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1896年徳富蘇峰の欧州旅行と青木周蔵書簡 [日本・近代史]

今学期の授業では、『徳富蘇峰関係文書』(全3巻、山川出版社)に収録された徳富蘇峰宛てのさまざまな書簡を学生たちといっしょに読んでいる。長春市は先月11日からすでに一か月近くロックダウンが続いており、大学キャンパスも封鎖されたままなので、オンライン授業となっているけれども。

幕末の動乱期に生まれ、明治維新から大日本帝国の滅亡に至る全過程を経験し、さらに新憲法制定、東西冷戦の開始、55年体制の成立を経て、亡くなるまでの蘇峰の95年の生涯は、近代日本の栄光と没落、光と闇とを体現するものといってよい。

蘇峰は1863年、肥後水俣の惣庄屋の家に生まれ、14歳で熊本バンド(日本プロテスタント・キリスト教の源流の一つ)の結盟に参加、京都の同志社英学校に学び、帰郷後は自由民権運動に参加した。さらに上京して1887年民友社を創立、雑誌『国民之友』と日刊『国民新聞』を創刊して「平民主義」を中心に平和・自由・進歩を説き、一躍論壇の寵児となった。が、日清戦争の頃から「日本膨張論」ついで帝国主義に転じ、「変節者」との罵声を浴びつつ藩閥政府に接近、『国民新聞』は桂太郎の機関紙となって日露戦争遂行に全面協力したあげく、その社屋は1905年の日比谷焼打事件で民衆に襲撃された。

韓国併合の1910年、蘇峰は朝鮮総督府の機関紙『京城日報』の監督となり、翌年には貴族院勅選議員に就任、皇室中心主義および「白閥打破」を唱えて大正デモクラシーに対抗した。31年の満洲事変後は軍部と結んで「興亜の大義」「挙国一致」を唱え、国民を戦争に動員する言論界の動きを主導した。40年、日独伊三国軍事同盟締結の建白書を近衛文麿首相に提出、41年には東条英機首相の依頼で「大東亜戦争」の「開戦の詔書」の作成に関与した。42年、大日本言論報国会会長に就任、43年文化勲章を受章。

45年敗戦後、蘇峰は「百敗院泡沫頑蘇居士」の戒名を自称、A級戦犯容疑者に名を連ねたが、高齢のため自宅拘禁となり、後に不起訴とされた。公職追放処分を受けて46年貴族院勅選議員を辞任、文化勲章を返上して、熱海に隠遁した。52年『近世日本国民史』全100巻を完結。57年死去。

95年に及ぶ長い生涯の間、蘇峰は新聞人として政財界・思想界・文学界・芸術界・学界の大物たちと交際している。自由民権期から戦後に至る、近代日本の各界の著名人から蘇峰に宛てられた膨大な数の書簡を蘇峰は保存していた。うち約4万6千通(差出人数約1万2千人)の書簡が、神奈川県二宮の徳富蘇峰記念館に所蔵されている。IMG_4420.JPGその一部をまとめて公刊されたのが『徳富蘇峰関係文書』だが、大部分の書簡は未公刊のまま同館に眠っている。まさしく日本近代史・思想史の史料の宝庫といっていい。

今学期の授業では、藩閥官僚・政治家(青木周蔵・井上馨・井上毅・大隈重信・桂太郎・金子堅太郎・清浦奎吾)たちの蘇峰宛ての書簡を読んでいる。書簡の大部分は候文なので、その読み方の訓練を兼ねた授業である。中国の学生たちは漢文体の文語を読むのは得意だが、純和文体や候文はあまり読み慣れていない。ただし候文については、読み方のちょっとしたコツを教えると飲み込みが早く、やがてすらすらと読めるようになる。

先日は青木周蔵の書簡19通を読んだ。青木といえば、高校の日本史ではもっぱら条約改正(特に治外法権の撤廃)に尽力した外交官として登場するが、藩閥官僚政治家の中でもとくに過激な彼の侵略主義的外交思想については、あまり知られていないだろう。

1889年、青木は第一次山県有朋内閣の外相に就任した。山県首相は翌90年12月、第一回帝国議会の施政方針演説で、次のように主張した。国家の独立自営のためには、主権線(国境線)を守るだけではなく、その安全と密接に関係する地域=「利益線」の防護が重要である、と。「利益線」とは具体的に朝鮮を指す。日本の独立維持のためには朝鮮を影響下に置くことが必要というわけで、そのための軍拡予算の必要を山県は国会に訴えたのである。

ちなみにこの「利益線」という考え方は、ロシアが自らの独立維持に不可欠な勢力圏としてウクライナのNATO加盟を絶対に阻止しようと侵略戦争を起こした発想と、どこか似ている。

同じ1890年、青木周蔵外相は「東亜細亜列国ノ権衡」という意見書を提出した。それは山県の「利益線」論よりもさらに「積極的」=侵略的なものだ。この意見書の中で青木は、ヨーロッパが戦乱に入る時期を狙い、日本と清国が連合してロシアを討ち、朝鮮を日本の版図とし、さらに「満洲」(中国東北部)とカムチャッカをも日本の手中に収め、その代わりにシベリアを清国に与える、という外交政略を提言している。山県もびっくりの誇大妄想的な侵略思想だ。

さて、徳富蘇峰は1896年から97年にかけて欧米を旅行したが、当時の日本の知識人がもっぱら西欧に目を向けていたのに対し、蘇峰が東欧を重視したのは特徴的だ。彼はロシア帝国(ポーランドやウクライナを含む)、ルーマニア、オーストリア=ハンガリー帝国、トルコを巡遊し、ブカレストではルーマニア国王・首相のほか、たまたま来訪中のセルビア国王にも謁見している。ロシア帝国ではポーランドのワルシャワ、サンクトペテルブルク、モスクワのほか、ウクライナのキーウ(キエフ)とオデーサ(オデッサ)にも滞在した。

その間、蘇峰はヤースナヤ・ポリャーナのトルストイの屋敷を訪問し、親しく話をした。「人道」と「愛国心」とについて、トルストイは両立しないと言い、蘇峰は両立すると言った。蘇峰はトルストイ家で拾った木の葉を記念に持ち帰った。それを押し葉にした帳面は今も蘇峰記念館で見ることができる。なおトルストイは、日本の「雑誌編集者で大金持ち」「貴族」「聡明で自由思想の人」という蘇峰の印象について、モスクワの妻に宛てた手紙に書いている。

この旅行の途次、蘇峰はベルリンで駐独公使の青木に会った。互いに意気投合したようで、欧州旅行中の蘇峰に宛てて青木が書いた手紙が7通残されている。

うち、1897年4月20日付の青木の蘇峰宛書簡は興味深い。この手紙で青木は、日本の政界から体よく左遷されているわが身の不遇をかこち、自分の「不人望」について愚痴をだらだらと並べた後、自分自身の抱懐する外交政策を次のように披瀝している。

「老生は大臣時代に先〔さきだ〕ち既に呂宋〔ルソン〕を領略するの意ありて今尚ほ窃〔ひそか〕に之〔これ〕を抱持す……故に老兄若〔も〕し之〔これ〕を協賛するに意あらば西班牙〔スペイン〕人之〔の〕注意を惹起せざる様に運動して我同胞数千(数万なれば更に善し)を該島に出稼または移住する様に御駆引有之度〔これありたく〕候」


ここには、青木が長年抱いているというフィリピンに対する露骨な侵略の意図が、赤裸々に述べられている。そしてその手始めとして、日本人を数千または数万人移住させるという策を蘇峰に授けている。さらに青木は、陸軍の重鎮で日清戦争の際に征清総督府参謀長を務めた川上操六中将に宛てて、次のようなことづてを蘇峰に頼んだ。

「日本は来年(今年と申さば無理ならん)に至り露と戦ふの準備あるや。遼東鶏林之恥辱を雪〔すす〕ぐに意あるは老生之確信する処なれども果〔はたし〕て然らば速〔すみやか〕に準備を整ふべし。……と窃〔ひそか〕に御伝可被下〔おつたえくださるべく〕候」

「遼東鶏林〔鶏林は朝鮮の異称〕之恥辱」とは、日清戦争で分捕った遼東半島を露・仏・独の三国干渉によって手放さざるを得なくなったことと、閔妃暗殺事件後に朝鮮王宮が日本の影響力を排除しロシアを頼るようになったこととを指す。これらの「恥辱」をすすぐために、ロシアとの戦争準備を速やかにはじめる(それによって遼東と朝鮮を分捕る)べきだと、青木は提言しているのである。

この手紙の末尾に青木は次のように書いている。
「秘密々々御一見後御焼棄可被下〔くださるべく〕候」
読み終わったら手紙を焼き捨てるよう、蘇峰に頼んでいるのである。しかしどういうわけか、蘇峰は青木の指示に従わず、この「秘密」の手紙をわざわざ日本まで持ち帰り、大切に保管した。その結果、青木の恐るべき侵略思想が、その愚痴もふくめて永遠に記録され、125年後に中国で授業の教材にされることになるとは、青木も蘇峰も想像すらしなかったであろう。

長春だより

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