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香港問題をめぐる言説についての雑感 [東アジア・現代]

日頃中国の若者たちと接している者としての観点から、現在の香港問題(オキュパイセントラル)をめぐる言説(とくに日本や欧米での報道の在り方)について言わねばならないことがある。多くのメディアは香港問題を、「中国式」(=偽物の)民主主義を押し付ける専制的政府に対する、(本物の)民主主義を求める学生のたたかい、といった図式で描いているようだ。しかしそうした単純な図式には、英国の香港植民地統治に象徴される欧米列強(そして日本)の帝国主義がこの地域に何をもたらしたかについての、歴史的な考察と反省が根本的に欠けていないか?もちろん、民主主義を求める香港の学生たちの抗議運動に共感を寄せるのに、私もやぶさかではない。しかし、中国の人びと(必ずしも政府や「党」に限らない)がなぜ香港問題に敏感な反応を示すのか、よく考えてみなければならないと思う。

1842年、清国がアヘン戦争で敗れた結果としてまず香港島がイギリスに割譲され、その後アロー号戦争の敗戦によって1860年九龍が割譲。さらに帝国主義諸国による中国分割が本格化した1898年、新界が99年の年限でイギリスの租借地にされた。日本による占領統治(1941~45年)をはさみ、イギリスによる香港植民地統治は150年以上に及ぶ。中国の人びとにとって香港はまさに、帝国主義列強による侵略の傷口そのものだ。

新界の租借期限が迫った1980年代、イギリスは中国に租借延長を求めたが拒絶され、香港地区全体を97年に返還することが合意された。なお、香港がイギリス植民地統治下に置かれたほとんどの時期において、香港の人びとの政治的権利は著しく抑圧され、立法・行政機構は植民地政庁の非民主的な支配の下に置かれ続けた。イギリス国王の名代として派遣された総督による任命議員が大半を占めていた立法機関に、ようやく直接普通選挙が一部導入されたのは、イギリス統治最末期の91年のことだ。

香港問題について欧米人や日本人(すなわち旧帝国主義国の本国人)が口を出すことが、中国の人びとの神経の敏感な部分に触れることになるのは、その歴史的経緯を想起すれば容易に理解できる。香港の学生たちに同情と共感を寄せる中国の新世代でも、欧米日メディアの独善性は鼻持ちならないと感じる人は決して少なくない。また、大陸中国の人びとが比較的容易に香港を訪れることができるようになった現在、香港の人びとの大陸に対する意識や利害関係も、香港社会内部の階級・階層関係の変化とともに複雑になっている。

香港社会の問題は基本的に当事者が調整し解決すべき問題だ。欧米や日本など旧帝国主義国の人びとがそこに自分の期待に基づく予断をはさみ、あまつさえ介入しようとするのは、傲慢かつ危険な態度であることに気づかねばならない。この地域の抱える複雑な問題が、もともと帝国主義の暴力を通じて持ち込まれたことを、私たちはまず真摯に反省する必要がある。それは、国境を越えて民衆が真に連帯するための必要条件だろう。それを抜きに、人権問題についてあたかも自分たち「先進国」の人間に優越的な発言権があるなどと信じ込んでいるのであれば、滑稽なことだ。

収穫の秋、「霧霾」の秋 [中国東北・雑記]

収穫の秋、食欲の秋。とれたてのとうもろこしやさつまいもを焼いたり蒸かしたりする煙や湯気が、長春の街角のあちこちで見られる。リアカーに山と積まれたざくろやみかんの行商を見るたびに食欲をそそられ、つい手を伸ばしてしまう。
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だがちょうどこの時期、とんでもない霧霾(スモッグ)が華北や東北に出現するようになってしまった。五日前、長春市内はひどいスモッグに襲われ、六段階の汚染度(優・良・軽度の汚染・中度の汚染・重度の汚染・深刻な汚染)のうち最悪の「深刻な汚染」となり、大気汚染指数が300を越え、中国全都市の中で最悪となってしまった。
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その後、雨と大風で空気中の汚染物質はいったん洗い流され、昨日の午後も「軽度の汚染」レベルだった。しかし夜になって十階の自室から外を見ると、いつもの眺めと様子が違う!街全体に煙のようなものが低く垂れこめ、街灯の明かりをうすぼんやりと不気味に乱反射している。ネットで大気汚染観測サイトをみると、現在の長春市内の汚染指数は450を超え、PM2.5は377μg/m³(日本での「不要不急の外出を避ける」暫定基準値は85μg/㎥)という「深刻な汚染」レベルに達し、中国全市の中でまたしても最悪数値となっている。

報道によれば、この時期の大気汚染の原因は気象条件のほか、多くの農民が収穫後のわらを燃やすことや、冬季入りの準備として石炭が焚かれ始めたことなどがあるという。しかし、それだけではここ数年汚染が急速にひどくなったことを説明できない。中国で深刻化する公害の背景には、経済活動が活発化する一方、環境コストを本来負担すべき者(工場経営者、資本所有者など)が負担せず、環境悪化のつけを一般庶民に押し付けている、という構図がある。環境問題には明らかに階級問題が内包されているのだ。マイカーの所有者は車内で空気清浄器をフル回転させて大気汚染から自分を守る一方、その排ガスを直接吸わされるのは車を持たない一般庶民である。こういうからくりを市民たちは薄々気づいているからこそ、政府・支配層の無策に対する怒りは年々増幅する一方だ。

汚染が深刻なレベルの日も、マスクを着用する市民は少ない。それは大気汚染の害を知らないからではなくて、PM2.5にたいしてマスクがあまり役に立たないという無力感からだろう。私も昨年からマスクをするのをやめている。自衛策は外出を控えることだけだが、通勤者・労働者にとってはそんな悠長なことを言ってもいられず、皆黙々と歩いている。やり場のない怒りにため息をつきながら。

ケーテ・コルヴィッツ――中国、日本そして沖縄 [東アジア・近代史]

ケーテ・コルヴィッツ(1867~1945)の版画「織工の行進」(1893-98)の複製を研究室の壁に貼っている。すると先日、中国の学生から魯迅の本を通じて知っていると言われ、少しびっくりした。
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確かに魯迅は、1936年に『凱綏•珂勒惠支(ケーテ・コルヴィッツ)版画選集』を自ら編集し、上海の三閒書屋から出版している。この画集は日本にも送られており、宮本百合子が敗戦直後に書いた文章「ケーテ・コルヴィッツの画業」の中で紹介している(『真実に生きた女たち』創生社、1946年)。また日中戦争勃発前夜の当時、版画家・上野誠は中国人留学生劉峴の勧めで、東京・神田の内山書店でこの画集を買って傾倒し、以後の版画制作に決定的な影響を受けたという。上野はその時の思い出を次のように記す。

「平塚運一先生の紹介で会った劉峴は、文豪魯迅の序文付の自作版画集を私にくれた。魯迅に推薦される人物なら意おのずから通じるだろうと、先の作品の余白に”日本帝国主義戦争絶対反対”と書いて渡すと、真意たちどころに通じ硬い握手となった。この劉君が神田一ツ橋の内山書店へ行ってケーテ・コルイッツの画集を買うように勧めてくれた。これは魯迅編集で今は貴重な初版本として愛蔵している。盧溝橋事件が勃発すると、急ぎ帰国するからと挨拶に来た劉君に、何点かの作品を進呈したら、上海で発表すると約束してくれた。この人は立派な版画家になり今も健在である。コルイッツの画業に導かれた劉君との出会い。若き日のこの思い出は、いつも私を初心に帰らせてくれる。」(『上野誠版画集』日本平和委員会、1975年。「ひとミュージアム上野誠版画館」HPの「版画館通信」より重引 http://hito-art.jp/NIKKI-4-6-21.htm )。

このとき、劉峴に託して上海で発表してくれるよう頼んだ上野の版画作品は、日本の中国侵略を告発するものだったという。上野は次のように回想する。

「その頃、いわゆる満州国に駐屯する日本軍は匪賊討伐に名を借り、中国人や在満朝鮮人の抵抗運動に惨虐な弾圧を加えていた。ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。屠殺場さながらなのもあった。切り落とした生首が並べられ、女の首まであった。戦利品の青龍刀・槍・銃などが置かれて将校兵士らが立ち、戦勝気取りだが国際法を無視したこのおごり、逸脱退廃、自ら暴露して恥じない力の過信憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた」(同上)。

北京魯迅博物館の黄喬生氏によれば、ケーテ・コルヴィッツの作品が魯迅によってはじめて中国で紹介されたのは1931年のこと。この年の2月、中国左翼作家聯盟(左聯)の五名が国民党政府に殺害される事件が起きた際、魯迅は上海のドイツ書店からケーテの版画作品「犠牲」を買い、左聯の機関誌『北斗』に転載して五名を追悼したのである。黄氏によれば、魯迅が購入したケーテ・コルヴィッツの版画は全部で16幅、そのほとんどはケーテのサインのある原版で、2009年9月にベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館長が魯迅博物館に来訪した際それを鑑定し、ケーテが信任していたドレスデンの印刷社の手によるものだと判明したという(文化中国、http://culture.china.com.cn/zhanlan/2010-03/28/content_19699625.htm )。

ケーテ・コルヴィッツと魯迅との間の橋渡しをしたのはアグネス・スメドレーらしい。彼女は1919年からベルリンに八年住んでいたが、その間1925年にケーテ・コルヴィッツと知り合い、29年に中国に来て上海に居住し、中国の左翼運動に深く入ってゆく。彼女を通じて魯迅はケーテの作品に出会ったと想像される。

現在、アジアでケーテ・コルヴィッツの作品を最も多く所蔵しているのが、沖縄の佐喜眞美術館だ。1931年に魯迅が紹介したケーテの版画「犠牲」も佐喜眞美術館にある。2011年9月、北京の魯迅博物館で、魯迅生誕130周年記念として、佐喜眞美術館所蔵の版画・彫刻など58点を展示する展覧会が開催された。北京魯迅博物館長の孫郁氏は、ケーテの作品をドイツからではなくあえて沖縄から借り受ける理由として、「沖縄は東アジアの近現代史を考える上で重要な場所」だとし、支配者が描く歴史ではなく、常に犠牲を強いられる弱者の怒りと悲しみの記憶、そして未来を信じて立ち上がろうとする精神が沖縄にあるからだ、と語った。(琉球新報、2010年3月8日 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-158856-storytopic-64.html )。孫館長はまた、「魯迅は国家権力の立場ではなく、民衆の視点で表現活動をしていた。佐喜眞美術館にも、国家の歴史記述とは違う民衆の声、表現の声がある。ケーテの出身地ドイツではなく、沖縄から作品を借りることは、東アジアの歴史的記憶を掘り起こし、沖縄・日本・中国の関係性を新しい視点で見直すきっかけになる」とも述べた(同上紙、2010年3月7日 http://ryukyushimpo.jp/variety/storyid-158816-storytopic-6.html )。

ケーテ・コルヴィッツがつなぐ中国と日本そして沖縄。彼女が作品の中に込めた平和への熱意が、東アジアに近年張りつめている固い氷を融かすのに役立つことを心から願う。

国慶節と「黄金週」 [中国・労働問題]

10月1日は中国の「国慶節」。1949年のこの日、北京の天安門広場で中華人民共和国中央人民政府の成立が宣言された。以後、毎年10月1日は国家の最も重要な記念日として盛大に祝われ、さまざまな記念式典が開催される。天安門上の毛沢東の巨大な肖像画も、毎年国慶節前に更新されている。

1999年、中国国務院によって国慶節の公定休日は3日間と定められ、2000年から、国慶節前後の週末を出勤日にするなどの調整によって、連続7日間の休日となった。日本語のゴールデンウィークを輸入して「黄金週」と呼ばれる。

中国政府が「黄金週」を導入した動機は、労働者の休日を増やすことよりも、むしろ人びとの消費を刺激することで経済発展に資することにあったらしい。90年代末に東南アジアで金融危機がおき、中国の輸出産業が悪影響をこうむった際、持続的な経済成長のために国内の需要を喚起する必要が痛感された。そこで政府は、旅行やショッピングなど人々の消費意識を高めることを目的に、春節、労働節(メーデー)および国慶節の年三回、連続7日間を休日とする「黄金週」を設けたのだという。なお2008年から、清明節(4月)・端午節(6月)・中秋節(9月)という伝統的祭日を法定休日として導入する代わりに、メーデーの「黄金週」が廃止されている。国慶節の「黄金週」の存廃についても、最近論争になっている。(http://news.xinhuanet.com/politics/2014-09/25/c_127031580.htm )

国慶節の一週間は、役所、学校のほか多くの会社は休みになる。長春市内のデパートやショッピングモールは、裕福そうな家族連れで大賑わいだ。一方、休暇を取れない労働者は今も少なくない。多くの商店にとってはかきいれどきなので、従業員に休みはない。いつも行く床屋(チェーン店)の理容師も、会社が休みをくれないとこぼしていた。工事現場の労働者は、今日も黙々と作業を続けている。

写真は10月5日、道路建設が急ピッチで続く長春市内の工事現場。
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長春だより

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