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中国の大学で教える琉球・沖縄史――反戦平和への沖縄の決意を伝えるために [沖縄・琉球]

現在私は中国・長春の東北師範大学で日本・東アジア史(思想史)を担当していますが、今学期は大学院生向けに「琉球・沖縄史」を開講することを決め、毎週2時間教えています(日本語に中国語を交えながら)。

中国の東北地方は場所柄日本語学習者が多く、とりわけ私の勤務先の東北師範大学では日本研究が盛んです(私の所属する歴史文化学院のほか、文学院・外国語学院にも日本研究の施設があり、さらに大学附属の「赴日本国留学生予備学校」は、日本の文部科学省の国費留学生として選抜された中国全土の大学院生が渡日前に日本語教育を受けるセンターとなっています)。ですから、私のように中国語がたいして流暢でない日本人教員でも、講義が成り立つというわけです。
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【写真は、東北師範大学歴史文化学院】

今年5月、中国メディアでは「琉球帰属問題」キャンペーンが行われ、日本・アメリカに対する権力外交のカードとして沖縄を利用しよう、という中国側の姿勢があらわになりました。ちょうどその頃、報道に扇動されて中国のネットには「琉球を奪還せよ」「琉球独立を支援しよう」といった勇ましい書き込みがあふれました。沖縄の多くの人は福建語を話している、などという奇怪な「解説」が国営メディアで流されたこともありました。こうしたキャンペーンは現在落ち着いていますが、沖縄がいつまた大国間の危険なパワーゲームに巻き込まれないとも限らない、という危惧を私は強くもっています。

そもそも中国では、かつて琉球が中華帝国への朝貢国だったことが広く知られている一方、現代の沖縄やそこに生きる人びとについての情報が、あまりに欠けています。上に触れた福建語云々の珍説がまことしやかに流されるのもそのためでしょう。こうした状況に私は深い危機感を覚え、中国の将来を担う若い世代に、沖縄の歴史と現在について少しでも伝えてゆかねばならないと考え、琉球・沖縄史を開講することにしたのです。むろん私は沖縄の専門家ではありません。そこで日本に一時帰国した際に、琉球史関係の専門書などを百冊ばかり長春に郵送し、自分でも必死に勉強しながら教えているところです。

授業では一年間かけて先史時代から現代までの琉球・沖縄の通史を講義する予定です。最初はどれだけの学生が聴講してくれるか不安でしたが、思いのほか沖縄の歴史に興味をもつ人は多く、前学期の倍近い大学院生が参加してくれました。大国興亡史ではなく、日本・中国・朝鮮・東南アジアの境界でさまざまなルーツをもった民衆の行き交う琉球弧の歴史は、中国の学生にとって新鮮なようです。そもそも中国は多民族国家で、私の身近な学生にも満州族や朝鮮族などがいます。ですから琉球弧に生きる人びとの微妙なアイデンティティについては、実は日本人よりも中国人学生のほうが、理解が早いように思います。沖縄の歴史を通じて、チベットやウイグルなど中国の少数民族問題に思いを致す学生も少なくありません。

授業の中で私が繰り返し力説するのは、沖縄の人びとの反戦平和に対する強い思いの原点が、全住民の四分の一が犠牲にされた沖縄戦の悲劇にある、ということです。沖縄戦の話は中国の学生にとっても衝撃らしく、目に涙を浮かべる子もいました。大国間のパワーゲームのために沖縄を再び戦火に巻き込むのは絶対に許されないこと、沖縄の人びと自身が戦争を絶対に許さない決意をしていること、普天間移設やオスプレイ配備をめぐる現在の沖縄の人びとの闘いはそうした決意の表れであること。これらのことを、多くの学生は理解してくれたのではないかと思います。私の勤務先は師範大学なので、院生たちは卒業後、高校や大学の教育者となります。私自身は微力ですが、中国社会の中堅を担う彼らが正確な沖縄認識をもつことを強く期待しています。

なお10月23日、防衛省は陸海空3自衛隊約3万4千人を動員した実動演習を11月に沖縄県沖大東島で実施することを発表しました。事実上の「離島奪還訓練」です。このことは25日、中国メディアでも報道されており、領土問題をめぐる日中間の緊張がさらに高まることが懸念されます。

この自衛隊演習については、『琉球新報』25日付の社説が次のように厳しく批判しています。

(引用はじめ)
ある自衛隊幹部は「住民混在の国土防衛戦」と明言している。68年前の沖縄戦で、多くの住民が日米の激烈な戦闘に巻き込まれ犠牲になった悲劇を想起させる。

離島奪還訓練に住民の避難誘導が含まれていないのは、自衛隊の中に住民を守るという発想がないからではないか。離島奪還作戦が実行に移されたとき、島は「第二の沖縄戦」になる可能性が高いといえよう。私たちは、国策に利用された揚げ句、沖縄が再び戦場になることを拒否する。

今、この国で起きている本当の危機は、中国の脅威ではない。中国脅威論に迎合し不安をかきたて、戦後築き上げてきた「平和国家・日本」を覆そうとする政治だ。軍備拡大によって日本の展望は開けない。まず外交力を発揮して、冷え切った中国との関係改善を図るべきである。
(引用おわり)
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-214316-storytopic-11.html

この社説の意見に、私は全面的に共感します。「沖縄が再び戦場になることを拒否する」という、沖縄の人びとのこの決意と、平和を願う強い思いを、来週の授業でまた中国の学生たちに伝えるつもりです。
タグ:沖縄 中国

中国・東北地方の激烈な大気汚染 [中国東北・雑記]

ここ数日間、長春市内は史上最悪の大気汚染で大騒ぎとなりました。先週来、市内は火事場の煙が一日中立ちこめているような状況で、日が暮れるとこの煙に街灯や車のライトが乱反射するという、不気味な光景が現れます。

今年の年初に起きた大気汚染騒動以来、天気予報と同じように大気汚染情報をネットでチェックするのが日課になってしまいました。今日はマスクが必要か、街歩きしても大丈夫かを、それによって判断するわけです。大気汚染度のレベルは、「優」「良」「軽度の汚染」「中程度の汚染」「重度の汚染」「深刻な汚染」という6段階ありますが、先週から「中程度の汚染」と「重度の汚染」とを行ったり来たりという状態で、私も街歩きをなるべく控えてきました。

それが21日から状況はさらに悪化、中国東北地方の各都市は「深刻な汚染」レベルとなりました。21日午後1時の長春市内のPM2.5 の値は457μg/㎥(日本での「不要不急の外出を避ける」暫定基準値は85μg/㎥)、22日の午前10時には692μg/㎥に達しました。晴れて太陽は出ているのに、濃い霧がかかっているかのような状況です。大気汚染指標のAQIは値が300を超えると「深刻な汚染」レベルに達しますが、21日から23日にかけて長春市内は観測限界値の500を超えて測定不能になってしまったという、猛烈な汚染。報道によれば、東北地方各地の汚染は過去最悪を記録したそうです。長春市内の病院では呼吸器疾患の患者が20%増加したという報道もありました。
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【写真は21日午後3時過ぎの長春市内。太陽の光も弱々しく、まるで月のようです】

長春では先週から全市の暖房システム(市の暖房会社がパイプラインで湯を各建物に供給する)が起動し石炭が焚かれ始め、加えて少雨・無風などの気象条件が重なるなどして、ひどい汚染現象が起きたと、市の環境当局は説明しています。

中国の急速な経済成長は社会にさまざまな問題を引き起こしていますが、大気汚染もその一つです。経済成長に伴い中国でも拡大してきた中所得階層の市民たちは、特に健康問題には敏感で、自身と家族の健康に直結する大気汚染の改善を強く訴えはじめています。すでに北京市では、車の通行規制など緊急の大気汚染対策が最近始まりましたが、それも市民の間に高まる不満が政府に向けられるのを恐れてのことでしょう。他方、環境規制の強化は、すでに減速傾向にある中国の経済成長をさらに鈍らせる恐れもあります。現政権が民衆の支持を調達するには経済成長の持続が不可欠である一方、経済成長に伴う諸問題が今度は民衆の反感を高めつつあるという矛盾の中で、政権は困難な舵取りを迫られているわけです。

23日の朝から降り始めた雨のおかげで、汚染物質もかなり洗い流されたらしく、ようやく大気汚染指標の数値も落ち着いてきています。とはいえ、市民の間に蓄積しつつある不満のほうは、そう簡単に洗い流されるものではないでしょう。

満洲国の爪痕(3)満洲国総合法衙――無数の「合法的」殺戮の記憶 [満洲国]

家族連れやカップルたちの遊覧ボートでにぎわう南湖公園の休日。湖の対岸にある森の向こうに、ひときわ目立つ異様な雰囲気の建物が見えます。1936年に建てられた「満洲国総合法衙」です。
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地上四階(中央部六階)・地下一階、建築面積1万5千平方メートルの巨大な建物の中には、満洲国最高検察庁・同最高法院(最高裁判所)・新京高等検察庁・同高等法院など、満洲国の主要な司法権力機関が置かれていました。これらの機関は、満洲国の治安体制の一環としても重要な役割を担っていました。

日本の軍事力によって強引に造られた満洲国の特徴の一つは、その極端な暴力性にあります。日本の過酷な支配に抵抗する現地民衆に対しては、徹底的な弾圧が加えられました。そうした暴力的弾圧(すなわち殺害)を正当化する根拠法となったのが、1932年に制定された「暫行懲治叛徒法」と「暫行懲治盗匪法」という二つの法律です。とりわけ後者は、現場での緊急措置として即決処分を認めており、抗日運動に参加した人々を「匪賊」とみなして「討伐」するために大きな威力を発揮しました。1932年から40年までに「合法的」に「討伐」(殺戮)された「匪賊」の死者数は、公式の数字でも六万五千人以上に及びます(荻野富士夫「「満洲国」の治安法」『治安維持法関係資料集』第4巻)。

上の二つの暫定的な立法に代わる恒久的な治安法として1940年12月、満洲国政府は「治安維持法」を公布・施行しました。この治安維持法の立法に関わり、新京高等法院の審判長として数々の思想治安事件を裁いた飯守重任(1906~1980年)は、次のような手記の一節を残しています。

「この法律を立法することに依って、ぼくはいわゆる熱河粛清工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を一千七百名も死刑に処し、約二千六百名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している。ぼくの立法した「治安維持法」の条文は愛国中国人民の鮮血にまみれている。」(荻野、前掲論文より引用)

このように満洲国においては、無数の中国民衆が「合法的」に殺されていったのです。こうした「合法的」殺戮の血にまみれた「満洲国総合法衙」は、日本の敗戦後に中国国民党政府に接収され、さらに国共内戦を経て人民解放軍に接収されて、中国人民解放軍空軍病院(通称四六一医院)の建物として現在もそのまま使われています。
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〔上の写真は「満洲国総合法衙」(現・中国人民解放軍空軍病院)正面玄関。下は総合法衙の建物を描いた「満洲国」時代当時の絵葉書〕
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中学公民教科書をめぐる政治介入――揺らぐ国境「最前線」の島々 [沖縄・琉球]

中国との領土問題をめぐり日本国の「最前線」に位置する沖縄県八重山諸島。国境に位置する島々での中学校公民教科書の採択をめぐり、文部科学省が露骨な政治介入を行おうとしています。

以下、『琉球新報』10月2日付社説より
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-213291-storytopic-11.html

(引用始め)
……………
恣意的な法解釈に基づく地方教育行政への政治介入である。八重山教科書問題で文部科学省は、育鵬社教科書を拒否して別の教科書を使う竹富町教育委員会に対し、是正要求を出すことを決めた。

 是正要求に従わなければ、国が自治体を訴える違法確認訴訟も検討するという。小さい自治体にとって訴訟費用の負担は重い。自治体の財政力の弱さを見越した「恫喝」の意図がうかがえる。

 地方教育行政に政治的意思で圧力をかける暴挙は許しがたい。識者は是正要求が最高裁判例に反すると指摘する。竹富町はこの「恫喝」に屈せず、堂々と今の教育行政を続けてほしい。
……………
(引用終わり)

人口わずか4千人足らずの竹富町の教育行政に対して、文科省がスラップ訴訟まがいの恫喝をしてまで政治介入を行うのは、異常な事態といわざるを得ません。そこには、「新しい教科書をつくる会」系の育鵬社の公民教科書に執着する、安倍政権の執拗な政治意志が感じられます。

たかだか数十人にすぎない離島の中学生に特定教科書を配布することに、安倍政権はなぜそこまでこだわるのか?領土問題をめぐる八重山の地政学的位置が背景にあるのは確かでしょうが、さらにそれを利用しながら、公教育に対する政治権力の介入の重大な一線を越えようとしているのではないでしょうか。そうだとすれば、これは日本の公教育全体に危機をもたらしかねない、きわめて深刻な問題です。
タグ:沖縄 八重山

満洲国の爪痕(2) 南湖公園 [満洲国]

10月1日は中華人民共和国の建国の記念日である国慶節。中国全土は一週間の長期休暇に入り、建国を祝うさまざまな催しが行われます。国慶節の当日、ここ長春はあいにくの雨天でしたが、昨日(2日)は素晴らしい秋晴れでした。前日までの雨が大気中の塵埃を洗い流し、すがすがしい青空が広がりました。

長春の昨朝の最低気温は3度。街路樹は早くも黄色く色づき、落葉がはじまっています。澄んだ空気と秋晴れに誘われて、市内の中心部にある「南湖公園」に散策に出かけました。
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南湖公園の由来は、長春が「満洲国」の首都「新京」と呼ばれていた時期にさかのぼります。日本の関東軍は満洲事変の翌1932年に傀儡国家「満洲国」を建国した後、満洲国国務院に国都建設局を置き、近代的都市計画に基づく国都=新京の建設に着手しました。その際、市南部を流れる河水を堰き止めて人口湖を造り、その周囲の広大な緑地を都市公園「黄龍公園」とすることが立案され、33年から工事が開始されました。37年に水面積約100万平方メートルの人造湖「南湖」が完成しました。

南湖の周囲には1940年に開設された「民俗陳列館」のほか、「仏舎利塔」「万霊供養塔」などのモニュメントが建造され、さらに黄龍公園の北辺は「大東亜戦争宣戦記念塔」の建設予定地とされました。

1945年満洲国滅亡後、国民党政権は新京を長春の名に復し、黄龍公園も「南郊公園」と改称されました。国民党と共産党の内戦が激化していた1948年5月、国民党軍の立て籠もる長春市を中国共産党の東北人民解放軍が包囲し、10月に陥落しました。この五か月間の包囲戦の中で十~数十万人の長春市民が餓死し、市街には餓死者が山と積まれたと言われています。

国共内戦が一段落し中華人民共和国が建国された49年、南郊公園はさらに「南湖公園」と改称され、現在に至ります。かつて「大東亜戦争宣戦記念塔」の建設予定地だった場所に1988年、中国共産党が長春を国民党支配から「解放」したことを記念する巨大な「長春解放紀念碑」が建設されました。
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現在の南湖公園の面積は約222万平方メートル(日比谷公園の約14倍、代々木公園の4倍以上)、市民の憩いの場として、休日には多くの家族連れでにぎわっています。
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長春だより

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