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黒龍江省肇東市の中・小学校教員ストライキ [中国・労働問題]

11月17日、黒龍江省肇東市で8千名の教員による大ストライキが起き、市内の中・小学校は全て授業中止となった。教員らの訴えによれば、ストライキの主な原因は低賃金にある。
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ストライキを行う前、教員たちは8千人の連名で、中国共産党肇東市委員会(市委)および肇東市人民政府(市政府)に対し、賃金水準や補助手当の適正化など、十項目の陳情書を提出していた。しかし、市委・市政府は十分な回答を与えないばかりか、陳情に対し懲罰をもって臨む態度を示した。そこで教員らは、ストライキを構えて第二回の陳情書を市委・市政府に対し突き付けたのである。
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彼らは次のように訴えている。
「私たち教員は国家の文書規定にもとづいて、賃金を引き上げ基本的生活を維持することを要求している。私たちは法に違反しているだろうか?なぜ私たちの正常な訴えに対して、弾圧的なやり方をとるのか?いったい誰があなた方にこんな権力と蛮勇を与えたのか?あなた方はそれでも人民の公僕か?共産党の幹部か?民衆の根本的利益の代表か?」

「今日の午前、市政府の玄関で、私たちは市の指導者が私たちに向かって次のように言うのをこの耳で聞いた。『君たちは党を信じ、政府を信じなければならない』と。私たちの訴えに対するあなた方の回答に、現在私たちは同意も理解もできない。あなた方が二度と学校の仲間やその他のリーダーを弾圧しないことを、私たちは希望する。もしこのようなやり方であなた方が回答を行うなら、どの教員も憤慨するだろうし、感情はいっそうコントロールが難しくなるだろう。もし党と政府が私たちの信任に値し、私たちの福利を図るのであれば、強硬な措置をとって社会の最底辺の知識分子を弾圧することなどできないはずだ。あなた方や私たちの子・孫の教育にたずさわっている教員たちを落胆させてはならない。」

「したがって、私たちは再び、正常なルートを通じて、上級機関に私たちの訴えを伝える。あなた方が私たちに理性的であれと要求するのであれば、党や政府を代表するあなた方は、いっそう理性的・客観的に私たちの問題を解決できるはずで、ひたすら責任を転嫁してお茶を濁したり、はては脅迫・弾圧をおこなったりするはずがないだろう。水曜日より前に、指導的立場の方々が、問題解決の期限を決めて理にかなった回答を出すことを、私たちは希望する。もしその時までに満足な回答を得られないならば、私たち全教員は権利擁護の運動を継続する。 

肇東市全中小学教員 
2014年11月16日」

黑龙江8000教师罢工 要求足额发放房改提租补贴
http://news.21cn.com/social/shixiang/a/2014/1119/14/28583325.shtml

「満映」から「長影」へ(2) [東アジア・近代史]

「満洲映画協会」(満映)についての前回の投稿の続き。

1945年8月、ソ連軍が満洲(中国東北部)に進攻し、日本の敗戦とともに満洲国も崩壊した。その直後の8月20日、満映理事長の甘粕正彦は自殺。長春はソ連軍の軍政下に置かれた。

映画製作の政治的重要性を知る中国国民党と共産党は、満映を自勢力の支配下に接収するため、それぞれ水面下で工作した。中国共産党は密かに党員を満映に送り込み、元日本共産党員で満映職員の大塚有章を通じて多数の日本人スタッフの協力を得ることに成功し、9月「東北電影工作者聯盟」を発足させた。大塚はマルクス経済学者河上肇の義弟で、1932年に日本共産党に入党し、いわゆる赤色ギャング事件の実行犯として逮捕され、懲役十年の判決を受けて服役。出獄後1942年満洲に渡り、甘粕の庇護を受けて満洲映画協会上映部巡映課長に就任していた。

東北電影工作者聯盟は、満映理事の和田日出吉との交渉の末、満映の権利を接収する合意を得た。こうして共産党は、満映獲得競争で国民党に一歩先んじ、10月1日、「東北電影公司」を設立した。同公司の技術者や職員の多くは満映の人員を引き継ぎ、多数の日本人が引き続き雇用された。大塚と西村龍三・仁保芳男の三名は同公司の指導機構の委員に加わり、約200人の日本人スタッフがその運営に協力したという。

その後、国共内戦が始まる中、中国東北にも国民党が進軍し、中国共産党は長春をいったん放棄した。長春を占領した国民党は旧満映の施設を接収したが、その直前に東北電影公司は多くの機材を合江省興山(現・黒竜江省鶴崗市)に移動させて、ここに「東北電影製片廠」を設立、日本人スタッフもこの逃避行に従い、中国共産党の闘士たちと苦楽をともにしながらここで映画製作に携わった。長影旧址博物館にはこうした日本人たちの協力について説明するパネルが展示されており、1946年末に東北電影製片廠の芸術・技術・事務三部門に在籍していた日本人84名全員の名前が記されている。その中には、映画監督の内田吐夢・木村荘十二らの名がみえる。
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国共内戦下の困難な状況で、東北電影製片廠が製作した映画としては、『民主東北』が有名だ。『民主東北』は47~49年に製作された十七編のシリーズで、その大半は内戦をめぐるプロパガンダ的ニュース映画だが、劇映画・人形劇なども含まれており、現存するフィルムは国共内戦期の重要な映像資料となっている。
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(『民主東北』第1・2輯「民主聯軍営中的一天」1947年5月1日 http://www.56.com/w22/play_album-aid-7861381_vid-NjE1MTc1ODc.html

なお、この『民主東北』シリーズの製作には、日本人スタッフも重要な役割を果たした。撮影の福島宏・岸寛身・気賀靖吾、編集の岸富美子らである。うち岸富美子は、京都日活を経て39年満洲に渡り満映に入社、李香蘭主演の「白蘭の歌」(1939年)などの編集に関わった経歴をもつ映画人だ。彼女は数年前のインタビューで、東北電影製片廠での思い出を次のように語っている。

「〔満映の〕国策映画を作ってきた自分が、急に中国共産党主導の映画づくりにかかわり、日本軍の蛮行を描くなかで、『本当に日本はこんなことをやったのか』という驚きと戸惑いも。また映画と政治はどうかかわるのかと深刻に考えたこともありました」。「私は長男を生んだばかりで育児も大変。当時中国には私たちのような技術者がいなかったので、たびたび徹夜作業も。その時は、宿舎まで授乳のためにジープで送迎してくれたり、監督は気を使ってくれました。期日までに完成し、中国電影局からOKが出た時は、撮影所あげて万歳しました」。(『日中友好新聞』2008年8月5日 http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/2008/080805.html )。なお彼女は53年に帰国した後、新藤兼人らと独立プロをつくるなど、戦後日本の映画界でも活躍した。(『はばたく映画人生―満映・東映・日本映画 岸富美子インタビュー』せらび書房、2010年)

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(旧日本陸軍の九二式歩兵砲。長影旧址博物館に展示。中国共産党の人民解放軍は、かつて抗日戦争中に鹵獲した九二式歩兵砲を大量にコピー生産し、国共内戦や朝鮮戦争に投入した。)

1948年5月、反転攻勢に出た中国共産党の東北人民解放軍は長春を包囲、五か月にわたる包囲戦の末、10月に国民党軍を降伏させた(この包囲の間、長春市内に数十万の餓死者が出たといわれる)。こうして国民党の手に落ちていた旧満映の建物・施設は再び共産党に接収され、翌年東北電影製片廠も旧満映の敷地に戻った。その後55年、東北電影製片廠(東影)は長春電影製片廠(長影)へと改名する。
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(現在の長影)

東北電影製片廠で活躍した日本人スタッフの一人に、草創期のアニメーション・人形劇映画作家として有名な持永只仁(1919~1999年)がいる。持永は戦前から戦中にかけて、芸術映画社の漫画映画班でアニメ製作に携わった後、45年に渡満し満映に入社した経歴をもつ。彼は東北電影製片廠で、人形劇映画『皇帝夢』(1947年)や、アニメ映画『甕中捉龞』(1948年)などを製作。
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さらに上海電影製片廠で『謝謝小花猫』(1950年)、『小猫釣魚』(1951年)などを作った。
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(『小猫釣魚』https://www.youtube.com/watch?v=evjK_hgfnUg )

53年に帰国した後も、持永は日中友好に関わり、1967年10月に中国を訪問した際には、毛沢東と親しく面会している(一位让中国人民难忘怀的日本动画专家持永只仁 http://shaoer.cntv.cn/children/C20976/20110331/100277.shtml )。
没後の2006年、東方書店から持永の自伝『アニメーション日中交流記』が刊行された。
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「満映」から「長影」へ(1) [満洲国]

今年8月にオープンした「長影(長春映画製作所)旧址博物館」を先月訪れた。長春における映画製作の歴史はたいへん興味深いものがあるので、少し紹介したい。
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〔長影旧址博物館の主楼。旧・満洲映画協会(満映)の社屋で、昨年全国重点文物保護単位(国家級の重要文化財)に指定された〕

長春は中国最大規模の映画製作所「長春電影製片廠」(長影)を擁する、映画産業の中心地だ。その淵源は、長春が満洲国の首都新京と呼ばれていた1937年、満洲国と南満洲鉄道(満鉄)の折半による共同出資で国策映画会社「満洲映画協会」(満映)が設立されたことにある。すでにその四年前、関東軍(満洲に駐屯する日本軍)参謀の小林隆少佐の提唱で、関東軍と満洲国警察の支持のもと「満州国映画国策研究会」が発足していた。

満洲では日本の侵略以来、中国人・朝鮮人の抗日パルチザンと日本軍との戦闘が続いており、人工的な傀儡国家である満洲国に対する「国民」の忠誠心はきわめて低かった。37年7月には盧溝橋事件によって日中全面戦争の火ぶたも切られ、民心を鎮撫し国家への忠誠心を涵養して、戦争への精神面での動員を図ることが急務とされていた。満洲国の統治機関のそうした意図に基づいて、重要な国策企業として設立されたのが、満映だ。

満映では設立から8年間で、プロパガンダおよび娯楽向けの劇映画108本と、記録・教育映画189本が製作された。満映の発展を推進したのは、関東大震災のどさくさに紛れて大杉栄・伊藤野枝夫妻と6歳の甥を惨殺したことで悪名高い東京憲兵隊の元大尉甘粕正彦だ。甘粕は出獄後、満洲に渡り、関東軍特務機関のもと、満洲事変下のさまざまな謀略工作に暗躍した後、満洲国民生部警務司長、協和会(満洲国の政治的宣伝・教化機関)中央本部総務部長などの重職を歴任し、1939年に満映理事長の座についた。彼のもとで満映の大幅な機構改革が断行され、軍・警察による統制が強化される一方、日本から多くの映画人が高給で招聘された。

満映の看板スターとなった李香蘭(山口淑子。今年9月に死去)のデビュー作「蜜月快車」は1938年の制作(その主題歌「我們的青春」https://www.youtube.com/watch?v=NpCj6av3Id0 )。彼女は日本人だが満洲の奉天(現・瀋陽市)生まれで中国語に堪能、満映によって満人(中国人)女優として宣伝され、世間でも当時そう信じられていた。1944年に発売された彼女の「夜来香」は、抗日戦争中に「漢奸」(売国奴)歌曲と蔑まれつつも大陸でヒットした(李香蘭の歌う「夜来香」https://www.youtube.com/watch?v=fZCHk-McCws )。満洲国および日本の多くのプロパガンダ映画に出演した彼女は、敗戦後に漢奸として処刑されそうになったが、結局日本国籍の保持が判明して、生きて帰国することができた。

甘粕が満映理事長になった1939年、新京の洪熙街(現・紅旗街。長春の繁華街の一つ)に新しい製作所と新社屋が落成した。この建物は現存し、「長影旧址博物館」の主楼となっており、昨年「全国重点文物保護単位」(国家級の重要文化財)に指定された。その玄関の柱石には「定礎 康徳六年七月」という満洲国の年号が今も残る。
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1939年の時点で、新京には映画館が11館あった。うち35年に営業が始まった豊楽劇場は「東洋第一」と呼ばれ、座席数1124席、最大二千人を収容できたという。その建物は長春一の繁華街の重慶路に現存し、市の文化財に指定されている。
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〔重慶路に現存する旧・豊楽劇場〕

長春だより

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