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岡崎一氏の拙著への書評(『初期社会主義研究』30号)に対する応答 [日本・近代史]

拙著『日本社会主義思想史序説―明治国家への対抗構想』(日本評論社、2021年)について、岡崎一氏(元東京都立大学教授)による書評が『初期社会主義研究』(30号、2022年3月)に掲載された、との知らせを受けた。

私は中国にいるので、当該号はしばらく入手できない。が、幸い同誌編集部の方が最終校正刷りのPDFファイルを送ってくださったので、書評を閲読することができた。

拙著を「初期社会主義研究に果敢に挑戦する刺激的好著」とする岡崎氏の評言はありがたく、当該分野における氏の長年の研究に基づく有益な指摘は尊重したい。ただし、氏の見解の中には、首をひねらざるを得ないもの、研究者としてとうてい承服できないものも少なくない。以下、岡崎氏の書評のうち疑問を感じる個所について、私からの応答を記しておきたい(なお『初期社会主義研究』30号の引用ページ数は最終校正刷りによる)。

私は拙著の序章4頁で、城多虎雄「論欧洲社会党」(『朝野新聞』1882年6~8月)について、「この論説は、「社会党ノ主義」=社会主義の理論と運動について、日本で初めて体系的に紹介したものといってよい」と記した。こうした私の評価について、岡崎氏は次のように批判している。

城多虎雄「論欧洲社会党」(『朝野新聞』一八八二年六~八月)の紹介に当り、〈この論説は、「社会党ノ主義」=社会主義の理論と運動について、日本で初めて体系的に紹介したものといってよい〉(四頁)と記しているが、久松定弘(編纂)『理想境事情 一名 社会党沿革』(進学舎、一八八二年二月)の方が先行しており、〈初めて〉という指摘は妥当ではないと考える。これは単純に著者が『明治文化全集』(日本評論新社)に拠っただけのことで、前記の久松や原田潜『自由提綱財産平均論』(春陽堂、一八八二年一一月)を翻刻している『明治文化資料叢書』第五巻社会主義編(風間書房)を見落としたためであろう。

(『初期社会主義研究』30号、260~261頁)

岡崎氏は、私があたかも『明治文化資料叢書』第5巻社会主義編を見落としたかのように推測しているが、理解に苦しむ。私はこの巻を持っているし、目を通してもいる。そもそも久松の『理想境事情』は、昔は稀覯本だったかもしれないが、今では国会図書館デジタルコレクションに収録されており、誰でも容易に閲読できる。確かに数十年前なら『明治文化全集』などの史料集に頼らざるを得ない研究状況があったのだろうが、史料へのアクセスが格段に向上している現在はそうではない。

久松の『理想境事情』と、城多の長大な論文「論欧洲社会党」との内容を比較すれば、両者の水準の差は明らかである。久松の『理想境事情』は、社会主義を単純に国民同権や財産平等分配の主張と同一視したうえで、ヨーロッパの社会主義者や運動を羅列的に紹介しているに過ぎない。対して城多の「論欧洲社会党」は、中等社会(ブルジョアジー)と労力社会(プロレタリアート)との対立から「近世文明」における社会主義発生の必然性を論じ、第一インターナショナルおよびドイツ・ロシア・フランス・イギリスの社会主義運動の発展過程をそれぞれ詳しく紹介したうえで、生産手段の共有と公平な分配という根本的主張に至る社会主義の論理を考察し、その主張の是非について独自の検討を加えている。

このように、社会主義の理論と運動史の体系的な把握において、城多の重厚な論考は久松の編著の薄っぺらな内容を圧倒しているのである。私が城多の論説を「社会主義の理論と運動について、日本で初めて体系的に紹介したもの」であると考える根拠はここにある。

なお、単に社会主義の理論と運動を紹介するだけであれば、久松の『理想境事情』よりはるか前の1878~79年に、『東京日日新聞』を始めとする在京の諸新聞がそれを活発に行っていたことは、拙著の第一章で詳論したとおりである。

また、拙著の序章で、1890年代初頭に特徴的な社会主義理解の例として、陸羯南内藤湖南とを挙げたことについて、岡崎氏は次のように批判している。

政教社関係として陸羯南と内藤湖南にしか言及していない(四~五頁)が、この二人よりは「社会主義一斑」(『日本人』一八九四年三~五月)の筆者である長澤別天に言及する方が寧ろ妥当であろう。

(『初期社会主義研究』30号、261頁)

長澤別天の社会主義論については、私は前著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の第4章第1節で扱っているので、参照されたい。私がこのたび拙著の序章「近現代日本における「社会主義」概念の展開」を書くにあたっては、長澤よりも早い時期に書かれた陸・内藤の社会主義観の方にこそ、当時の「国民主義」・「国粋保存主義」に基づく独特な見解が色濃く現れていると考えてこれを紹介した一方、長澤の社会主義論は紙幅の関係上割愛したのである。

次に拙著第1章での、1878年12月の『横浜毎日新聞』における「社会党」論に関して、岡崎氏は次のように指摘している。

社会党に一定の理解を示す楠佐柄「社会党者流ガ処分」を社説として掲載した『横浜毎日新聞』(三頁)だが、これは一八七四年から当紙主筆を務め(一八七九年『東京横浜毎日新聞』と改称)一八八八年には社長となった島田三郎の存在抜きには考えられず、将来の島田の『世界之大問題社会主義概評』(一九〇一年)――『毎日新聞』(一八八六年改称)に連載した諸篇を纏めて単行化したもの――の発行を予兆したものと言えようか。

(『初期社会主義研究』30号、261頁)

島田三郎は、日本最初の日刊紙として明治三年十二月(1871年1月)に創刊された『横浜毎日新聞』の草創期である73年に入社し、翌年社員総代の島田豊寛の養子となった。ただし島田三郎は75年元老院に入って(のち文部省に移る)、いったん同紙から離れており、明治十四年の政変(81年10月)で免官された後、『東京横浜毎日新聞』に再入社している。したがって、1878年12月の『横浜毎日新聞』社説の内容が、「島田三郎の存在抜きには考えられ」ないという岡崎氏の断言は、根拠が疑わしく、首肯できない

同じく拙著第1章で言及した『郵便報知新聞』の「社会党」論に関し、岡崎氏は次のように指摘する。

一八八二~九〇年には報知社社長も努めた矢野龍溪が、やがて西洋ユートピア文学の基準に照らしてみても遜色のない日本初の本格的なユートピア文学作品『新社会』(一九〇二年)と講演集『社会主義全集』(一九〇三年)を公表することになる史実は、(著者の視角には入ってはいないものの)実に興味深い。

(『初期社会主義研究』30号、261頁)

矢野龍渓は『郵便報知新聞』紙上で、「貧民救助法ヲ論ズ」(1876年6月8日)など社会問題に関係する社説を早い時期から書いており、後年の社会主義への関心とあわせて考えると、岡崎氏の指摘どおり確かに興味深いといえる。ただし、私は前著『日本社会民主主義の形成』第9章第2節および第4節で、1902年春から片山潜と矢野との交流が始まり、同年7月から矢野が社会主義協会の演説会に出演するようになったことや、片山の主宰する『労働世界』に「社会主義談」「四級団改善の急務」など矢野の談話・論説が掲載された事実を指摘し、また矢野のユートピア小説『新社会』を、それに対する木下尚江の批評とあわせて紹介している。したがって、「著者の視角には入ってはいない」などとする岡崎氏の決めつけはいただけない

第4章「初期民友社の社会・労働問題論と「平民主義」─竹越与三郎を中心に」では、同じくヘンリー・ジョージを引用しながらも民友社内の竹越と徳富蘇峰では〈平民主義〉・〈社会問題〉の捉え方に差異があったことを指摘しているが、同じく「慈善事業の進歩を望む」(『評論』一八九四年六月五日)でジョージを引用した北村透谷との比較を付加すれば、更に興味深くなったことであろう。 (中略) 海外移民の問題も取り上げられているが、より広く文学畑の文献(内田魯庵「くれの廿八日」など)まで含めて論じてもらいたいものである。

(『初期社会主義研究』30号、261~262頁)

第4章での研究対象は、初期民友社の社会・労働問題論として1887年から1890年の時期に限定している。したがって、北村透谷の1894年の評論や、内田魯庵の小説「くれの廿八日」(1898年)は、本稿での比較検討の対象外である。


『労働世界』について〈同紙〉(二〇八頁一一行目)となっているが、これは〈同誌〉の誤記か誤植であろう。

(『初期社会主義研究』30号、262頁)

これは誤記でも誤植でもなく、『労働世界』が労働組合期成会の機関であるという事実に基づく正しい表記である。労働組合期成会について最も詳細な研究をしてきた二村一夫氏も、次のように指摘している。「1897(明治30)年12月1日、労働組合期成会の機関紙『労働世界』が創刊されました。もともと機関紙の刊行は創立当初から計画され…」、「『労働世界』は、復刻版がサイズを縮小して刊行されたことなどから、しばしば「雑誌」と間違えられていますが、実際はタブロイド判の新聞でした」(「高野房太郎とその時代 (71)」『二村一夫著作集』(オンライン版))。

事実、当時の『労働世界』は当事者たちによって例外なく「新聞」と称されているのである(「鉄工組合本部臨時本部委員総会議事速記録」『労働世界』55号、1900年2月15日、附録第一~二面)。

片山潜が主筆を務めた『労働世界』は、第一次と第二次とに区別される。第一次『労働世界』は、労働組合期成会(および鉄工組合)の機関紙として1897年12月から1901年12月まで全100号が発行された、新聞体の定期刊行物である。他方、第二次『労働世界』は、1902年4月から1903年3月『社会主義』に改題されるまで発行された、雑誌体の定期刊行物である。岡崎氏はおそらく両者を混同しているのではあるまいか

なお、当時の「新聞紙条例」には新聞と雑誌の明確な概念的区別はなく(どちらも新聞紙条例により取り締まりを受けた)、両者は主に体裁によって区別されていたといってよい(ただし雑誌のうち、「専ラ学術、技芸、統計、広告ノ類ヲ記載スル雑誌」については「新聞紙条例」ではなく「出版法」の規制を受けた)。

そして、岡崎氏の次のような私への〈アドバイス〉には看過できない問題がある。

蔑称(特に〈支那〉)に繰り返し〔ママ〕を傍記しているが、史料という観点からすると、一々傍記するよりも、寧ろ「凡例」で著者の見解として予め明確な断り書きを入れておけば良かったと考える。

(『初期社会主義研究』30号、263頁)

ここには、現在差別語として他者の尊厳を傷つける恐れのある歴史的語彙の扱いについての、岡崎氏と私との間に横たわる認識の落差がある。現在中国で歴史教育に携わっている私は、「支那」という語がその歴史的経緯のために、いかに中国の人びとの尊厳を傷つける言葉であるかを、痛切に理解している。だから、歴史的史料からの引用においても、当時の文脈におけるこの語の使われ方はどうであれ、この語が現在注記なしには決して用いられるべきではないことを示すために、繁雑をいとわずあえてこの語に〔ママ〕と傍記した次第である。この件について岡崎氏の考え方は私と異なるらしいが、氏の〈アドバイス〉を受け容れることはできない。

以上、拙著に対する岡崎氏の書評のうち、疑問を感じる箇所について私からの応答を記した。そもそも書評はその性格上、一方通行的になされることが多く、学術誌においても書評に対する査読は通常行われない。そのため、事実からかけ離れた「指摘」や、学術的客観性・公平性の担保されない「意見」「主張」ですらも、そのまま流通してしまいがちである。

書評は本来、その内容について書評執筆者が責任を負うべき著作物であるが、そうした自覚に乏しいものも散見される(岡崎氏の書評がそうだというのではない。念の為)。書評者の責任の自覚を喚起するには、書評に対する批評が不可欠であり、それがひいては書評全体のレベルを高めることにもつながるだろう。私はこれまで、自著への批評に対してはもっぱら沈黙してきたけれども、今後は上記のことを期待しつつ、なるべく積極的に応答してゆきたいと考えている。

末筆ながら、初期社会主義研究の大先輩である岡崎氏の、拙著に対する懇切かつ忌憚なき批評に、改めて感謝したい。

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(以下、2022年6月3日追記)

第一次『労働世界』について、私は上に、「『労働世界』が労働組合期成会の機関紙であるという事実」と書いた。が、第一次『労働世界』は新聞であるか、雑誌であるかという問題について、さらに以下の注釈を付けておきたい。

第一次『労働世界』発刊前の1897年9月4日の労働組合期成会第二回月次会では「雑誌発行調査委員」が選ばれ、10月10日の第三回月次会で「雑誌社」の事業についての報告が可決されている(片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』労働新聞社、1901年、第三編第一章第一節)。

ただしこれはあくまで発刊前の計画のことなので、実際に刊行された『労働世界』は計画と異なる、と見ることもできる。実際、「雑誌社」の事業は「労働新聞社」として実現したのである。そもそも新聞紙条例が適用される定期刊行物には「新聞」と「雑誌」の明確な区別基準がなく、体裁によって主観的に区別するしかない。体裁や当時の当事者自身の認識からすれば、本記事で書いたように、第一次『労働世界』は新聞とするのが適切であろう。

ただし、『日本の労働運動』の記述を重視するならば、第一次『労働世界』を雑誌とする見方も、誤りであるとまではいえないだろう。事実私も9年前の前著『日本社会民主主義の形成』では、第一次『労働世界』を雑誌として扱っていたことがあった。また本書の第5・6章は旧稿のため、この見解がそのまま残されている。本書の中に第一次『労働世界』を新聞とする見解と雑誌とする見解の両者が混在したままになっているのは、私自身のチェック不足であった。

いずれにせよ、上記の「『労働世界』が労働組合期成会の機関紙であるという事実に基づく正しい表記である」という部分は、「『労働世界』が労働組合期成会の機関紙であるという現在の有力な説に基づく表記である」と訂正されるべきであろう。


長春だより

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