近世に於ける職工と雇主との軋轢は、欧米風の輸入病にあらずして、寧ろ社会発達の結果」であると指摘したうえで、「賃金問題」と「労働時間の問題」という「社会問題」において、「第二の奴隷解放の声は正に叫ばれん」としている今日、「社会問題研究会を組織」すべきであり、それを通じて「或は職工の応求希望を聴きて、其不当なるものは之を批評し、其正当なることは、之を雇主に勧告紹介し、雇主の議論を聴きて、また之を職工に紹介」するといった、労使間の紛争の仲裁を行うなどして、社会問題の「調和救正」に努めねばならない、と主張したものである。

以上みてきたように、『国民之友』の社説は「労働者の声」以外に「労働問題に関する論説が皆無」などというのは、二村氏の誤った思い込みにすぎない。『国民之友』は社説で労働問題について繰り返し論じており、「労働者の声」は決して孤立した社説ではないのである。

2.2 『国民之友』における労働問題をテーマとする論説について

二村氏は「再論(3)」で次のようにも書いている。

-----------------(引用はじめ)
『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です。
-----------------(引用おわり)

このように二村氏は、『国民之友』で労働問題をテーマに取り上げている論説は特別寄書家の3本の寄稿だけだと断言しているが、全くのでたらめである。私の確認した限りで、『国民之友』において労働問題をテーマに取り上げている論説を、下に列挙しておこう。いずれも長文の論説であり、短文の記事は含まれていない。

・社説「平民的運動の新現象」69号、1890年1月3日。
・酒井雄三郎「社会問題」81・82・83号、1890年5月3・13・23日。
・酒井雄三郎「五月一日の社会党運動会に就て」89号、1890年7月23日。
・社説「労働者の声」95号、1890年9月23日。
・「チヤムボレーン氏の国家社会説」121・122号、1891年6月13・23日。
・酒井雄三郎「五月一日及び総挙同盟罷工」122・123号、1891年6月23日・7月3日。
・添田寿一「工場条例の必要」130・131・134・139号、1891年9月13・23日・10月23日・12月13日。
・金井延「職工条例ヲ論ジ併セテ添田寿一氏ノ工場条例ノ必要ヲ論スルヲ評ス」133号、1891年10月13日。
・社説「平民主義第二着の勝利」139号、1891年12月13日。
・社説「社会的立法の時代」157号、1892年6月13日。
・社説「社会問題の新潮」169号、1892年10月13日。
・ボアソナド「日本ニ於ケル労働問題」171号、1892年11月3日・
・金井延「日本ニ於ケル労働問題」178・180号、1893年1月13日・2月3日。
・蟠龍居士「貧民存在ノ原因」193・194号、1893年6月13・23日。
・酒井雄三郎「『社会問題』と『近世文明』との関繋に就きて」197号、1893年7月23日。
・公平庵主人「三大社会問題」199号、1893年8月13日。なお「公平庵主人」は添田寿一のペンネームである(広渡四郎『添田寿一君小伝』実業同志会、1924年、参照)。
・酒井雄三郎「社会問題の真相」217・218・219・210・211・222号、1894年2月13・23日・3月3・13・23日・4月3日。
・阪谷芳郎「土木工事ト労力問題トノ関係」225号、1894年5月3日。
・安部磯雄「欧米ニ於ケル社会問題」248号、1895年3月23日。
・川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」305号、1896年7月18日。
・手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」320号、1896年10月31日。
・横山源之助「地方職人の現状」343号、1897年4月10日。
・クレマンソオ「仏国社会主義」354・355・356号、1897年6月26日・7月3・10日。
・片山潜「同盟罷工と社会」356号、1897年7月10日。
・小山健三「職工条例意見」361号、1897年9月10日。
・横山源之助「労働者の払底に就いて」362号、1897年10月10日。
・片山潜「工業奨励に就いて」364号、1897年12月10日。
・横山源之助「紡績工場の労働者」366号、1898年2月10日。
・横山源之助「工業社会に於ける一弊竇」368号、1898年4月10日。

以上、『国民之友』で労働問題をテーマに取り上げた主な論説は、管見によれば少なくとも29編(うち社説5編、特別寄書21編)、掲載回数は延べ45回におよぶ。これ以外の記事・小文も合わせれば、労働問題関係の論説・記事の総計はこの数倍の数となるだろう。上述のごとく二村一夫氏は「『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です」などと断言しているが、それがいかに事実からかけ離れているか、唖然とするほかない。二村氏がもしも本当に『国民之友』を通読したことがあるなら、こんなでたらめを書けるはずはないのだ

2.3 『国民之友』(および民友社)は労働問題に無関心だったか?

さらに二村氏は「再論(3)」で次のように書いている。

-----------------(引用はじめ)
さらに、同志社大学人文科学研究所が作成した『国民之友総索引』で、「労働」に分類されている論説、記事は、総数で34本です。1号平均50本掲載されているとして、372号分で18,600本中の34本です。『国民之友』の労働問題への無関心さは、この数値に明瞭に示されています。つまり徳富蘇峰を主筆とする『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいないのです
-----------------(引用おわり)

まず、単純な誤りから指摘しておこう。『国民之友総索引』(明治文献、1968年)は「同志社大学人文科学研究所」ではなく「立命館大学人文科学研究所・明治大正史研究会」が編纂したものである。また、この総索引で「労働」に分類された論説・記事の総数は34本ではなくて44本である。

そもそも上記の総索引は、論説・記事が複数の分類項目に重複することを許していないので、労働問題に関する論説や記事でも「労働」に分類されず、「経済」・「社会」・「文化」など他の項目に分類されているものが少なくない。例えば、労働問題をテーマに取り上げた上記の29編の重要論説のうち、総索引の「労働」に分類されているものは10篇にとどまる。とりわけ、欧米の労働問題を論じた多くの論説や記事は、「海外事情」の分類項目に含まれている。したがって『国民之友』の労働問題関係論説・記事は、上に二村氏が挙げた数値よりも、実際ははるかに多く、書評・評論などの小文を合計すれば、相当の数量にのぼるだろう。

また、二村氏のいう『国民之友』全372号分の全記事数の推計「18,600本」の大部分を占めているのが、時事的な小文や随筆、雑文、書評の類であることは、『国民之友』の目次を通覧すれば一目瞭然である。そうした全記事数の総計と、労働問題の関係論説・記事数とを比較することに、いったいどのような統計学上の意味があるのか、二村一夫氏にはぜひご教示いただきたい。例えば、『朝日新聞』の一年間の記事数の総計(スポーツ記事、料理などの生活記事、訃報記事等を含む)を分母とした場合に、憲法9条の改憲問題を論じた記事の割合がきわめて小さいからといって、『朝日新聞』の9条改憲問題への「無関心さは、この数値に明瞭に示されています」などと断言するような社会学者がいるだろうか?

『国民之友』が1890年頃から欧米の労働問題・社会問題をいち早くキャッチし、その啓蒙において日清戦争前の論壇をリードした事実は、研究者には周知のことだろう。かつて大河内一男氏は、『国民之友』が「日本の労働運動や社会主義運動にとっての源流としての意義をもっている」とし、「明治初年の自由民権思想と三十年代以後における社会主義運動・労働組合運動とを結ぶかけ橋の役割をつくした」と述べた(大河内一男「「国民之友」と労働運動」『国民之友』(復刻・縮刷版)第1巻〔明治文献、1966年〕所収)。鹿野政直氏も、『国民之友』が「労働する者への敬意と弱者への共感を通して、労働運動の発達を刺戟していった」ことを指摘している(鹿野政直「歴史学から見た『国民之友』」同上書、所収)。いずれも適切な評言である。なお『国民之友』における労働問題論の展開については、佐々木敏二氏の諸論考に詳しい(「『国民之友』における社会問題論」『キリスト教社会問題研究』〔18号、1971年3月〕、「民友社の社会主義・社会問題論」同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収)。

こうした先行研究を頭から無視する二村一夫氏は、「『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいない」などと決めつけているが、『国民之友』の「全誌」を通読したとはとうてい思えない二村氏の恣意的断定にすぎないことは、もはや言うまでもない。とりわけ、産業革命が始まって間もない1890~93年の時期、民友社以上に労働問題について関心を示し、これを積極的に紹介・啓蒙して論壇をリードしたメディアがもしあったならば、二村氏にはぜひご教示いただきたいところだ。

さらに、二村一夫氏が民友社の論調を『国民之友』だけで判断しているのも、杜撰といわねばならない。徳富蘇峰・竹越三叉・山路愛山を中心とする民友社の論調は、1890年2月に刊行された『国民新聞』の社説・論説・記事をあわせて検討することで、全体として判断することがはじめて可能となる。

事実、『国民新聞』には、『明治文化全集』第15巻(日本評論新社、1957年)に収録された周知のものだけでも、「労働者の政治上に於ける勢力」(1892年6月15日)「聯合追放」(1892年10月28日)「労働問題」(1892年12月8日)「工場の立法」(1892年12月25日)など、労働問題をテーマとする社説が多々ある。高野房太郎の「金井博士及添田学士に呈す」も『国民新聞』への寄稿である(1892年5月20日)。おそらく当時の『国民新聞』を詳細に検討すれば、労働問題に関するさらに多くの論説や記事を発掘できるだろう。

2.4 「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却」について

二村氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)で、高野房太郎以外の者が「労働者の声」を執筆したとは考え難い理由として、次のように述べている(101頁)。

-----------------(引用はじめ)
仮に、この二つの論稿の筆者が高野房太郎ではないとすると、別の謎が生まれます。それは、労働組合や協同組合についてこれだけの知識をもち、日本の労働者の組織化にも強い熱意をもった人物が、たった一編の論稿と一本の小文を発表しただけで、その後いっさいの沈黙を守ったことです。
-----------------(引用おわり)

こうした二村氏の見解に対し、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)第4章の注(73)において、「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却は、徳富蘇峰や竹越与三郎らのその後の思想的転向を考えれば不思議ではないことから、この点も「労働者の声」を高野の執筆と断定する論拠にはなりえない」と指摘した。そもそも、「たった一編の論稿と一本の小文を発表しただけで、その後いっさいの沈黙を守った」というのは、『国民之友』を通読していないであろう二村氏の思い込み以外に、何の根拠もないのであるが。

これに対して二村氏は「再論(3)」で、次のように反論する。

----------------(引用はじめ)
「労働者の組織化への熱意」がまだ高かったではずの時期、つまり「労働者の声」が掲載されたその年、1890(明治23)年前半期の第6巻を例に、より具体的に見てみましょう。第69号から第86号までの計18号が発行されています。この間の「時事欄」の記事の総数は462本、1号平均25本余です。この多数の記事の中で広い意味で「社会・労働問題」に関連する記事は、以下の通りです。見出しの列記が可能なほど、数が少ないのです。内容を読むと「社会・労働問題」ではないものもありますが、ここでは、見出しで社会・労働問題らしいものは、あえて含めました。「社会各職業の大会」(76号)、「聖上の御慰問、貧民」(79号)、「米価の騰貴と貧民の乱暴」(79号)、「米商貧民を救う」(79号)、「小作人同盟の解散」(81号)、「社会問題の端」(81号)、「日雇人夫と小農」(84号)以上7点です。なお、この7点のうち、『総索引』の「労働」の項に分類されているのは、「小作人同盟の解散」以降の3点だけです。ご覧になってすぐ気づかれるでしょうが「労働者の組織化への熱意」と呼びうる記事は、ただの1つもありません
----------------(引用おわり)

産業革命が始まったばかりの当時、日本国内には実際にどのような社会・労働問題があり、それを各新聞はどの程度報道していただろうか?そうした当時の時代背景を考慮せず、単に『国民之友』の時事欄(もともと国内の政界の動静をめぐる風聞を中心とする)の中で社会・労働問題を論じた数が少ないという印象を述べるだけでは、何を分析したことにもならない。

ちなみに、日本資本主義がまだ発展途上の段階にあったこの時期、労働と資本の矛盾による典型的な労働問題についての報道が、海外(欧米)中心だったのは当然である。例えば上の2.2 で掲げた『国民之友』の労働問題論説リストにみえるとおり、81・82・83号および89号で特別寄書家の酒井雄三郎が、パリから欧州の労働問題を詳細に報じているのは、特に注目すべきである(後述)。

なお、上に二村氏が挙げた時事欄の記事の中で、重要なのは「日雇人夫と小農」(84号、1890年6月3日)である。この記事は、景気の悪化によって日雇い労働者が賃金の下落や失業に甘んぜざるをえない現状を問題とし、その解決策として労働者の「組合」の結成が次のように提唱されているのである。「我邦の有志者たる者、宜しく是儕日雇人夫の為に、組合を設けしめ、平生其組合に於て、若干の金銭を貯蓄し、之を以て危急の場合に応じて大なる困難なからしめざる可からず」。ここでいう「組合」の内容はまだ漠然としているが、「有志者」に呼びかけていることも合わせて、この記事は三か月後の社説「労働者の声」の論旨の胚珠とみることができる

さらに、二村氏は見落としているが、時事欄の社会・労働問題の記事として「鄙見」(86号、1890年6月23日)は特に注目すべきである。この記事は、福沢諭吉の主宰する日刊紙『時事新報』の「貧民救助策」を批判する形で、社会問題に対する『国民之友』独自の提言として五項目を示したものだが、その第四項で「労働者組合を作り其の貯蓄を奨励する」ことが提唱され、しかも「其の説甚だ長し、他日詳悉するの機ある可し」として、後日この課題を詳細に論じることが予告されているのである。

上の二つの記事の内容は、「労役者の組合」(93号、1890年9月3日)さらには社説「労働者の声」(95号、1890年9月23日)における労働者の組織化の具体的な主張へと発展してゆく萌芽とみてよい。ここに、この時期の『国民之友』において「労働者の組織化への熱意」がしだいに高まってゆく過程をみることができるのである。

なお二村氏は、次のように私に質問している。

----------------(引用はじめ)
ここで、大田英昭氏に伺いたい。「労働者の声」や「労役者の組合」を掲載したこと以外に、徳富蘇峰、竹越三叉らが、彼らの生涯にいおいて、何時、何処で、またいかなる形で「労働者の組織化」を企てたり、応援する活動を展開していたのでしょうか? 「熱意が冷却」する前の実態を、ぜひお教えいただきたいと思います。
----------------(引用おわり)

以下、私の見解を説明しよう。

竹越三叉が1880年代末から労働問題を含む社会問題に熱い関心を寄せていたことは、「社会問題の成行」(『六合雑誌』81号、1887年9月30日)「基督教徒の一大責任」(『六合雑誌』83号、1887年11月30日)「経済書と聖書」(『六合雑誌』114号、1890年6月17日)などに示されている。徳富蘇峰も、『国民之友』の社説「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)で、イギリスの労働者の団結による力の増大に注目し、ここに平民主義の新たな発展方向をみていたことは、上に述べたとおりである。

『国民之友』が社会問題の解決の手段として、労働者の組織化に具体的に着目したのは、特別寄書家である酒井雄三郎がパリから寄稿した「社会問題」と題する長大な論説(81・82・83号、1890年5月3・13・23日)が大きなきっかけになったと思われる。ここで酒井は、イギリスの「トレード・ユニオン」(労働組合)「フラインドリー・ソサイチー」(共済組合)「共同消靡会社」(消費協同組合)の仕組みを詳しく紹介し、こうした労働者の「自由の合意」に基づく自主的団結を、社会問題の有力な解決法として高く評価しているのである。

蘇峰なり三叉なり、民友社の『国民之友』記者が社会問題の解決法として労働者の組織化に着目するにあたって、酒井の論説「社会問題」がきっかけとなったことは、大いに考えられる。事実、酒井のこの論説が掲載された直後から、『国民之友』は時事欄で労働者の組織化を提唱しはじめる。上に触れた「日雇人夫と小農」(84号、1890年6月3日)「鄙見」(86号、同年6月23日)がそれである。また、高野房太郎がアメリカから『読売新聞』に寄稿した論説「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」(同年5月31から6月27日にかけて連載)も、民友社の人びとに何らかの刺激を与えたかもしれない。その後、「労役者の組合」(93号、同年9月3日)を経て、社説「労働者の声」(95号、同年9月23日)において、『国民之友』の「労働者の組織化への熱意」は最高潮に達した。

ただし、『国民之友』における労働者の組織化の主張は、社会問題を解決するという目的に対する一つの手段に過ぎなかったことに注意せねばならない。社説「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)で、蘇峰が「多数の結合」に基づく「労作の勢力」の増大と勝利こそ平民主義の新しい趨勢とみて、欧米の労働組合運動に注目したことはすでに述べた。ただし蘇峰によれば、こうした平民主義の「第二着の勝利」は、今の段階では、すでに「富の勢力」=資本主義の発達した「泰西諸国」にのみ当てはまるもので、日本についてはまだ時期尚早だとして、次のように述べられている。「如何に国勢に向て鉄鞭を加ふるも、進歩の大理は、順序の践行を看過する能はず。然らば此勝利は、我邦に於ては、将来に於ける勝利として、予じめ之を待ち設く可きのみ」。このように蘇峰は、日本における労働運動の発展は将来の課題であるとして、これを先延ばしにしたのである。

こうした社会進化論的・漸進的な見解から、民友社は社会・労働問題解決の手段として、労働者の組織化は時期尚早として棚上げにする一方、政府の社会政策による労働者保護(社説「社会的立法の時代」157号、1892年6月13日)や、有識者による労使間の軋轢の仲裁(社説「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)といった方向に傾斜してゆく。さらに、蘇峰や三叉の平民主義から国家主義・帝国主義への漸次的移行が、この方向をいっそう変質させていく。その行き着く先に、三叉の「国家社会主義」(『世界之日本』第2巻第2号、1898年9月17日)の主張が現れてくる。私のいう彼らの「熱意の冷却」とは、おおよそこのような見通しのことを指しているのである。

2.5 小括

以上、『国民之友』の労働問題論についての二村氏の主張を検討してきた。労働問題に関する『国民之友』の社説は「労働者の声」のほかに存在しないという二村氏の断定、および、労働問題をテーマに取り上げた同誌の論説はわずか3本しかないという二村氏の断定は、いずれも事実に反することが明らかになった。実際は、労働問題に関する『国民之友』の社説は1890年から92年にかけて5本あり、労働問題をテーマに取り上げている主要論説は少なくとも29本存在することを、私は明らかにした。『国民之友』は労働問題にまったく無関心だった、などという二村氏の断言は事実無根である。『国民之友』(民友社)が欧米の労働問題・社会問題をいち早くキャッチし、労働問題の啓蒙において日清戦争前の論壇をリードする役割を担ったという評価は、私のみならず多くの思想史研究者の認める定説なのである。

二村氏は、社説「労働者の声」(およびその直前の記事「労役者の組合」)の労働者組織化の主張を、『国民之友』において例外的なものと思い込み、この社説の執筆者は民友社員ではない高野房太郎に違いないと想像力を膨らませたのであった。しかし実際は、徳富蘇峰ら民友社幹部は1890年初頭から欧米の労働組合運動に注目し、在仏の特別寄書家である酒井雄三郎による労働組合・協同組合・共済組合の高い評価に影響を受けて、時事欄で労働者の組織化を主張し始めたのであった。社説「労働者の声」(および時事欄の記事「労役者の組合」)は決して孤立した論説ではなく、『国民之友』における労働問題論の展開過程の中に、しっかりと位置づけることができるのである。

したがって、社説「労働者の声」を執筆したのは徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるのが、学術的に合理的な推論である。二村氏のように、わざわざ無理筋の理屈づけをして、これを高野房太郎の筆であるなどと強弁する必要はないのである。

次回は、二村氏が「労働者の声」の筆者を高野房太郎であると断定する根拠を再検討し、二村氏の推論が学術的に全く成り立ちえないことを明らかにしたうえで、「労働者の声」の筆者にかんする私の現時点での見解を述べたい。

追記:続編として「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」をアップしました(2018年6月18日)


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