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再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

「再び二村一夫氏の反論に答える」は今回で完結します。

これまでの二村一夫氏と私との論争の経過と、私の主張については、以下の本ブログ記事をご覧ください。

「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について〔2014年5月5日〕
二村一夫氏の反論に答える〔2018年5月13日〕
再び二村一夫氏の反論に答える(1)〔2018年6月10日〕
再び二村一夫氏の反論に答える(2)〔2018年6月16日〕

また、二村一夫氏の主張と反論については、WEB版『二村一夫著作集』の以下のリンクをご覧ください。

高野房太郎とその時代 (38)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(2)
大田英昭氏に答える―〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)

【3.高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠は妥当か?】

二村一夫氏が『国民之友』の社説「労働者の声」(95号、1890年9月23日)の筆者は高野房太郎であると断言する主な根拠は、「労働者の声」と、高野の「日本に於ける労働問題」(『読売新聞』1891年8月7~10日)など同時期の高野の文章とを比較し、両者の筆者が同一だという推論による。二村氏は著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)において、その推論の理由を四つ示している。しかし、その理由がいずれも説得力のないことを、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)および本ブログ2014年5月5日の記事ですでに指摘してある。

二村氏は私の批判に対し、「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)で反論している。この反論が妥当かどうか、検討を加えたうえで、二村氏の説が学術的に全く成り立たない理由を改めて示したい。

3.1 二つの論説の文章の論旨は一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」の執筆者は高野であると考える第一の根拠として、「労働者の声」と、高野の論説「日本に於ける労働問題」とは論旨が一致すると、次のように主張している(99頁)。

----------------(引用はじめ)
この論稿〔「労働者の声」―引用者注〕は「同業組合」=「労働組合」および「共同会社」=「協同組合」の結成こそが、日本の労働者の地位を向上させる鍵であると主張していますが、これは高野房太郎「日本に於ける労働問題」と完全に一致しています。また、引用は省きましたが同盟罷工に対する態度など、細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません
----------------(引用おわり)

これに対して私は前掲拙著で、「労働者の声」と高野の「日本に於ける労働問題」とは、労働組合の機能にかんする説明において、①前者が共済的機能を最も重視しているのに対し、後者はそれを二次的な「方便」としていること、②前者が同盟罷工(ストライキ)の機能を重視しているのに対し、後者は同盟罷工の効力に否定的であること、③後者は教育的機能を重視しているが、前者はそうした観点がないこと、という三つの点にわたる食い違いを指摘した。

これに対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論している。

----------------(引用はじめ)
「労働者の声」と「日本における労働問題」は、同じ時期に、まったく同じテーマで書いているわけではありません。論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です。…(中略)…私が注目したのは、論旨や用語の細部にいたるまでの一致ではなく、「労働者の声」の論旨が全体として、高野房太郎の他の論稿や、彼のその後の言動と、いささかの矛盾もない事実なのです。
----------------(引用おわり)

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」の論旨は「細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません」と断言したはずだ。しかるに「再論(3)」では、「論稿の細部についてまで、両者の論旨が一致していたら、その方が異常です」などと開き直っている。自家撞着とはこのことをいう

ましてや、私が指摘しているのは決して「細部」ではない。〈労働組合はいかなる機能をもつべきか〉についての説明は、「労働者の声」においても「日本に於ける労働問題」においても、最も大切なテーマである。この肝心なところで、二つの論説の趣旨は三点にわたって食い違っている。とりわけ、二村氏は前掲著書で「同盟罷工に対する態度など、細部においても房太郎の主張と食い違うところはありません」と断言し、それを二つの論説の筆者が同一であるという主張の根拠としていたが、まさにこの「同盟罷工に対する態度」で、二つの論説の論旨は大きく「食い違」っているのである。そしてこのことは、二つの論説の筆者が別人であることを、強く示唆している。

3.2 二つの論説の「呼びかけ」の姿勢は一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」と高野の「日本に於ける労働運動」との一致点について、さらに次のように述べた。

----------------(引用はじめ)
また「労働者の声」は、この呼びかけを労働者に向かって発しているのではなく、世の慈善心ある義人、天下の志士仁人に向かって説き、労役者の友となるよう訴えています。この姿勢も房太郎と完全に一致しています。
----------------(引用おわり)

これに対して、私は前掲拙著において次のように批判した。「労働組合の結成を労働者自身に任せておくべきではない理由として、高野の「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者における倫理性の欠如を強調するのに対し、「労働者の声」は、日本の労働者が世論を喚起する手段を持たないことを指摘するにとどまり、労働者の倫理性についての言及はない」(188頁)。つまり、二つの論説は、その呼びかけの「姿勢」において、「完全に一致」しているなどとは決していえないのである。

この批判に対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論している。「論稿によって、その主張のポイントの細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なことです。二つの論文がまったく同じことを繰り返すはずもないのです。

二村氏は前掲著書で、二つの論説が有識者に呼びかける姿勢は「完全に一致」していると断定したではないか。しかるに今や、「細部に違いが生まれるのは、ごくごく自然なこと」などと自家撞着の言を放ってはばからない。しかも、二つの論説の労働者観が異なっていることは、果たして「細部」などとみなして無視できることだろうか。それはむしろ、二つの論説の筆者が別人であることを示す、重要なポイントの一つなのである。

3.3 二つの論説は用語が一致しているか?

二村氏は前掲著書で、「労働者の声」と高野の諸論稿とが、文体や用語の点で一致しているとして、次のように書いている(99頁)

----------------(引用はじめ)
さらに「労働者の声」は、論旨だけでなく、文体や用語の点でも、房太郎の論稿と共通するところが少なくありません。たとえば「吾人」「労役者」「友愛協会」「不幸に遭遇」といった言葉が、両者に共通しているのです。
----------------(引用おわり)

これに対して私は、前掲拙著で次のように批判した。「「労働者の声」と高野の文章の間には、用語の一致よりも不一致のほうが目立つ。たとえば「労働者の声」が用いる「同業組合」という語は、同時期の高野の諸論稿には現れず、「労役者の会合」「労役者の結合」という言葉を高野は用いている。またストライキについて、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されているのに対し、高野は一貫して「同盟罷工」の語を用いている」(188頁)。したがって、二村氏は「労働者の声」と高野の諸論稿の間で一致する用語だけを恣意的に拾っているに過ぎないのではないか。

この批判に対して、二村氏は「再論(3)」で次のように反論する。

----------------(引用はじめ)
たしかに、高野は「日本の労働問題」では「同業組合」という語を使っていません。しかし他の箇所、たとえば「職工諸君に寄す」では、「しからばいかにして同業組合は組織すべきか」と、「同業組合」の語を使っています。また「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っているのです。
----------------(引用おわり)

ここでの二村氏の主張は、反論として全く意味をなさない。私は「労働者の声」の用いる「同業組合」という語が同時期の高野の諸論稿には現れないことを指摘したのである。その語が高野の文章に現れるのが七年後の「職工諸君に寄す」まで待たねばならないのなら、むしろそれは私の指摘を補強しているわけだ。また私は、高野は終始一貫して「同盟罷工」の語を使っているのに対し、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されていることの矛盾を指摘しているのである。「「労働者の声」では、「罷工同盟」と同時に「同盟罷工」の語も使っている」などという二村氏の指摘が全く反論になっていないのは、いうまでもない。

労働組合やストライキを指す言葉は、「労働者の声」でも高野の諸論稿でも、最も重要なキー概念である。そのキー概念を表す言葉に食い違いがある以上、「労働者の声」の筆者は高野ではないと考えるのが自然であろう

3.4 『国民之友』の編集者が外部からの投稿を「加筆訂正」し自誌の社説とした、などという想定は妥当か?

「労働者の声」と高野の諸論稿とは、重要なキー概念を表す用語の使い方に齟齬がある、という私の指摘に対し、二村氏は「再論(3)」で次のような反論を試みている。

----------------(引用はじめ)
用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。
----------------(引用おわり)

おそらく二村氏は、「労働者の声」と高野の文章とが、論旨においても用語においても齟齬のあることに気づいており、それを覆い隠すために、「編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い」などという説を案出したのであろう。この説(以下、これを「加筆訂正」説と呼ぶ)の前提として、二村氏は次のように説明している。

----------------(引用はじめ)
高野房太郎は、すでに論壇デビューを果たしていました。それも、日刊の全国紙『読売新聞』の寄稿家として、実績をあげていたのです。「労働者の声」掲載の3ヵ月前には、『読売新聞』紙上に「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を11回にわたって連載しています。掲載年月日は、1890(明治23)年5月31日に始まり、6月7日、10日、13日、18日、19日、23日~27日です。優秀なジャーナリストであった徳富蘇峰は、たえず新たな海外情報を入手するため、アンテナを張っていたはずで、おそらく高野房太郎論文も読んでいたことでしょう。 さらに言えば『国民之友』には「東京各新聞の社説」という、毎号掲載される記事枠があります。この欄を維持するには、民友社は主要新聞をすべて購読し、これを読む担当記者を置く必要があったに相違ありません。房太郎の「米国通信」、とりわけ米国の労働社会という特異なテーマを扱った力作、しかも11回もに分け、長期間掲載された「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」が、蘇峰ら民友社記者の目にとまらなかったとしたら、その方がよほど不思議です。山路愛山の文才を、初対面で見抜いた徳富蘇峰のことです、「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」を読んで、高野房太郎の知識・才能を評価していた可能性は高いと思われます。
----------------(引用おわり)

まず二村氏の単純な誤りから指摘しておこう。当時の『読売新聞』は「全国紙」ではなく(そもそも当時は「全国紙」自体が存在しないが)、その勢力範囲は東京に限られていた。

それはともかく、二村氏が「加筆訂正」説を唱えるからには、当然出てくる次のような疑問に、二村氏はぜひとも答えなければならない。

①二村氏も知っているとおり、『国民之友』には外部の投稿を受け入れるための寄書制度(一般の投書家による投稿、および著名な有識者や有望な若手に委嘱された「特別寄書家」による寄稿)がある。高野房太郎が「労働者の声」の原稿を『国民之友』に投稿したと仮定する場合、なぜ『国民之友』編集部はこれを一般の投稿として扱わず、自誌の「社説」として掲載したのか?(ちなみに『国民之友』にそのような事例が一つも存在しないことは、【1】で述べたとおりである)

②『国民之友』(民友社)が多くの若手の学者・評論家・作家・詩人の才能を見出し、彼らを『国民之友』で論壇・文壇デビューさせ、「特別寄書家」の列に加えるなどして数々の才能を開花させたことは、よく知られている。仮に、二村氏のいうように、蘇峰ら『国民之友』編集者が『読売新聞』を読み、「高野房太郎の知識・才能を評価していた」としても、なぜ『国民之友』は「特別寄書家」の待遇を高野に与えず、高野の投稿を勝手に「加筆訂正」して自らの社説とするばかりか、高野の名を伏せたまま、その名を以後も全く表に出さなかったのか?(それは当時の論壇社会の通念においても決して許されない剽窃行為であり、民友社がこんな不正を働いた事例は聞いたことがない。)なぜ民友社は以後も、『国民之友』に高野の投稿をただのひとつも掲載することがなかったのか?なぜ『国民之友』と比べて格下の『国民新聞』にただ一度だけ高野の投稿を載せるにとどまったのか?それは「高野房太郎の知識・才能を評価していた」という仮定と矛盾しないか?

③『国民之友』が高野の投稿に勝手に「加筆訂正」し、高野の投稿文という事実を伏せて社説として掲載した、と仮定してみよう。『国民之友』はそうした剽窃行為を行うばかりか、高野を「特別寄書家」の列にも加えず、彼を無視し続けている。高野はこのような民友社の不正と非礼をなぜ黙認したのか?高野は『読売新聞』で論壇デビューしたばかりであり、自分の名前を論壇に売り出すことは彼にとって重要だったはずだ。とりわけ『国民之友』は、当時の若手の論客や駆け出しの作家にとって、論壇・文壇への登龍門として重視されていた。なぜ高野は民友社に抗議しなかったのか?なぜ高野は社説「労働者の声」の本当の筆者は自分だと誰にも言わず、以後も沈黙を通したのか?

④高野はあえて『国民之友』に貸しを作ったのだと、無理やりに仮定してみよう。しかしその後高野は『国民之友』から何らの見返りを求めた形跡もなく、『国民之友』から無視され続けている。高野は格下の『国民新聞』に一度投稿しただけで、『読売新聞』『東京経済雑誌』『太陽』などに分散して投稿している。それはなぜか?

以上のように、高野房太郎の投稿文を徳富蘇峰ら『国民之友』編集者が「加筆訂正」し、高野の名を伏せて自らの社説として掲載した、などという不自然な説を二村氏が主張し続ける限り、合理的には説明のつかない矛盾や不都合に次々とぶつからざるを得ないのである。そもそも社説「労働者の声」の筆者は高野であるなどという、およそありそうにない説に固執せず、他の社説と同様に民友社員の記者がこれを執筆したと考えれば、何の矛盾や不都合にもぶつからずに済むのであるが。

二村氏はそれでもなお、無理矢理なこじつけで、上の「加筆訂正」説を強引に主張しつづけようとするかもしれない。そこで私は、二村氏の「加筆訂正」説が学術的に決して成り立たないことを立証しておく

二村氏が「加筆訂正」説を「論証」する筋道は、次のとおりである(二村、前掲書、100~101頁。なお、この「論証」は、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」でも繰り返されているので、興味のある読者は確認してほしい)。

(a) 『国民之友』93号(1890年9月3日)の時事欄に掲載された「労役者の組合」という小文がある。この小文と、社説「労働者の声」とは、「同じ雑誌に、同様な主題の文章があいついで掲載され、論旨も一致」している。
(b) したがって、社説「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一人物である。
(c) 「労役者の組合」は労働者の「団結」に相当する言葉として、「結合」の語を用いている。
(d) ところが、「労働者の声」では「結合」ではなく「団結」という語が多く用いられている。
(e) 「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一であるにもかかわらず、「労働者の声」が「団結」という言葉を用いているのはなぜか。それは、もともと「労働者の声」の原稿には「結合」という語が用いられていたはずだが、この原稿を社説として掲載する際に、『国民之友』の編集者が、「「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断し、これを改めたから」である。
(f) したがって、社説「労働者の声」は、「筆者の草稿そのままではなく、『国民之友』の編集者の筆が入っている」と判断される。

この二村氏の「加筆訂正」説の「論証」は、二つの前提条件によって成り立っている。第一は、社説「労働者の声」と「労役者の組合」の筆者は同一人物だという前提第二は、『国民之友』の編集者が「「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断」したという前提

まず二村の第一の前提の当否については、あえて今は問わない。

ここで問題にしたいのは、第二の前提である。二村氏によれば、『国民之友』の編集者は、「労働者の声」の原稿の中に頻出していたはずの「結合」という言葉が日本語として熟していないと判断し、これを社説として掲載する際に、「団結」の語に改めたのだ、というのである。さらに二村氏は「再論(3)」で次のように書いている。

----------------(引用はじめ)
用語をめぐる大田氏の批判において、何より問題となるのは、「労働者の声」の場合、掲載に際して、蘇峰ら編集者による加筆訂正が加えられた可能性がきわめて高い事実を無視していることです。高野房太郎は、今なら「団結」というであろう箇所を、もっぱら「結合」の語を用いていました。これは一貫した高野房太郎の文章の特色です。「労働者の声」と同一筆者が執筆したものと考えられる「労役者の組合」では、団結の語はなく、すべて「結合」が用いられています。これは「労役者の組合」が、雑誌巻末の記事欄掲載の短文で、投稿がそのまま使われたからでしょう。これに対し「労働者の声」は、社説欄に掲載された論説です。この場合、蘇峰ら編集者による加筆訂正があったことは、容易に想像されます。「労働者の声」では「大結合」という複合語で「結合」の語が使われていますが、他には「結合」はなく、もっぱら「団結」が用いられています。これはおそらく、編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え、書き換えたからだろうと推測されます
----------------(引用おわり)

つまり二村氏の推測によれば、「労働者の声」の元原稿には、労働者の「団結」を表す言葉として、高野房太郎が一貫して愛用していた「結合」という語が用いられていたはずだが、蘇峰ら『国民之友』編集者は、この「結合」という言葉が社説の日本語として熟していないと判断し、「団結」の語に書き換えたのだというのである。そして二村氏は、この推測をもって「加筆訂正」説の根拠としているのである。こうした二村氏の推測が正しいかどうかは、労働問題をテーマとして扱った『国民之友』の他の社説を実際に検討すれば、すぐに明らかとなる。

まず、社説「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)から引用しよう。なおこの社説は『蘇峰文選』(民友社、1915年)に収録されていることからわかるように、徳富蘇峰が自ら執筆したものである。ここで蘇峰は、1889年の有名なロンドン・ドック・ストライキにおける労働者の団結を念頭に、次のように述べているのである。

弱者の権の要所は只結合に在り、数多の貧人結合し、是に於て少数の富人に抵抗するを得、数多の愚者結合し、是に於て少数の智者に抵抗するを得、数多の無権者結合し、是に於て少数の権者に抵抗するを得

次に、社説「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)を検討する。この社説も『蘇峰文選』に収録され、執筆者は蘇峰である。

多数を占む、既に勢力なり、況や之が結合して、一の団体を為すに於てをや、所謂合すれば強を成すとの訓言は、既に欧米諸国に於ける職工同盟に於て、実行せられたり」

彼の職工…(中略)…富を有する一個人、若くは此の少数人の団結に向て、戦を挑み、或は交綏し、或は捷ち、動もすれば彼等をして、和を請はしむるに到りたる所以の者は何ぞや、其結合に拠るなり

結合には、強迫的の結合と、随意的の結合あり、而して彼の職工同盟の如きは、随意的の結合なり、其の結合をして、鞏固、確実、有力ならしむるに就ては、…(後略)

以上から明らかなように、『国民之友』の主宰者・主筆・編集責任者である徳富蘇峰自身が、「労働者の声」の前後の時期にあたる二つの社説で、労働者の「団結」を表す言葉として「結合」という語を数多く用いているのである。したがって、『国民之友』の「編集者が、「結合」という語は日本語として熟していないと考え」ていた、などという二村氏の思い込みは、完全に否定されることになる。

繰り返すが、「労働者の声」の元の原稿にあった「結合」という文字を、『国民之友』の編集者が日本語として熟していないと考え、社説として掲載する際に「団結」の語に改めた、などという二村氏の推測は、全く当たっていない。この誤った推測を必須の前提として二村氏が組み立てた「加筆訂正」説は、今やその根底から崩れ去ったといわねばならない。

高野房太郎の諸論稿は、労働者の「団結」を言い表すのに、一貫して「結合」という言葉を用いていた。しかし、社説「労働者の声」は「団結」という言葉を多用している。二村氏は、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説を維持するために、『国民之友』の編集者が高野の原稿を社説として掲載する際に「結合」の語を「団結」の語に改めた、などと無理やりに想定したが、この想定の根拠はもはや存在しない。「労働者の声」の原稿は最初から「団結」という語を用いていたと考えるべきである。

「労働者の声」は、労働者の「団結」・「罷工同盟」・「同業組合」という、全体の論旨のキーワードにおいて、同時期の高野の諸論稿とは用語法が大きく異なっている。この不都合な事実を二村氏が覆い隠すために主張した「加筆訂正」説も、すでにみたように、もはや存立の余地はないのである。

3.5 小括

以上本節では、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠を再検討してきた。二村氏は、「労働者の声」と、同時期の高野の諸論稿とが、論旨・呼びかけの姿勢・用語などの面で一致するとし、そのことをもって高野が「労働者の声」の筆者であると断言していた。しかし、上に詳しく検討したとおり、二村氏の説明とは異なり、「労働者の声」と同時期の高野の諸論稿とは、論旨・呼びかけの姿勢・用語のいずれの面においても、重要な点で異なっている。二村氏は、「労働者の声」と高野の諸論稿とで重要な用語が異なっていることについて、それは『国民之友』の編者が高野の原稿を「加筆訂正」したからだ、などという説を主張したが、この説も事実無根であることが明らかになった。

以上の検討から、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張は、学術的な根拠をすべて否定されたといわねばならない。

【おわりに】

以上、本稿では【1.『国民之友』の無署名社説に「社外執筆者」は存在するか?】・【2.「労働者の声」の筆者は民友社員ではないのか?】・【3.高野房太郎が「労働者の声」の筆者であるという二村一夫氏の主張の根拠は妥当か?】という三つの事柄について、二村一夫氏の「再論(3)」での反論を詳しく検討してきた。

その結果、【1】については、当時の高野房太郎のように民友社とは無縁な若者が『国民之友』の無署名社説を執筆したなどという事例は一つも確認できず、また『国民之友』の社外投稿者の名を記した一覧表にも高野房太郎の名は見いだせないことを明らかにした。【2】については、『国民之友』は労働問題にまったく無関心だった、などという二村氏の断定が事実無根であり、むしろ社説「労働者の声」は『国民之友』における労働問題論の展開過程の中にしっかりと位置づけられることを明らかにし、したがって「労働者の声」を執筆したのは徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるのが、学術的に合理的な推論であることを示した。【3】については、「労働者の声」は同時期の高野房太郎の文章と比較して、論旨・呼びかけの姿勢・用語のいずれにおいても重要な部分で食い違っており、高野房太郎を「労働者の声」の筆者であると断定する二村氏の主張の根拠はすべて否定されることを示した。

以上の検討から、『国民之友』の社説「労働者の声」の筆者を高野房太郎であるとする二村氏の説は完全に否定され、その筆者は、徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるべきことが、論証されたわけである。

なお、二村氏は「再論(3)」の結びに、次のように書いている。

----------------(引用はじめ)
「竹越三叉執筆説」をとられる大田氏は、三叉のどの論稿、あるいは論稿群をもって、彼が「労働者の声」と完全に一致する主張を保持していたとお考えなのでしょうか? 文体、用語、論旨など、さまざまな面で、学兄が私に要求されている水準を満たす竹越三叉作品を、是非ともお教えいただきたいと存じます。 もっと率直に言わせていただけば、学兄の「二村批判」の根拠は「〈労働者の声〉竹越三叉執筆説」ですが、その主張は「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています。しかし、この2点の論稿は、「竹越三叉執筆説」を論証するための出発点とはなり得ても、そのまま「証拠」として使い得る内実を有してはいません。大田英昭氏の「二村批判」は、歴史科学が要求する最低限の史料批判を抜きに、自らの判断こそ正しいとの「思い込み」で議論を進めておられます。そうした手続き上の問題があったことへの自覚がおありでしょうか? 「二村批判」のためには、まず「竹越三叉執筆説」を実証する作業が必要だったのではありませんか?
----------------(引用おわり)

二村一夫氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)の本文の一節の全体(98~102頁)を用いて、「労働者の声」の筆者は誰かについて詳論し、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(102頁)という断定を下したのである。二村一夫氏は自らの著書で断定した説の真実性について、専門研究者とりわけ労働史の大家として、重い責任を負っている。

なお二村氏の同書は、第15回社会政策学会学術賞第23回沖永賞を受賞するなど、社会的評価も高く、一定の「権威」をもっている。しかも、「労働者の声」の筆者は高野房太郎であるという断定は、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」でも繰り返されている。したがって、この著書(およびWEB版著作集)で展開された説が真実でない場合、その偽りの説が学界に対して与える悪影響は決して小さくない。

実際、例えば小松隆二氏は同書の書評で、この著作における「日本労働運動史全体に関わる理解を覆す新発見」の一つとして、「「労働者の声」の真の執筆者」が「高野と特定できること」を挙げているのである(小松隆二「書評と紹介―二村一夫著『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』」『大原社会問題研究所雑誌』607号、2009年 5月)。

私が本稿で詳しく論証したように、「労働者の声」の筆者を高野房太郎と断定する二村一夫氏の説は、全く事実無根なのである。二村氏およびその著書の有する「権威」ゆえに、根拠のない偽りの説がまともに検証もされないまま、あたかも事実であるかのように学界に流通するのを、私は研究者の端くれとして見過ごすわけにはいかない。あえて二村氏の説を詳しく検討し、その根拠として氏が主張することの一つ一つが歴史的事実に反することを明らかにしたゆえんである。高野房太郎本人にとっても、自分が書いてもいない文章を自分のものだといわれるのは不本意であろう。

私が拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の第4章の注(73)で、二村氏の説を批判したのも、そのような思いからであった。なお私はこの注において、家永三郎氏の蘇峰証言と佐々木敏二氏の論文、および当時の竹越三叉の社会問題への関心の高さを示すいくつかの史料を根拠として、「民友社の幹部でもある竹越が「労働者の声」を執筆した蓋然性は非常に高いと考えられよう」(189頁)と書いた(したがって、そこでの私の説が「「徳富蘇峰証言」と佐々木敏二氏論文の2つに依拠されています」という二村氏の指摘は誤っている)。

ただし、私が主張したのはあくまで、竹越が「労働者の声」を執筆した「蓋然性」の高さであって、二村氏のように執筆者が誰かを断定したわけではない。私は、竹越を含む民友社内の社説記者の誰かが「労働者の声」を執筆したのは確実だと考えるが、その執筆者が誰であるかを断定したことはないし、今も断定できるだけの材料をもっていない。

私は、竹越が「労働者の声」を執筆した蓋然性は高いと今も考えている。しかし、正直に言えば、五年前に書いたことの根拠が不十分であったことも、今回の二村氏との論争を通じて痛感した。とくに、「労働者の声」の執筆者について考察するには、『国民之友』だけではなく『国民新聞』の膨大な論説の検討が不可欠であり、とりわけ文体について詳細な比較が必要であることを感じる。そうした今後の検討によって、竹越を執筆者とする蓋然性の高さは変化するかもしれないし、今まで名前が挙がっていない人物が浮上する可能性もある。私は自説への固執よりも、歴史的真実の探求を最優先にしたいと考えている。「労働者の声」の執筆者をめぐるさらなる検討は、今後の課題としたい。

再び二村一夫氏の反論に答える(2)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

前回の投稿に続き、「労働者の声」(『国民之友』95号)の筆者は誰か、をめぐる二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との論争で、二村氏の反論に対する私の応答の第二回目である。

今までの論争の経過については、本ブログの前回の投稿「再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」を参照されたい。

【2.「労働者の声」の筆者は民友社員ではないのか?】

さて、前回の【はじめに 論争の経緯と問題の所在】で記したように、二村一夫氏が「労働者の声」の筆者は高野房太郎であると主張するためには、第二の条件として、その筆者が民友社員の記者ではないことを論証する必要がある。この点に関して、二村氏の「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)の議論を検討しよう。

2.1 『国民之友』の労働問題に関する社説について

二村氏は、「労働者の声」の筆者が民友社員ではないことを主張する根拠として、『国民之友』には「労働者の声」を除き労働問題に関する社説は皆無であると、次のように断定的に述べている。

-----------------(引用はじめ)
『国民之友』に掲載された労働問題に関する論説は、「労働者の声」を除けば、すべて「特別寄書家」によるものでした。家永氏は、『国民之友』の社説欄で「労働者の声」が例外的な論稿であることを認識し、ほかに労働問題に関する論説が皆無であるのは何故かを疑い、問うべきでした。
-----------------(引用おわり)

ここで二村氏が書いていることは、事実に反する

『国民之友』の社説欄に掲載された論説のうち、労働問題に関する社説は「労働者の声」(95号、1890年9月23日)にとどまらない。例えば、「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)「社会的立法の時代」(157号、1892年6月13日)「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)は、いずれも社説欄に掲載された労働問題に関する論説である。

「平民的運動の新現象」は、徳富蘇峰の執筆した社説で、民友社の平民主義の新たな方向性を示す重要論説として、後年『蘇峰文選』(民友社、1915年)に収録されている。この論説で蘇峰は、「昨年八月来倫敦テームス河畔の船渠労役者の間に始まりたる罷工同盟」、すなわち1889年夏の有名なロンドン・ドック・ストライキに着目し、このストが「弱者の権の発達」において画期的な事件であることを強調する。「弱者の権とは何ぞや、多数の弱者連合して、協力して以て少数の強者に当る者なり」。「弱者の権の要所は只結合に在り、数多の貧人結合し、是に於て少数の富人に抵抗するを得、数多の愚者結合し、是に於て少数の智者に抵抗するを得、数多の無権者結合し、是に於て少数の権者に抵抗するを得」。こうした労働者の「結合」=団結による力の増大を、蘇峰は「平民的運動の新現象」と捉え、民友社の平民主義の発展する方向性が労働問題=社会問題にあることを示唆しているのである。

「平民主義第二着の勝利」も蘇峰の筆による社説で、やはり『蘇峰文選』に収録されている。この社説で蘇峰は、「富を以て武力を制し」た十九世紀の平民主義の「第一着の勝利」に続いて、今後の課題は「労作を以て富を制」する「第二着の勝利」に達することだと述べる。蘇峰によれば、この新たな平民主義は「労作の勢力」に基づくもので、とくに「欧米諸国に於ける職工同盟〔「トレードユニオン」とルビが振られている―引用者注〕」が注目される。この「随意的の結合」に基づく「労作の勢力」は、さらに教育の普及、参政権の拡大によって、政治的な力を獲得しつつある。例えば英国で、「総員百二十五万人」を擁する「職工同盟大会」の「二百の団結の代表者五百人」が「八時間勤労条例を実行することを議決」したように、この「労作の勢力」はやがて「富の分配に非常なる変動を生じ」、「手工労役者は必らず其の階級の絶対的に進歩上騰するを見」るだろう、というのである。

以上の社説が欧米の労働問題を素材としているのに対し、「社会的立法の時代」「社会問題の新潮」は日本の労働問題をテーマとする社説である。「社会的立法の時代」のほうは、「紡績所の増加するに従つて、十一二歳の少女が、一日三四銭の賃銀のために、線煙蒸々の中に十四時間も直立し、之がため肺病となりて夭死するが如き」状況の出現を背景として、児童労働者の労働時間制限や、「鉱業条例」による鉱夫の保護、「職工条例」による職工の保護など、「弱者、少数、労力の味方」となるような「社会的立法」を為政者に要求したものである。

また、社説「社会問題の新潮」は、東京の石工および煉瓦積工のストライキや活版職工の動きを挙げて、「近世に於ける職工と雇主との軋轢は、欧米風の輸入病にあらずして、寧ろ社会発達の結果」であると指摘したうえで、「賃金問題」と「労働時間の問題」という「社会問題」において、「第二の奴隷解放の声は正に叫ばれん」としている今日、「社会問題研究会を組織」すべきであり、それを通じて「或は職工の応求希望を聴きて、其不当なるものは之を批評し、其正当なることは、之を雇主に勧告紹介し、雇主の議論を聴きて、また之を職工に紹介」するといった、労使間の紛争の仲裁を行うなどして、社会問題の「調和救正」に努めねばならない、と主張したものである。

以上みてきたように、『国民之友』の社説は「労働者の声」以外に「労働問題に関する論説が皆無」などというのは、二村氏の誤った思い込みにすぎない。『国民之友』は社説で労働問題について繰り返し論じており、「労働者の声」は決して孤立した社説ではないのである。

2.2 『国民之友』における労働問題をテーマとする論説について

二村氏は「再論(3)」で次のようにも書いている。

-----------------(引用はじめ)
『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です。
-----------------(引用おわり)

このように二村氏は、『国民之友』で労働問題をテーマに取り上げている論説は特別寄書家の3本の寄稿だけだと断言しているが、全くのでたらめである。私の確認した限りで、『国民之友』において労働問題をテーマに取り上げている論説を、下に列挙しておこう。いずれも長文の論説であり、短文の記事は含まれていない。

・社説「平民的運動の新現象」69号、1890年1月3日。
・酒井雄三郎「社会問題」81・82・83号、1890年5月3・13・23日。
・酒井雄三郎「五月一日の社会党運動会に就て」89号、1890年7月23日。
・社説「労働者の声」95号、1890年9月23日。
・「チヤムボレーン氏の国家社会説」121・122号、1891年6月13・23日。
・酒井雄三郎「五月一日及び総挙同盟罷工」122・123号、1891年6月23日・7月3日。
・添田寿一「工場条例の必要」130・131・134・139号、1891年9月13・23日・10月23日・12月13日。
・金井延「職工条例ヲ論ジ併セテ添田寿一氏ノ工場条例ノ必要ヲ論スルヲ評ス」133号、1891年10月13日。
・社説「平民主義第二着の勝利」139号、1891年12月13日。
・社説「社会的立法の時代」157号、1892年6月13日。
・社説「社会問題の新潮」169号、1892年10月13日。
・ボアソナド「日本ニ於ケル労働問題」171号、1892年11月3日・
・金井延「日本ニ於ケル労働問題」178・180号、1893年1月13日・2月3日。
・蟠龍居士「貧民存在ノ原因」193・194号、1893年6月13・23日。
・酒井雄三郎「『社会問題』と『近世文明』との関繋に就きて」197号、1893年7月23日。
・公平庵主人「三大社会問題」199号、1893年8月13日。なお「公平庵主人」は添田寿一のペンネームである(広渡四郎『添田寿一君小伝』実業同志会、1924年、参照)。
・酒井雄三郎「社会問題の真相」217・218・219・210・211・222号、1894年2月13・23日・3月3・13・23日・4月3日。
・阪谷芳郎「土木工事ト労力問題トノ関係」225号、1894年5月3日。
・安部磯雄「欧米ニ於ケル社会問題」248号、1895年3月23日。
・川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」305号、1896年7月18日。
・手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」320号、1896年10月31日。
・横山源之助「地方職人の現状」343号、1897年4月10日。
・クレマンソオ「仏国社会主義」354・355・356号、1897年6月26日・7月3・10日。
・片山潜「同盟罷工と社会」356号、1897年7月10日。
・小山健三「職工条例意見」361号、1897年9月10日。
・横山源之助「労働者の払底に就いて」362号、1897年10月10日。
・片山潜「工業奨励に就いて」364号、1897年12月10日。
・横山源之助「紡績工場の労働者」366号、1898年2月10日。
・横山源之助「工業社会に於ける一弊竇」368号、1898年4月10日。

以上、『国民之友』で労働問題をテーマに取り上げた主な論説は、管見によれば少なくとも29編(うち社説5編、特別寄書21編)、掲載回数は延べ45回におよぶ。これ以外の記事・小文も合わせれば、労働問題関係の論説・記事の総計はこの数倍の数となるだろう。上述のごとく二村一夫氏は「『国民之友』の論説で労働問題をテーマに取り上げているのは、「労働者の声」を除けば、ボアソナード「日本ニ於ケル労働問題」、川村昌富「労働者ノ保護ニ就テ」、手島精一「職工ノ家計ト徒弟ノ教育」の3本だけで、すべて特別寄書家による寄稿です」などと断言しているが、それがいかに事実からかけ離れているか、唖然とするほかない。二村氏がもしも本当に『国民之友』を通読したことがあるなら、こんなでたらめを書けるはずはないのだ

2.3 『国民之友』(および民友社)は労働問題に無関心だったか?

さらに二村氏は「再論(3)」で次のように書いている。

-----------------(引用はじめ)
さらに、同志社大学人文科学研究所が作成した『国民之友総索引』で、「労働」に分類されている論説、記事は、総数で34本です。1号平均50本掲載されているとして、372号分で18,600本中の34本です。『国民之友』の労働問題への無関心さは、この数値に明瞭に示されています。つまり徳富蘇峰を主筆とする『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいないのです
-----------------(引用おわり)

まず、単純な誤りから指摘しておこう。『国民之友総索引』(明治文献、1968年)は「同志社大学人文科学研究所」ではなく「立命館大学人文科学研究所・明治大正史研究会」が編纂したものである。また、この総索引で「労働」に分類された論説・記事の総数は34本ではなくて44本である。

そもそも上記の総索引は、論説・記事が複数の分類項目に重複することを許していないので、労働問題に関する論説や記事でも「労働」に分類されず、「経済」・「社会」・「文化」など他の項目に分類されているものが少なくない。例えば、労働問題をテーマに取り上げた上記の29編の重要論説のうち、総索引の「労働」に分類されているものは10篇にとどまる。とりわけ、欧米の労働問題を論じた多くの論説や記事は、「海外事情」の分類項目に含まれている。したがって『国民之友』の労働問題関係論説・記事は、上に二村氏が挙げた数値よりも、実際ははるかに多く、書評・評論などの小文を合計すれば、相当の数量にのぼるだろう。

また、二村氏のいう『国民之友』全372号分の全記事数の推計「18,600本」の大部分を占めているのが、時事的な小文や随筆、雑文、書評の類であることは、『国民之友』の目次を通覧すれば一目瞭然である。そうした全記事数の総計と、労働問題の関係論説・記事数とを比較することに、いったいどのような統計学上の意味があるのか、二村一夫氏にはぜひご教示いただきたい。例えば、『朝日新聞』の一年間の記事数の総計(スポーツ記事、料理などの生活記事、訃報記事等を含む)を分母とした場合に、憲法9条の改憲問題を論じた記事の割合がきわめて小さいからといって、『朝日新聞』の9条改憲問題への「無関心さは、この数値に明瞭に示されています」などと断言するような社会学者がいるだろうか?

『国民之友』が1890年頃から欧米の労働問題・社会問題をいち早くキャッチし、その啓蒙において日清戦争前の論壇をリードした事実は、研究者には周知のことだろう。かつて大河内一男氏は、『国民之友』が「日本の労働運動や社会主義運動にとっての源流としての意義をもっている」とし、「明治初年の自由民権思想と三十年代以後における社会主義運動・労働組合運動とを結ぶかけ橋の役割をつくした」と述べた(大河内一男「「国民之友」と労働運動」『国民之友』(復刻・縮刷版)第1巻〔明治文献、1966年〕所収)。鹿野政直氏も、『国民之友』が「労働する者への敬意と弱者への共感を通して、労働運動の発達を刺戟していった」ことを指摘している(鹿野政直「歴史学から見た『国民之友』」同上書、所収)。いずれも適切な評言である。なお『国民之友』における労働問題論の展開については、佐々木敏二氏の諸論考に詳しい(「『国民之友』における社会問題論」『キリスト教社会問題研究』〔18号、1971年3月〕、「民友社の社会主義・社会問題論」同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収)。

こうした先行研究を頭から無視する二村一夫氏は、「『国民之友』は、「時事欄」をふくむ全誌において、労働問題に、まったくと言ってよいほど、関心を示してはいない」などと決めつけているが、『国民之友』の「全誌」を通読したとはとうてい思えない二村氏の恣意的断定にすぎないことは、もはや言うまでもない。とりわけ、産業革命が始まって間もない1890~93年の時期、民友社以上に労働問題について関心を示し、これを積極的に紹介・啓蒙して論壇をリードしたメディアがもしあったならば、二村氏にはぜひご教示いただきたいところだ。

さらに、二村一夫氏が民友社の論調を『国民之友』だけで判断しているのも、杜撰といわねばならない。徳富蘇峰・竹越三叉・山路愛山を中心とする民友社の論調は、1890年2月に刊行された『国民新聞』の社説・論説・記事をあわせて検討することで、全体として判断することがはじめて可能となる。

事実、『国民新聞』には、『明治文化全集』第15巻(日本評論新社、1957年)に収録された周知のものだけでも、「労働者の政治上に於ける勢力」(1892年6月15日)「聯合追放」(1892年10月28日)「労働問題」(1892年12月8日)「工場の立法」(1892年12月25日)など、労働問題をテーマとする社説が多々ある。高野房太郎の「金井博士及添田学士に呈す」も『国民新聞』への寄稿である(1892年5月20日)。おそらく当時の『国民新聞』を詳細に検討すれば、労働問題に関するさらに多くの論説や記事を発掘できるだろう。

2.4 「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却」について

二村氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)で、高野房太郎以外の者が「労働者の声」を執筆したとは考え難い理由として、次のように述べている(101頁)。

-----------------(引用はじめ)
仮に、この二つの論稿の筆者が高野房太郎ではないとすると、別の謎が生まれます。それは、労働組合や協同組合についてこれだけの知識をもち、日本の労働者の組織化にも強い熱意をもった人物が、たった一編の論稿と一本の小文を発表しただけで、その後いっさいの沈黙を守ったことです。
-----------------(引用おわり)

こうした二村氏の見解に対し、私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)第4章の注(73)において、「労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却は、徳富蘇峰や竹越与三郎らのその後の思想的転向を考えれば不思議ではないことから、この点も「労働者の声」を高野の執筆と断定する論拠にはなりえない」と指摘した。そもそも、「たった一編の論稿と一本の小文を発表しただけで、その後いっさいの沈黙を守った」というのは、『国民之友』を通読していないであろう二村氏の思い込み以外に、何の根拠もないのであるが。

これに対して二村氏は「再論(3)」で、次のように反論する。

----------------(引用はじめ)
「労働者の組織化への熱意」がまだ高かったではずの時期、つまり「労働者の声」が掲載されたその年、1890(明治23)年前半期の第6巻を例に、より具体的に見てみましょう。第69号から第86号までの計18号が発行されています。この間の「時事欄」の記事の総数は462本、1号平均25本余です。この多数の記事の中で広い意味で「社会・労働問題」に関連する記事は、以下の通りです。見出しの列記が可能なほど、数が少ないのです。内容を読むと「社会・労働問題」ではないものもありますが、ここでは、見出しで社会・労働問題らしいものは、あえて含めました。「社会各職業の大会」(76号)、「聖上の御慰問、貧民」(79号)、「米価の騰貴と貧民の乱暴」(79号)、「米商貧民を救う」(79号)、「小作人同盟の解散」(81号)、「社会問題の端」(81号)、「日雇人夫と小農」(84号)以上7点です。なお、この7点のうち、『総索引』の「労働」の項に分類されているのは、「小作人同盟の解散」以降の3点だけです。ご覧になってすぐ気づかれるでしょうが「労働者の組織化への熱意」と呼びうる記事は、ただの1つもありません
----------------(引用おわり)

産業革命が始まったばかりの当時、日本国内には実際にどのような社会・労働問題があり、それを各新聞はどの程度報道していただろうか?そうした当時の時代背景を考慮せず、単に『国民之友』の時事欄(もともと国内の政界の動静をめぐる風聞を中心とする)の中で社会・労働問題を論じた数が少ないという印象を述べるだけでは、何を分析したことにもならない。

ちなみに、日本資本主義がまだ発展途上の段階にあったこの時期、労働と資本の矛盾による典型的な労働問題についての報道が、海外(欧米)中心だったのは当然である。例えば上の2.2 で掲げた『国民之友』の労働問題論説リストにみえるとおり、81・82・83号および89号で特別寄書家の酒井雄三郎が、パリから欧州の労働問題を詳細に報じているのは、特に注目すべきである(後述)。

なお、上に二村氏が挙げた時事欄の記事の中で、重要なのは「日雇人夫と小農」(84号、1890年6月3日)である。この記事は、景気の悪化によって日雇い労働者が賃金の下落や失業に甘んぜざるをえない現状を問題とし、その解決策として労働者の「組合」の結成が次のように提唱されているのである。「我邦の有志者たる者、宜しく是儕日雇人夫の為に、組合を設けしめ、平生其組合に於て、若干の金銭を貯蓄し、之を以て危急の場合に応じて大なる困難なからしめざる可からず」。ここでいう「組合」の内容はまだ漠然としているが、「有志者」に呼びかけていることも合わせて、この記事は三か月後の社説「労働者の声」の論旨の胚珠とみることができる

さらに、二村氏は見落としているが、時事欄の社会・労働問題の記事として「鄙見」(86号、1890年6月23日)は特に注目すべきである。この記事は、福沢諭吉の主宰する日刊紙『時事新報』の「貧民救助策」を批判する形で、社会問題に対する『国民之友』独自の提言として五項目を示したものだが、その第四項で「労働者組合を作り其の貯蓄を奨励する」ことが提唱され、しかも「其の説甚だ長し、他日詳悉するの機ある可し」として、後日この課題を詳細に論じることが予告されているのである。

上の二つの記事の内容は、「労役者の組合」(93号、1890年9月3日)さらには社説「労働者の声」(95号、1890年9月23日)における労働者の組織化の具体的な主張へと発展してゆく萌芽とみてよい。ここに、この時期の『国民之友』において「労働者の組織化への熱意」がしだいに高まってゆく過程をみることができるのである。

なお二村氏は、次のように私に質問している。

----------------(引用はじめ)
ここで、大田英昭氏に伺いたい。「労働者の声」や「労役者の組合」を掲載したこと以外に、徳富蘇峰、竹越三叉らが、彼らの生涯にいおいて、何時、何処で、またいかなる形で「労働者の組織化」を企てたり、応援する活動を展開していたのでしょうか? 「熱意が冷却」する前の実態を、ぜひお教えいただきたいと思います。
----------------(引用おわり)

以下、私の見解を説明しよう。

竹越三叉が1880年代末から労働問題を含む社会問題に熱い関心を寄せていたことは、「社会問題の成行」(『六合雑誌』81号、1887年9月30日)「基督教徒の一大責任」(『六合雑誌』83号、1887年11月30日)「経済書と聖書」(『六合雑誌』114号、1890年6月17日)などに示されている。徳富蘇峰も、『国民之友』の社説「平民的運動の新現象」(69号、1890年1月3日)で、イギリスの労働者の団結による力の増大に注目し、ここに平民主義の新たな発展方向をみていたことは、上に述べたとおりである。

『国民之友』が社会問題の解決の手段として、労働者の組織化に具体的に着目したのは、特別寄書家である酒井雄三郎がパリから寄稿した「社会問題」と題する長大な論説(81・82・83号、1890年5月3・13・23日)が大きなきっかけになったと思われる。ここで酒井は、イギリスの「トレード・ユニオン」(労働組合)「フラインドリー・ソサイチー」(共済組合)「共同消靡会社」(消費協同組合)の仕組みを詳しく紹介し、こうした労働者の「自由の合意」に基づく自主的団結を、社会問題の有力な解決法として高く評価しているのである。

蘇峰なり三叉なり、民友社の『国民之友』記者が社会問題の解決法として労働者の組織化に着目するにあたって、酒井の論説「社会問題」がきっかけとなったことは、大いに考えられる。事実、酒井のこの論説が掲載された直後から、『国民之友』は時事欄で労働者の組織化を提唱しはじめる。上に触れた「日雇人夫と小農」(84号、1890年6月3日)「鄙見」(86号、同年6月23日)がそれである。また、高野房太郎がアメリカから『読売新聞』に寄稿した論説「北米合衆国の労役社会の有様を叙す」(同年5月31から6月27日にかけて連載)も、民友社の人びとに何らかの刺激を与えたかもしれない。その後、「労役者の組合」(93号、同年9月3日)を経て、社説「労働者の声」(95号、同年9月23日)において、『国民之友』の「労働者の組織化への熱意」は最高潮に達した。

ただし、『国民之友』における労働者の組織化の主張は、社会問題を解決するという目的に対する一つの手段に過ぎなかったことに注意せねばならない。社説「平民主義第二着の勝利」(139号、1891年12月13日)で、蘇峰が「多数の結合」に基づく「労作の勢力」の増大と勝利こそ平民主義の新しい趨勢とみて、欧米の労働組合運動に注目したことはすでに述べた。ただし蘇峰によれば、こうした平民主義の「第二着の勝利」は、今の段階では、すでに「富の勢力」=資本主義の発達した「泰西諸国」にのみ当てはまるもので、日本についてはまだ時期尚早だとして、次のように述べられている。「如何に国勢に向て鉄鞭を加ふるも、進歩の大理は、順序の践行を看過する能はず。然らば此勝利は、我邦に於ては、将来に於ける勝利として、予じめ之を待ち設く可きのみ」。このように蘇峰は、日本における労働運動の発展は将来の課題であるとして、これを先延ばしにしたのである。

こうした社会進化論的・漸進的な見解から、民友社は社会・労働問題解決の手段として、労働者の組織化は時期尚早として棚上げにする一方、政府の社会政策による労働者保護(社説「社会的立法の時代」157号、1892年6月13日)や、有識者による労使間の軋轢の仲裁(社説「社会問題の新潮」(169号、1892年10月13日)といった方向に傾斜してゆく。さらに、蘇峰や三叉の平民主義から国家主義・帝国主義への漸次的移行が、この方向をいっそう変質させていく。その行き着く先に、三叉の「国家社会主義」(『世界之日本』第2巻第2号、1898年9月17日)の主張が現れてくる。私のいう彼らの「熱意の冷却」とは、おおよそこのような見通しのことを指しているのである。

2.5 小括

以上、『国民之友』の労働問題論についての二村氏の主張を検討してきた。労働問題に関する『国民之友』の社説は「労働者の声」のほかに存在しないという二村氏の断定、および、労働問題をテーマに取り上げた同誌の論説はわずか3本しかないという二村氏の断定は、いずれも事実に反することが明らかになった。実際は、労働問題に関する『国民之友』の社説は1890年から92年にかけて5本あり、労働問題をテーマに取り上げている主要論説は少なくとも29本存在することを、私は明らかにした。『国民之友』は労働問題にまったく無関心だった、などという二村氏の断言は事実無根である。『国民之友』(民友社)が欧米の労働問題・社会問題をいち早くキャッチし、労働問題の啓蒙において日清戦争前の論壇をリードする役割を担ったという評価は、私のみならず多くの思想史研究者の認める定説なのである。

二村氏は、社説「労働者の声」(およびその直前の記事「労役者の組合」)の労働者組織化の主張を、『国民之友』において例外的なものと思い込み、この社説の執筆者は民友社員ではない高野房太郎に違いないと想像力を膨らませたのであった。しかし実際は、徳富蘇峰ら民友社幹部は1890年初頭から欧米の労働組合運動に注目し、在仏の特別寄書家である酒井雄三郎による労働組合・協同組合・共済組合の高い評価に影響を受けて、時事欄で労働者の組織化を主張し始めたのであった。社説「労働者の声」(および時事欄の記事「労役者の組合」)は決して孤立した論説ではなく、『国民之友』における労働問題論の展開過程の中に、しっかりと位置づけることができるのである。

したがって、社説「労働者の声」を執筆したのは徳富蘇峰・竹越三叉を中心とする民友社内の記者であると考えるのが、学術的に合理的な推論である。二村氏のように、わざわざ無理筋の理屈づけをして、これを高野房太郎の筆であるなどと強弁する必要はないのである。

次回は、二村氏が「労働者の声」の筆者を高野房太郎であると断定する根拠を再検討し、二村氏の推論が学術的に全く成り立ちえないことを明らかにしたうえで、「労働者の声」の筆者にかんする私の現時点での見解を述べたい。

追記:続編として「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」をアップしました(2018年6月18日)


再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

【はじめに 論争の経緯と問題の所在】

まず、労働史研究者の二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との間の論争の経緯をふりかえっておこう。

論争の中心のテーマは、『国民之友』の95号(1890年9月23日)の社説欄に掲載された無署名の論説「労働者の声」の筆者は誰か、という問題である。「労働者の声」は、日本で最初に労働者の組織化を主張した論説として、日本の労働運動史上に記念碑的な意味をもっている。

この論争の前提として、次の二つの先行研究がある。

(a) 歴史家の家永三郎氏は、『国民之友』(民友社)主宰者の徳富蘇峰から、「労働者の声」の筆者は竹越与三郎(号は三叉)か山路愛山であろう、という証言を得ていた(家永三郎「「労働者の声」の筆者」『日本歴史』55号、1952年12月)。

(b) 上の証言をふまえて日本近代思想史研究者の佐々木敏二氏は、「労働者の声」の筆者について、山路愛山の筆とは考えにくく、竹越三叉の可能性が高いと推定しつつも、それを断定する決め手はないとした(佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収))。

二村一夫氏と私との論争の経過は、次のとおりである。

①二村氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)において、「労働者の声」の筆者をこれまで探索した人はいないと述べ、その筆者について四つの論拠を挙げて、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」と断定した(98~102頁)。なお、ほぼ同じ趣旨の文章が、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」にある

②私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の「第4章 日本における「社会問題」論の形成」の注(73) において、二村氏が「労働者の声」の筆者をめぐる二つの先行研究を無視していることを指摘し、二村氏がその筆者を高野房太郎であると断定する四つの論拠はいずれも説得力に乏しいことを述べた。そのうえで「労働者の声」の筆者について、二つの先行研究と文章の内容から、竹越三叉の蓋然性が高いとした。(この注の全文は、文章を若干手直ししたうえで、本ブログ2014年5月5日の記事「「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について」の中に再録してある。)

③二村氏は2018年4月、WEB版『二村一夫著作集』の「高野房太郎とその時代」の追補として、「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1) 」と題する文章を掲げた。そこで二村氏は、先行研究を無視した自身の誤りを認めたうえで、家永氏による蘇峰証言の真実性に疑問を呈し、「労働者の声」の筆者として「社外執筆者」が存在する可能性を主張した。また、「労働者の声」の声の筆者は竹越三叉である蓋然性が高いとする私の説を批判して、文体と文章の内容とから、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」と主張した。

④私は本ブログ2018年5月13日の記事「二村一夫氏の反論に答える―「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」において、『国民之友』の社説である「労働者の声」の筆者として「社外執筆者」の存在可能性を主張する二村氏の説に根拠がないことを指摘した。また、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」とする二村氏の主張の根拠が説得力を欠くことを指摘したうえで、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説が成り立ち得ない理由を再論した。

⑤二村氏は2018年5月20日、WEB版『二村一夫著作集』に「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論 (2)」(以下、「再論(2)」と略す)と「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)を掲載した。二村氏は「再論(2)」で、「労働者の声」の筆者が山路愛山ではないことを述べ、「再論(3)」では、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説は成り立ち得ないとする私の批判に反論し、高野執筆説を改めて主張した。

「再論(2)」での、「労働者の声」の筆者が山路愛山でないという二村氏の主張自体に、私はとくに大きな異論はない。そこで本稿では、主として「再論(3)」を検討の対象とする。

「再論(3)」の内容を具体的に検討する前に、まず「労働者の声」の筆者を高野房太郎と断定する二村一夫氏の説が成立するためには何が必要か、私の考えを示しておこう。

まず、「労働者の声」が、『国民之友』の「国民之友」欄に掲載された論説であることに注意する必要がある。「国民之友」欄の論説は『国民之友』の社説であり、蘇峰ないし蘇峰に代わる民友社員の記者が原則として無署名で執筆し、民友社の主義主張を掲げたものである。それは現在に至るまで、『国民之友』を史料として研究する者の共通認識といえる。

民友社とは何の接点もなかった高野房太郎が『国民之友』の社説を執筆したなどという、従来の民友社研究の常識から外れた突飛な説を二村氏が主張するには、次の三つの条件が必要である。

第一の条件として、『国民之友』の無署名社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とはおよそ無縁な若者が同誌の社説を執筆したという事例を挙げることが、二村氏には必要である。

第二の条件として、『国民之友』の社説「労働者の声」の筆者は民友社員ではない、と断定できる根拠を、二村氏は示さねばならない。

第三の条件として、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であることを論証するに足る積極的な根拠を、二村氏は示さなければならない。なお二村氏は前掲著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』で、文体と文章の内容とから四つの根拠を挙げたが、それらがいずれも説得力がないことを、私は前掲拙著および本ブログ2014年5月5日の記事で指摘してある。

以上三つの条件を二村氏の「再論(3)」が満たしているかどうか、それぞれ検討を加えてゆこう。

【1.『国民之友』の無署名社説に「社外執筆者」は存在するか?】

1.1 『国民之友』の寄書制度と社外者の投稿について

二村一夫氏は、民友社と何の接点もなかった高野房太郎が『国民之友』の社説「労働者の声」を執筆した可能性を主張する一つの理由として、『国民之友』の寄書制度(一般の投書家、および著名な有識者に委嘱された「特別寄書家」による)を挙げている。

この寄書制度は、二村氏があげつらうまでもなく、『国民之友』についていくぶんの知識をもつ者には周知のことである。『国民之友』における寄書の論説や創作・批評・雑文にはいずれも署名があり、文章の責任の所在が明示されている。つまりそれらは、民友社自身が責任をもって主義主張を掲げる「国民之友」欄の無署名社説とは、はっきり区別されているのである。したがって、こうした『国民之友』の寄書制度の存在は、特別寄書家ですらない高野房太郎が一般投書家として社説を執筆したという可能性を主張する根拠になるどころか、むしろそれを否定するものである。

ちなみに、『国民之友』第八巻総目録には、「我国民之友初号発刊以来今日まで投稿したる諸氏」(つまり1887年2月の創刊から1891年6月現在まで)の一覧表が掲載され、152人の社外投稿者の氏名を見ることができる(下の写真を参照)。しかし、その中に高野房太郎の名前はない。つまり、この期間(「労働者の声」が掲載された1890年9月23日を含む)において、高野が『国民之友』に投稿した事実は確認できないのである。
国民之友投稿者1.jpg
「我国民之友初号発刊以来今日まで投稿したる諸氏」『国民之友』第八巻総目録(復刻縮刷版『国民之友』第8巻〔明治文献、1966年〕所収)

1.2 鉄面生「山縣伯に与ふるの書」『国民之友』(86号、1890年6月23日)について

二村一夫氏は、『国民之友』の社説として社外執筆者の投稿が掲載された事例が存在するとして、次のように述べている。

-----------------(引用はじめ)
このほか ─ 大田氏にはとても信じ難いことでしょうが ─ 数は限られていますが社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実があります。それもご要望にピッタリの「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例」が存在するのです。「労働者の声」が発表されるちょうど3ヵ月前、1890(明治23)年6月23日発行の第86号 の巻頭論文「山縣伯に與ふるの書」がそれです。「労働者の声」が同じ「国民之友欄」ではあっても巻頭ではなく、論説の2番目に掲載されたのに対し、この「山縣伯に與ふるの書」は『国民之友』の文字通りの巻頭論文です。

(中略)

このように、「白面の一書生」の投稿が、『国民之友』の社説欄、それも巻頭に掲載された事例が、明白に存在するのです。今ではほとんど使われない言葉ですから念のために付記すれば、「白面」とは、年が若く経験の乏しい者、青二才を意味しています。大田氏が「民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われること」は、決して異例ではないのです。
-----------------(引用おわり)

ここで二村一夫氏は、「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者」が『国民之友』社説を執筆した例として、『国民之友』(86号、1890年6月23日)の社説欄に掲載された、鉄面生なるペンネームの付された論説「山縣伯に与ふるの書」を挙げている。二村氏は、この論説の冒頭にある「余は白面の一書生」云々などという口上を真に受けて、これを社外執筆者による投稿と思い込んでいるらしい。

しかしこの論説は、二村一夫氏の不用意な臆測に反して、徳富蘇峰の執筆したものなのである。この文章はそのまま徳富蘇峰の著作『人物管見』(民友社、1892年)に転載され、さらに『蘇峰文選』(民友社、1915年)にも収録されている。

蘇峰文選1.jpg
『蘇峰文選』(民友社、1915年)目次。画像は国立国会図書館デジタルコレクションより。画像転載許可済み(国図電1801044-1-175 号)

この社説「山縣伯に与ふるの書」の内容は、山縣有朋首相に対して「自ら国務大臣の責任なる者は、議院に対する責任なる事を明言」することを要求し、議会無視の超然主義を採らないよう呼びかけたものである。『国民之友』は前年の第67号(1889年11月2日)に掲載した政治批判がもとで一か月に及ぶ発行停止処分を受けていた。蘇峰は再度の発停を覚悟しつつ、鉄面生なる仮名に託して、あえてこの論説を執筆・掲載したものと思われる。

なお、『国民之友』の1887年2月創刊号から1895年12月の第276号(竹越三叉の民友社退社が96年1月初めに公表されたので、ここを区切りとする)までの総目録を通覧すると、「国民之友」欄の社説のうち、外部からの投稿の形式をとったものが二つだけある。一つは上記の「山縣伯に与ふるの書」であり、もう一つは望教生なるペンネームの付された「板垣伯に与るの書」(114号、1891年4月3日)である。実は後者も、蘇峰の上記の著作『人物管見』に収録されており、やはり蘇峰の執筆したものであることがわかる。つまり、当該時期の『国民之友』において、二村氏の力説する「社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実」などというものは、一つも確認できないのである。

1.3 小括

繰り返すが、『国民之友』社説の位置づけをめぐって当事者や研究者の間で長年共有されてきた事実認識を、二村一夫氏があえて疑い、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(二村、前掲書、102頁)などという断定的な主張を維持したいのであれば、まず『国民之友』の無署名社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とは無縁な若者が同誌の社説を執筆したという事例を挙げることが、第一の条件として必要である。しかし、そうした事例は(二村氏の不用意な思い込みを除いて)一つも確認することができない。そればかりでなく、『国民之友』の152人にのぼる社外投稿者の名を記した一覧表に、高野房太郎の名は見いだせないのである。

したがって、「労働者の声」の筆者を高野房太郎とする二村一夫氏の主張は、学術的な検証に耐える根拠を欠くものといわねばならない。

(以下、続く)

追記1:『蘇峰文選』の画像を追加しました。(2018年6月16日)

追記2:「再び二村一夫氏の反論に答える(2)」をアップしました。(2018年6月16日)

追記3:「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」をアップしました。(2018年6月18日)

長春だより

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