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元旦の長春 [中国東北・雑記]

零下22度まで冷え込んだ元旦の長春。清冽な大気で鬱屈した気分を一新しようと、完全結氷した伊通河の上を歩きました。吹きすさぶ寒風が容赦なく、露出した顔の皮膚を刺します。
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満州語のyitu ula(波濤逆巻く大河の意)に由来する伊通河。この流れを下れば、やがて松花江に合流してハルビン、ジャムスを経、さらにロシア国境でアムール川に合し、ハバロフスク地方のオホーツク海へと注ぎます。東北大平原からシベリア、ロシア極東へと続く氷雪の道。

凍てつく大地を覆うこの猛烈な寒気は、遠く海を越えて、今ちょうど日本列島の各地に大雪をもたらしているとのこと。ささいな人為的国境など、大自然は軽々と越えてゆきます。

中国では旧暦の旧正月(春節)が盛大に祝われるため、それに比べると新暦の元旦は静かな祝日です。休みはふつう元旦の一日のみですが、今年は1月2日(金)と1月4日(日)を入れ替え、3日(土)をあわせて三連休が設定されています。寒空の下、行商人たちは今日も稼ぎに精を出しています。

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冬の風物詩ビンタンフールー(冰糖葫蘆)売りと焼き芋屋

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乾物売り。がちがちに凍った柿も並んでいます。

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魚売り。外気は天然の冷凍庫。日本では見慣れない湖水の魚が多いです。

来たる2015年があらゆる民衆にとって希望に満ちた年となることを、心から願います。

『朝日』の慰安婦関連記事について [東アジア・近代史]

『朝日新聞』の過去の慰安婦報道について検証する「第三者委員会」の報告書が出されたのは今月22日。その翌日、「記事を訂正、おわびしご説明します」という記事が出た。それを受けてか、『朝日』は「慰安婦問題を多角的に考えていくため、国内外の識者に様々な視点で語っていただく企画を始めます」ということで、慰安婦問題をめぐる企画記事を28日から掲載しはじめている。その「識者」のトップバッターとして起用されたのが、「アジア女性基金」の理事を務めた大沼保昭氏だ(「(慰安婦問題を考える)アジア女性基金の検証を 明治大特任教授・大沼保昭さん」『朝日新聞』12/28)。

この人選および記事の内容とも、慰安婦問題に対する『朝日』の姿勢に対し、改めて疑念を抱かせるものだ。

そもそも「アジア女性基金(女性のためのアジア平和国民基金)」とは何か。日本の朝鮮植民地支配に対する国家賠償問題は、65年の日韓請求権協定で韓国の請求権が放棄されたので解決済みだ、というのが日本政府の主張である。しかし1990年代になると、民主化の始まった韓国で、それまで沈黙を強いられてきた多くの元慰安婦の方々が日本政府の責任を追及する声を上げ始め、これを無視し続ける日本政府の非人道性に対して国際的な非難が高まろうとしていた。そうした非難をかわすため、日本政府は93年、「軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」慰安婦問題について「お詫びと反省」を述べたいわゆる「河野談話」を発し、談話の認識に基づいて元慰安婦に対する「償い」事業を95年から始めた。これが「アジア女性基金」だ。

この「アジア女性基金」の活動について、それに携わった大沼氏は上の『朝日』記事で次のように説明している。「日本政府と基金はその後、歴代政権の下で、総理のおわびの手紙、国民の拠金からの償い金200万円、国費から医療福祉支援金120万~300万円を364人の元慰安婦の方々に手渡し、さらに現代の女性の人権問題にも取り組んできた」と。

このように、「アジア女性基金」の元慰安婦の方々に対する「償い」活動が、日本国家を主体とする公的な謝罪と賠償ではなくて、もっぱら民間からの寄付による基金方式をとったのはなぜか?そこに、植民地支配に対する国家責任は65年の日韓請求権協定で解決済みとする日本政府の立場を守る意図があったのは、疑いないところだ。

国庫からの支出は「医療福祉支援金」とし、賠償ならぬ「償い金」を民間からの寄付としたところに、この事業が日本国家の公的な賠償でないことを示す政府の意図がはっきりと読み取れる。また、総理の「おわびの手紙」は、「拝啓 このたび、政府と国民が協力して進めている「女性のためのアジア平和国民基金」を通じ、元従軍慰安婦の方々へのわが国の国民的な償いが行われるに際し、私の気持ちを表明させていただきます。…(中略)…心からおわびと反省の気持ちを申し上げます。」とあり、この「おわびと反省」があくまで総理個人の「気持ち」にすぎず、日本国家の公的な謝罪ではないことも、ここに明確に示されている。

このように、どこかの官僚がこねくりまわしたに違いない周到なやり方をとった「アジア女性基金」の本質は、日本国家の公的な謝罪・賠償という形を避けつつ、慰安婦をめぐる人道問題に対する国際社会の非難を回避するための姑息策、というにあった。韓国政府認定の207人の元慰安婦の方々の中で、この「償い金」を受け取ったのは61人にすぎず、多数がこれを拒否したことに、この事業の性格が現れている。こうした無残な結果は、「償い金」事業を行う前からある程度予測できたことで、もし事業の中心者たちがすべての元慰安婦の方々の速やかな人権回復を第一の目的としていたのであれば、受け取り拒否の続出が予想される民間寄付(非国家賠償)という形を採用したはずがない。事業の中心者たちが日本政府の立場の維持に腐心して姑息策をとったことで、多くの慰安婦の方々の人権はついに回復されることなく、経済的困窮のなかに放置され続けるという、最悪の結果がもたらされたのだ。

もちろん私は、「アジア女性基金」事業において、主観的には人道目的の善意からこれに熱心に携わった人たちが数多くいることを否定しない。しかし、事業の無残な失敗が明らかになったからには、その結果責任を真摯に反省したうえで、元慰安婦の方々の真の人権回復を早急に実現するための新たな取り組みに尽力してしかるべきだろう。「過てば則ち改むるに憚ることなかれ」、「過ちて改めざる、これを過ちという」(論語)。

だが、大沼氏をはじめ「アジア女性基金」に深く関与した人たちの多くは、この明白な過ちを改めないばかりか、自己弁明にこれつとめ、あまつさえ批判者を誹謗、攻撃し続けている。例えば大沼氏は上の『朝日』記事で、「基金」について「日本の政府と国民が責任を果たすぎりぎりの施策だった」と釈明し、さらに次のように発言している。

---------------------(引用はじめ)
韓国の支援団体とメディアは、罪を認めない日本から「慰労金」を受け取れば被害者は公娼になるとまで主張してこの償いを一顧だにせず、逆に日本批判を強めた。これは日本国民の深い失望を招き、日本の「嫌韓」「右傾化」を招く大きな要因となった。 また日韓のメディアは償い金を「見舞金」、「慰労金」と報じ、欧米メディアは「慰安婦」を「性奴隷」と表記するなど、不正確で偏った報道をくりかえした。日本政府はこうした報道に十分反論せず、基金による償い活動の広報を怠った。これに加えて第1次安倍政権下での政治家の不適切な発言、日本の一部の排外主義的な反発や口汚い嫌韓言説が諸国で報じられたため、「性奴隷制度を反省しない日本」というイメージが国際社会に広がってしまった。
---------------------(引用おわり)

このように氏は、「アジア女性基金」の失敗の責任ばかりか、日本の「右傾化」の責任までも、「韓国の支援団体とメディア」になすりつけて恥じようとしない。こうした極端に独善的な言説を『朝日』が「慰安婦問題を考える」企画の第1回に掲載したことは、意味深長だ。

さらに大沼氏は、欧米メディアが「慰安婦」を「性奴隷」と表記することを、「不正確で偏った報道」だとしているが、旧日本軍の慰安婦制度が「戦時性奴隷制」であったことは今や国際社会の常識だ(例えば2014年8月6日付国連ニュース )。大沼氏には、国連人権高等弁務官事務所や国連人種差別撤廃委員会に対して「偏向だ」と抗議に出向くことを、ぜひお勧めしたい。

慰安婦問題をはじめとする、日本の東アジア諸国に対する戦後責任の問題がここまでこじれにこじれた元凶の一つが、「アジア女性基金」という姑息な事業であることは、確かだと思う。この事業には、主観的な善意から多くの「進歩的」(とみなされていた)知識人・文化人が参加したが、その無残な失敗に対する当事者の真摯な自己反省は少なく、むしろ聞こえてくるのは自己弁明(例えば、和田春樹「慰安婦問題―現在の争点と打開への道」『世界』2014年9月号)や、大沼氏のような逆ギレ的な八つ当たり攻撃ばかりだ。自己正当化に汲々とする彼らの不遜な態度が、『朝日』『世界』など「進歩」的(?)メディアを今も毒し続けている。事実ここから、「未来志向」を装ういかがわしい「中立」的言論(例えば高橋源一郎氏)や、当事者性を欠いた「和解」論(朴裕河氏など)が、続々と現れているのだ。

慰安婦問題をめぐる真の論点は、この深刻な人権侵害に対して日本政府は国家賠償と公的な謝罪を行い、早急に元慰安婦の方々の人権回復に努めなければならないという主張と、賠償請求は1965年の日韓請求権協定で解決済みであるとする日本政府の立場との、根本的対立にある。この論点からすると、最近の『産経』『読売』と『朝日』とのバトルは茶番劇でしかない。実際は、『産経』から『朝日』に至るまで、上の日本政府の立場に立脚した「国民的」合意の醸成に努めているのが現状なのだ。岡本行夫氏や北岡伸一氏らをメンバーとする慰安婦報道検証の「第三者委員会」の設置および報告書の公表、それに基づく「おわび」、といった『朝日』の対応は、そうした「国民的」合意に参加するため日本政府・安部政権に向けて出した「詫び証文」のように映る。

日本国の戦後責任問題をめぐるこうした道筋を掃き清めたのが、「アジア女性基金」であった。日本国家が過去の侵略責任を真に清算し、日本の人々がアジアの民衆とともに新しい平和的秩序を築いてゆく道は、こうして永遠に閉ざされてゆくのだろうか?過去に自分の犯した過ちに頬かむりしたまま、口先で「未来志向」を唱えたところで、誰からも信頼や尊敬を得ることはできない。このままでは、日本社会の前途にたちこめる暗雲も永遠に晴れることはないだろう。

韓国「統合進歩党」解散命令をめぐる雑感――「秘密保護法」施行の危険 [日本・近代史]

12月19日、韓国の統合進歩党が、国家権力によって強制的に解散させられたというニュース。韓国において「憲政史上初の政党解散審判の結果であり、国家権力が代議制民主政治の核心である政党を強制的になくした政治史的“事変”だ」という(「統合進歩党強制解散…韓国憲法裁判所“8対1”決定」『ハンギョレ新聞』日本語版12/19 )。

隣国でのこうした強権発動について、日本の人は対岸の火事視しがちかもしれない。だが実際は、日本の憲政史上、「秩序に有害」とみなされた政党が国家権力によって強制的に解散させられた例は数多くある。

集会・結社を規制する日本の法令は、国会開設を求めて自由民権運動が高揚していた1880年、これを弾圧するために制定された「集会条例」に遡る。この条例により、政談演説会や政治結社は事前に警察署に届け出て許可を受けねばならなくなった。さらに82年の改正によって、集会や結社に対して内務卿が「治安に妨害ありと認むるとき」はこれを禁止することができ、禁止命令に従わない者や秘密に結社する者は罰金もしくは軽禁錮に処されることになった(第十八条)。

その直後に改正集会条例の適用を受けたのが「東洋社会党」だ。82年に長崎県で結成されたこの政党は、「我党は平等を主義となす」「我党は社会公衆の最大福利を以て目的となす」などの綱領を掲げたが、まもなく「治安に妨害あり」と認められて結社禁止命令を受け、命令に従わなかったという口実で代表者の樽井藤吉が一年の軽禁錮に処された。

89年に天皇睦仁の名で発布された大日本帝国憲法は、「日本臣民」の権利として「言論・著作・印行・集会及結社の自由」を定めたが、しかし「法律の範囲内に於て」という但し書きが付された(第二十九条)。この結社の自由の「範囲」を定めた法律が、集会条例を受け継いだ「集会及政社法」(1890年7月制定)だ。集会・結社の事前認可制は届け出制に緩和されたが、内務大臣の結社禁止権は残された。

さらに、初期労働運動や足尾鉱毒被害民運動など社会運動が高揚した1900年、これらを取り締まる新しい法律として、集会及政社法を強化した「治安警察法」が制定された。その第八条で、「安寧秩序を保持する為必要なる場合」に内務大臣は結社を禁止できるとした。
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JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03020436000(第1・5画像)、御署名原本・明治三十三年・法律第三十六号・治安警察法制定集会及政社法廃止(国立公文書館)

この条項が最初に適用されたのが、「社会民主党」だ。人類同胞、軍備の全廃、階級制度の全廃、政治的権利の平等、などを綱領に掲げて1901年5月に片山潜・木下尚江・幸徳秋水・安部磯雄らの結成した社会民主党は、結成から二日後「安寧秩序に妨害あり」とみなされて内務大臣により結社禁止命令が出された。それを受けて翌月、普通選挙と社会・労働政策という穏健な綱領で出発した「社会平民党」も即日禁止された。

日露戦後の1906年2月、「国法の範囲内に於て社会主義を主張す」ることを掲げて堺利彦らが結成した「日本社会党」は、日本ではじめて持続的に活動できた社会主義政党だが、結成から一年後の07年2月、「安寧秩序を保持する為」治安警察法第八条により結社禁止。さらに同年6月、「憲法の範囲内に於て社会主義を主張し労働者の当然享有すべき権利の拡張を計るを以て目的とす」るとした片山潜らの「日本社会平民党」も、わずか二日後に禁止された。

1910年の大逆事件によって長い「冬の時代」に入った日本の社会運動は、第一次大戦後にふたたび高揚し、20年12月、各種の社会主義者・アナーキストの大同団結組織として「日本社会主義同盟」が結成されたが、これも半年後に治安警察法第八条によって結社禁止された。

普通選挙法と同時に1925年制定された「治安維持法」は、「国体の変革」「私有財産制度の否認」を目的とする結社の組織・加入・支援について、厳罰をもって禁止した。この新法によって政治運動はさらに大きな制約をこうむったが、従来の治安警察法もあいかわらず威力を発揮しつづけている。1925年の12月に浅沼稲次郎を書記長として創設された「農民労働党」は治安警察法により即日禁止された。翌年結成された無産政党「労働農民党」は、28年2月に普通選挙制下の最初の総選挙で山本宣治らを当選させたが、4月に同法によって結社禁止に処せられている。

このように旧憲法下では、「結社の自由」が保障されていたにもかかわらず、政党がくりかえし結社禁止の憂き目にあわされてきた。それは、旧憲法の「結社の自由」なるものが「法律の範囲内」という留保のもとでのみ認められていたにすぎないからだ。

治安警察法や治安維持法など日本の憲政を形骸化させた悪法は、1945年8月の日本の敗戦後もなおしばらく生き続け、9月には治安維持法違反で投獄されていた三木清が獄死している。その後GHQの指令によって10月に治安維持法、11月に治安警察法がようやく廃止された。これらの法律の廃止が日本国民みずからの手によってではなく、占領軍の手でなされたことは記憶しておいてよい。

1947年施行の現行「日本国憲法」の第二十一条では、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」とされ、人権を制約する法律の留保は排除された。その後52年に制定された「破壊活動防止法」(破防法)で、「暴力主義的破壊活動」を行った団体に対し公安審査委員会が解散の指定ができると定められた。が、破防法の団体活動規制処分の規定が適用された事例は今のところない(オウム真理教に対して適用が検討されたものの、結局見送られた)。現憲法による歯止めが効いているのだ。

だが、自民党が2012年に決定した「日本国憲法改正草案」では、憲法第二十一条に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という制約を付けている。もしこうした「改正」がなされれば、先にみたような旧憲法下の圧制が再現されうる危険がある。

すでに安倍政権下では、昨年末に特定秘密保護法が制定され、今月から施行されている。防衛省では従来の「防衛秘密」4万5千件が「特定秘密」に自動移行したとみられ、外務省も諜報・日米安保・朝鮮半島・東シナ海など35件を特定秘密に指定した。内閣官房は49件、公安調査庁は10件をそれぞれ指定した。内容は「外国政府との協力関係」「人的情報源を通じて収集・分析した情報」など。警察庁は「テロリズム関係」などの6項目で18件を指定した。他方、法施行と同時に設置されるはずだった国会のチェック機関「情報監視審査会」は、衆参両院とも設置されていない。(「「日米安保」「朝鮮半島」特定秘密指定始まる」『東京新聞』12/27)。

秘密保護法では、公務員や防衛産業の従事者が秘密を外部に漏らせば十年以下の懲役、それ以外の人が秘密を取得しても十年以下の懲役、秘密の漏洩や取得を共謀・教唆・扇動した場合は五年以下の懲役が科される。しかも、漏洩や取得が罰せられる「秘密」が具体的に何であるのか、明らかにされることもない。旧憲法下の治安警察法が、曖昧な「安寧秩序の保持」を名目に猛威を振るったことが想起される。「北朝鮮」を名目に強権が発動される韓国の今の事態は、日本社会にとって決して対岸の火事ではない。

治安維持法や治安警察法の廃止が、国民の手によってではなく、占領軍のいわば「恩賜」によってなされたことは、前述したとおり。秘密保護法が戦前の再来といわれてもピンとこない人が多いのも、戦後長年の間、「恩賜」の自由の上にあぐらをかいてきたことのつけかもしれない。

中国の地域医療に尽くして70年――元日本兵医師の生涯 [日中関係]

2010年12月1日、山東省済南で一人の老人が息を引き取った。山崎宏さん、享年102歳。山崎さんはこの地で七十年近く地域医療に尽くしてきた日本人医師だ。地域の人たちは親しみをこめて彼を「山大夫」と呼ぶ。亡くなった翌朝、山崎さんの小さな家には親族や元患者などが集まり、故人を偲んだ。
http://news.iqilu.com/shandong/yaowen/2010/1202/372356.shtml

中国や香港のメディアの報道によれば、山崎さんの人生行路は次のとおり。

1908年岡山県真庭市生まれ。医業を志すも、1937年7月盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発。まもなく山崎さんも召集され、第10師団歩兵第33旅団に従軍、同年8月天津郊外の塘沽に上陸した。同旅団は天津南方の馬廠付近で中国国民革命軍第29軍と激しい交戦を繰り広げた。山崎さんは後方勤務だったが、前線から送られてくる多数の負傷兵を見るうちに、戦争に対する疑問が頭をもたげた。

11月、部隊が河南省鄭州付近に駐屯していたとき、山崎さんは日本兵が中国の女性から2、3歳の男の子を奪い取って殺そうとしているのを見た。このとき逃亡を決意したという。ある日の晩、歩哨が居眠りしている隙に軍営から逃走。殺したくない、殺されたくない一心だった。飢えつつ放浪する山崎さんに対し、中国民衆は彼の着る軍服から日本兵だと分かっていたが、それでも食べ物を与えてくれた。また疲労困憊してある農家の門前で倒れたとき、農民夫婦は山崎さんを助け、衣服や食べ物まで与えて送り出してくれたという。

山崎さんは日本軍占領下の済南に着き、名を変えて鉄道局の倉庫番の仕事にありついた。ある日上司は、倉庫から物を盗む中国人を捕えて撃ち殺すよう、山崎さんに命じた。しかし山崎さんは、貧困ゆえの盗みだと考え、寝たふりをして盗まれるに任せた。かつて軍営を脱走したときに中国民衆から受けた衣食の恩返しのつもりだったという。

まもなく山崎さんは、河北唐山から済南に逃げてきた中国人女性を妻に娶った。1945年の日本降伏後、山崎さんは故国の家族に自分のことを知らせた。とっくに戦死したものと思っていた家族は山崎さんの生存を知って狂喜したという。兄が帰国を勧めてきたが、しかし山崎さんは断った。「贖罪のためにここに留まり、恩返しせねばならない」と。そして日本で学んだ医学知識を生かし、線路脇に小さな医院を開業した。最初はこの「鬼子大夫」のところに来る患者は少なかったが、貧乏人は無料で診察したので人気を得、しだいに患者も増えてきた。

日中国交正常化の後、日本の大使館員が山崎さんのもとを訪れ、質問した。「今でも中国人はあなたを「鬼子」と呼んでいると聞きますが、あなたはなぜここに留まっているのですか?」山崎さんは次のように答えた。「彼らが恨んでいるのは、あの当時の日本人です。まったくそのとおりなのだから、私はここに留まり日本人を代表して贖罪しなければならないのです。」その後日本政府から毎年送られてくる年金を、山崎さんはほとんどすべて中国の人びとのために寄付した。

土地の人は言う。小さい時病気をするといつも「山大夫」に診てもらった、今では子どもたちも山大夫に診てもらっている、と。

http://qnck.cyol.com/content/2009-11/24/content_2951970.htm
http://v.ifeng.com/documentary/special/riben/#2daaa7a6-4408-4d5e-a958-3681c069098d


山崎さんの遺体は、生前の本人の意志により献体に出されることになった。父親を送り出した後、娘の山雍蘊さんは参列者に向かって深くお辞儀をし、中国人民に対して、父を寛大にも許してくれたことを父に代わって感謝します、と述べた。

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黒龍江省肇東市の中・小学校教員ストライキ [中国・労働問題]

11月17日、黒龍江省肇東市で8千名の教員による大ストライキが起き、市内の中・小学校は全て授業中止となった。教員らの訴えによれば、ストライキの主な原因は低賃金にある。
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ストライキを行う前、教員たちは8千人の連名で、中国共産党肇東市委員会(市委)および肇東市人民政府(市政府)に対し、賃金水準や補助手当の適正化など、十項目の陳情書を提出していた。しかし、市委・市政府は十分な回答を与えないばかりか、陳情に対し懲罰をもって臨む態度を示した。そこで教員らは、ストライキを構えて第二回の陳情書を市委・市政府に対し突き付けたのである。
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彼らは次のように訴えている。
「私たち教員は国家の文書規定にもとづいて、賃金を引き上げ基本的生活を維持することを要求している。私たちは法に違反しているだろうか?なぜ私たちの正常な訴えに対して、弾圧的なやり方をとるのか?いったい誰があなた方にこんな権力と蛮勇を与えたのか?あなた方はそれでも人民の公僕か?共産党の幹部か?民衆の根本的利益の代表か?」

「今日の午前、市政府の玄関で、私たちは市の指導者が私たちに向かって次のように言うのをこの耳で聞いた。『君たちは党を信じ、政府を信じなければならない』と。私たちの訴えに対するあなた方の回答に、現在私たちは同意も理解もできない。あなた方が二度と学校の仲間やその他のリーダーを弾圧しないことを、私たちは希望する。もしこのようなやり方であなた方が回答を行うなら、どの教員も憤慨するだろうし、感情はいっそうコントロールが難しくなるだろう。もし党と政府が私たちの信任に値し、私たちの福利を図るのであれば、強硬な措置をとって社会の最底辺の知識分子を弾圧することなどできないはずだ。あなた方や私たちの子・孫の教育にたずさわっている教員たちを落胆させてはならない。」

「したがって、私たちは再び、正常なルートを通じて、上級機関に私たちの訴えを伝える。あなた方が私たちに理性的であれと要求するのであれば、党や政府を代表するあなた方は、いっそう理性的・客観的に私たちの問題を解決できるはずで、ひたすら責任を転嫁してお茶を濁したり、はては脅迫・弾圧をおこなったりするはずがないだろう。水曜日より前に、指導的立場の方々が、問題解決の期限を決めて理にかなった回答を出すことを、私たちは希望する。もしその時までに満足な回答を得られないならば、私たち全教員は権利擁護の運動を継続する。 

肇東市全中小学教員 
2014年11月16日」

黑龙江8000教师罢工 要求足额发放房改提租补贴
http://news.21cn.com/social/shixiang/a/2014/1119/14/28583325.shtml

「満映」から「長影」へ(2) [東アジア・近代史]

「満洲映画協会」(満映)についての前回の投稿の続き。

1945年8月、ソ連軍が満洲(中国東北部)に進攻し、日本の敗戦とともに満洲国も崩壊した。その直後の8月20日、満映理事長の甘粕正彦は自殺。長春はソ連軍の軍政下に置かれた。

映画製作の政治的重要性を知る中国国民党と共産党は、満映を自勢力の支配下に接収するため、それぞれ水面下で工作した。中国共産党は密かに党員を満映に送り込み、元日本共産党員で満映職員の大塚有章を通じて多数の日本人スタッフの協力を得ることに成功し、9月「東北電影工作者聯盟」を発足させた。大塚はマルクス経済学者河上肇の義弟で、1932年に日本共産党に入党し、いわゆる赤色ギャング事件の実行犯として逮捕され、懲役十年の判決を受けて服役。出獄後1942年満洲に渡り、甘粕の庇護を受けて満洲映画協会上映部巡映課長に就任していた。

東北電影工作者聯盟は、満映理事の和田日出吉との交渉の末、満映の権利を接収する合意を得た。こうして共産党は、満映獲得競争で国民党に一歩先んじ、10月1日、「東北電影公司」を設立した。同公司の技術者や職員の多くは満映の人員を引き継ぎ、多数の日本人が引き続き雇用された。大塚と西村龍三・仁保芳男の三名は同公司の指導機構の委員に加わり、約200人の日本人スタッフがその運営に協力したという。

その後、国共内戦が始まる中、中国東北にも国民党が進軍し、中国共産党は長春をいったん放棄した。長春を占領した国民党は旧満映の施設を接収したが、その直前に東北電影公司は多くの機材を合江省興山(現・黒竜江省鶴崗市)に移動させて、ここに「東北電影製片廠」を設立、日本人スタッフもこの逃避行に従い、中国共産党の闘士たちと苦楽をともにしながらここで映画製作に携わった。長影旧址博物館にはこうした日本人たちの協力について説明するパネルが展示されており、1946年末に東北電影製片廠の芸術・技術・事務三部門に在籍していた日本人84名全員の名前が記されている。その中には、映画監督の内田吐夢・木村荘十二らの名がみえる。
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国共内戦下の困難な状況で、東北電影製片廠が製作した映画としては、『民主東北』が有名だ。『民主東北』は47~49年に製作された十七編のシリーズで、その大半は内戦をめぐるプロパガンダ的ニュース映画だが、劇映画・人形劇なども含まれており、現存するフィルムは国共内戦期の重要な映像資料となっている。
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(『民主東北』第1・2輯「民主聯軍営中的一天」1947年5月1日 http://www.56.com/w22/play_album-aid-7861381_vid-NjE1MTc1ODc.html

なお、この『民主東北』シリーズの製作には、日本人スタッフも重要な役割を果たした。撮影の福島宏・岸寛身・気賀靖吾、編集の岸富美子らである。うち岸富美子は、京都日活を経て39年満洲に渡り満映に入社、李香蘭主演の「白蘭の歌」(1939年)などの編集に関わった経歴をもつ映画人だ。彼女は数年前のインタビューで、東北電影製片廠での思い出を次のように語っている。

「〔満映の〕国策映画を作ってきた自分が、急に中国共産党主導の映画づくりにかかわり、日本軍の蛮行を描くなかで、『本当に日本はこんなことをやったのか』という驚きと戸惑いも。また映画と政治はどうかかわるのかと深刻に考えたこともありました」。「私は長男を生んだばかりで育児も大変。当時中国には私たちのような技術者がいなかったので、たびたび徹夜作業も。その時は、宿舎まで授乳のためにジープで送迎してくれたり、監督は気を使ってくれました。期日までに完成し、中国電影局からOKが出た時は、撮影所あげて万歳しました」。(『日中友好新聞』2008年8月5日 http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/2008/080805.html )。なお彼女は53年に帰国した後、新藤兼人らと独立プロをつくるなど、戦後日本の映画界でも活躍した。(『はばたく映画人生―満映・東映・日本映画 岸富美子インタビュー』せらび書房、2010年)

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(旧日本陸軍の九二式歩兵砲。長影旧址博物館に展示。中国共産党の人民解放軍は、かつて抗日戦争中に鹵獲した九二式歩兵砲を大量にコピー生産し、国共内戦や朝鮮戦争に投入した。)

1948年5月、反転攻勢に出た中国共産党の東北人民解放軍は長春を包囲、五か月にわたる包囲戦の末、10月に国民党軍を降伏させた(この包囲の間、長春市内に数十万の餓死者が出たといわれる)。こうして国民党の手に落ちていた旧満映の建物・施設は再び共産党に接収され、翌年東北電影製片廠も旧満映の敷地に戻った。その後55年、東北電影製片廠(東影)は長春電影製片廠(長影)へと改名する。
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(現在の長影)

東北電影製片廠で活躍した日本人スタッフの一人に、草創期のアニメーション・人形劇映画作家として有名な持永只仁(1919~1999年)がいる。持永は戦前から戦中にかけて、芸術映画社の漫画映画班でアニメ製作に携わった後、45年に渡満し満映に入社した経歴をもつ。彼は東北電影製片廠で、人形劇映画『皇帝夢』(1947年)や、アニメ映画『甕中捉龞』(1948年)などを製作。
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さらに上海電影製片廠で『謝謝小花猫』(1950年)、『小猫釣魚』(1951年)などを作った。
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(『小猫釣魚』https://www.youtube.com/watch?v=evjK_hgfnUg )

53年に帰国した後も、持永は日中友好に関わり、1967年10月に中国を訪問した際には、毛沢東と親しく面会している(一位让中国人民难忘怀的日本动画专家持永只仁 http://shaoer.cntv.cn/children/C20976/20110331/100277.shtml )。
没後の2006年、東方書店から持永の自伝『アニメーション日中交流記』が刊行された。
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「満映」から「長影」へ(1) [満洲国]

今年8月にオープンした「長影(長春映画製作所)旧址博物館」を先月訪れた。長春における映画製作の歴史はたいへん興味深いものがあるので、少し紹介したい。
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〔長影旧址博物館の主楼。旧・満洲映画協会(満映)の社屋で、昨年全国重点文物保護単位(国家級の重要文化財)に指定された〕

長春は中国最大規模の映画製作所「長春電影製片廠」(長影)を擁する、映画産業の中心地だ。その淵源は、長春が満洲国の首都新京と呼ばれていた1937年、満洲国と南満洲鉄道(満鉄)の折半による共同出資で国策映画会社「満洲映画協会」(満映)が設立されたことにある。すでにその四年前、関東軍(満洲に駐屯する日本軍)参謀の小林隆少佐の提唱で、関東軍と満洲国警察の支持のもと「満州国映画国策研究会」が発足していた。

満洲では日本の侵略以来、中国人・朝鮮人の抗日パルチザンと日本軍との戦闘が続いており、人工的な傀儡国家である満洲国に対する「国民」の忠誠心はきわめて低かった。37年7月には盧溝橋事件によって日中全面戦争の火ぶたも切られ、民心を鎮撫し国家への忠誠心を涵養して、戦争への精神面での動員を図ることが急務とされていた。満洲国の統治機関のそうした意図に基づいて、重要な国策企業として設立されたのが、満映だ。

満映では設立から8年間で、プロパガンダおよび娯楽向けの劇映画108本と、記録・教育映画189本が製作された。満映の発展を推進したのは、関東大震災のどさくさに紛れて大杉栄・伊藤野枝夫妻と6歳の甥を惨殺したことで悪名高い東京憲兵隊の元大尉甘粕正彦だ。甘粕は出獄後、満洲に渡り、関東軍特務機関のもと、満洲事変下のさまざまな謀略工作に暗躍した後、満洲国民生部警務司長、協和会(満洲国の政治的宣伝・教化機関)中央本部総務部長などの重職を歴任し、1939年に満映理事長の座についた。彼のもとで満映の大幅な機構改革が断行され、軍・警察による統制が強化される一方、日本から多くの映画人が高給で招聘された。

満映の看板スターとなった李香蘭(山口淑子。今年9月に死去)のデビュー作「蜜月快車」は1938年の制作(その主題歌「我們的青春」https://www.youtube.com/watch?v=NpCj6av3Id0 )。彼女は日本人だが満洲の奉天(現・瀋陽市)生まれで中国語に堪能、満映によって満人(中国人)女優として宣伝され、世間でも当時そう信じられていた。1944年に発売された彼女の「夜来香」は、抗日戦争中に「漢奸」(売国奴)歌曲と蔑まれつつも大陸でヒットした(李香蘭の歌う「夜来香」https://www.youtube.com/watch?v=fZCHk-McCws )。満洲国および日本の多くのプロパガンダ映画に出演した彼女は、敗戦後に漢奸として処刑されそうになったが、結局日本国籍の保持が判明して、生きて帰国することができた。

甘粕が満映理事長になった1939年、新京の洪熙街(現・紅旗街。長春の繁華街の一つ)に新しい製作所と新社屋が落成した。この建物は現存し、「長影旧址博物館」の主楼となっており、昨年「全国重点文物保護単位」(国家級の重要文化財)に指定された。その玄関の柱石には「定礎 康徳六年七月」という満洲国の年号が今も残る。
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1939年の時点で、新京には映画館が11館あった。うち35年に営業が始まった豊楽劇場は「東洋第一」と呼ばれ、座席数1124席、最大二千人を収容できたという。その建物は長春一の繁華街の重慶路に現存し、市の文化財に指定されている。
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〔重慶路に現存する旧・豊楽劇場〕

香港問題をめぐる言説についての雑感 [東アジア・現代]

日頃中国の若者たちと接している者としての観点から、現在の香港問題(オキュパイセントラル)をめぐる言説(とくに日本や欧米での報道の在り方)について言わねばならないことがある。多くのメディアは香港問題を、「中国式」(=偽物の)民主主義を押し付ける専制的政府に対する、(本物の)民主主義を求める学生のたたかい、といった図式で描いているようだ。しかしそうした単純な図式には、英国の香港植民地統治に象徴される欧米列強(そして日本)の帝国主義がこの地域に何をもたらしたかについての、歴史的な考察と反省が根本的に欠けていないか?もちろん、民主主義を求める香港の学生たちの抗議運動に共感を寄せるのに、私もやぶさかではない。しかし、中国の人びと(必ずしも政府や「党」に限らない)がなぜ香港問題に敏感な反応を示すのか、よく考えてみなければならないと思う。

1842年、清国がアヘン戦争で敗れた結果としてまず香港島がイギリスに割譲され、その後アロー号戦争の敗戦によって1860年九龍が割譲。さらに帝国主義諸国による中国分割が本格化した1898年、新界が99年の年限でイギリスの租借地にされた。日本による占領統治(1941~45年)をはさみ、イギリスによる香港植民地統治は150年以上に及ぶ。中国の人びとにとって香港はまさに、帝国主義列強による侵略の傷口そのものだ。

新界の租借期限が迫った1980年代、イギリスは中国に租借延長を求めたが拒絶され、香港地区全体を97年に返還することが合意された。なお、香港がイギリス植民地統治下に置かれたほとんどの時期において、香港の人びとの政治的権利は著しく抑圧され、立法・行政機構は植民地政庁の非民主的な支配の下に置かれ続けた。イギリス国王の名代として派遣された総督による任命議員が大半を占めていた立法機関に、ようやく直接普通選挙が一部導入されたのは、イギリス統治最末期の91年のことだ。

香港問題について欧米人や日本人(すなわち旧帝国主義国の本国人)が口を出すことが、中国の人びとの神経の敏感な部分に触れることになるのは、その歴史的経緯を想起すれば容易に理解できる。香港の学生たちに同情と共感を寄せる中国の新世代でも、欧米日メディアの独善性は鼻持ちならないと感じる人は決して少なくない。また、大陸中国の人びとが比較的容易に香港を訪れることができるようになった現在、香港の人びとの大陸に対する意識や利害関係も、香港社会内部の階級・階層関係の変化とともに複雑になっている。

香港社会の問題は基本的に当事者が調整し解決すべき問題だ。欧米や日本など旧帝国主義国の人びとがそこに自分の期待に基づく予断をはさみ、あまつさえ介入しようとするのは、傲慢かつ危険な態度であることに気づかねばならない。この地域の抱える複雑な問題が、もともと帝国主義の暴力を通じて持ち込まれたことを、私たちはまず真摯に反省する必要がある。それは、国境を越えて民衆が真に連帯するための必要条件だろう。それを抜きに、人権問題についてあたかも自分たち「先進国」の人間に優越的な発言権があるなどと信じ込んでいるのであれば、滑稽なことだ。

収穫の秋、「霧霾」の秋 [中国東北・雑記]

収穫の秋、食欲の秋。とれたてのとうもろこしやさつまいもを焼いたり蒸かしたりする煙や湯気が、長春の街角のあちこちで見られる。リアカーに山と積まれたざくろやみかんの行商を見るたびに食欲をそそられ、つい手を伸ばしてしまう。
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だがちょうどこの時期、とんでもない霧霾(スモッグ)が華北や東北に出現するようになってしまった。五日前、長春市内はひどいスモッグに襲われ、六段階の汚染度(優・良・軽度の汚染・中度の汚染・重度の汚染・深刻な汚染)のうち最悪の「深刻な汚染」となり、大気汚染指数が300を越え、中国全都市の中で最悪となってしまった。
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その後、雨と大風で空気中の汚染物質はいったん洗い流され、昨日の午後も「軽度の汚染」レベルだった。しかし夜になって十階の自室から外を見ると、いつもの眺めと様子が違う!街全体に煙のようなものが低く垂れこめ、街灯の明かりをうすぼんやりと不気味に乱反射している。ネットで大気汚染観測サイトをみると、現在の長春市内の汚染指数は450を超え、PM2.5は377μg/m³(日本での「不要不急の外出を避ける」暫定基準値は85μg/㎥)という「深刻な汚染」レベルに達し、中国全市の中でまたしても最悪数値となっている。

報道によれば、この時期の大気汚染の原因は気象条件のほか、多くの農民が収穫後のわらを燃やすことや、冬季入りの準備として石炭が焚かれ始めたことなどがあるという。しかし、それだけではここ数年汚染が急速にひどくなったことを説明できない。中国で深刻化する公害の背景には、経済活動が活発化する一方、環境コストを本来負担すべき者(工場経営者、資本所有者など)が負担せず、環境悪化のつけを一般庶民に押し付けている、という構図がある。環境問題には明らかに階級問題が内包されているのだ。マイカーの所有者は車内で空気清浄器をフル回転させて大気汚染から自分を守る一方、その排ガスを直接吸わされるのは車を持たない一般庶民である。こういうからくりを市民たちは薄々気づいているからこそ、政府・支配層の無策に対する怒りは年々増幅する一方だ。

汚染が深刻なレベルの日も、マスクを着用する市民は少ない。それは大気汚染の害を知らないからではなくて、PM2.5にたいしてマスクがあまり役に立たないという無力感からだろう。私も昨年からマスクをするのをやめている。自衛策は外出を控えることだけだが、通勤者・労働者にとってはそんな悠長なことを言ってもいられず、皆黙々と歩いている。やり場のない怒りにため息をつきながら。

ケーテ・コルヴィッツ――中国、日本そして沖縄 [東アジア・近代史]

ケーテ・コルヴィッツ(1867~1945)の版画「織工の行進」(1893-98)の複製を研究室の壁に貼っている。すると先日、中国の学生から魯迅の本を通じて知っていると言われ、少しびっくりした。
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確かに魯迅は、1936年に『凱綏•珂勒惠支(ケーテ・コルヴィッツ)版画選集』を自ら編集し、上海の三閒書屋から出版している。この画集は日本にも送られており、宮本百合子が敗戦直後に書いた文章「ケーテ・コルヴィッツの画業」の中で紹介している(『真実に生きた女たち』創生社、1946年)。また日中戦争勃発前夜の当時、版画家・上野誠は中国人留学生劉峴の勧めで、東京・神田の内山書店でこの画集を買って傾倒し、以後の版画制作に決定的な影響を受けたという。上野はその時の思い出を次のように記す。

「平塚運一先生の紹介で会った劉峴は、文豪魯迅の序文付の自作版画集を私にくれた。魯迅に推薦される人物なら意おのずから通じるだろうと、先の作品の余白に”日本帝国主義戦争絶対反対”と書いて渡すと、真意たちどころに通じ硬い握手となった。この劉君が神田一ツ橋の内山書店へ行ってケーテ・コルイッツの画集を買うように勧めてくれた。これは魯迅編集で今は貴重な初版本として愛蔵している。盧溝橋事件が勃発すると、急ぎ帰国するからと挨拶に来た劉君に、何点かの作品を進呈したら、上海で発表すると約束してくれた。この人は立派な版画家になり今も健在である。コルイッツの画業に導かれた劉君との出会い。若き日のこの思い出は、いつも私を初心に帰らせてくれる。」(『上野誠版画集』日本平和委員会、1975年。「ひとミュージアム上野誠版画館」HPの「版画館通信」より重引 http://hito-art.jp/NIKKI-4-6-21.htm )。

このとき、劉峴に託して上海で発表してくれるよう頼んだ上野の版画作品は、日本の中国侵略を告発するものだったという。上野は次のように回想する。

「その頃、いわゆる満州国に駐屯する日本軍は匪賊討伐に名を借り、中国人や在満朝鮮人の抵抗運動に惨虐な弾圧を加えていた。ある時、郷里で一人の帰還兵から弾圧の記録写真を見せられ息を呑んでしまった。たとえば捕らえた人々を縛り上げて並ばせ、その前で一人ずつ首を切る。今や下士官らしきが大上段に振りかざした日本刀の下に、首さしのべ蹲る一人、とらわれびとらの戦慄にゆがんだ顔、諦めきった静かな顔、反対側の日本人将兵はいかにも統制された表情で哂っている者さえいる。屠殺場さながらなのもあった。切り落とした生首が並べられ、女の首まであった。戦利品の青龍刀・槍・銃などが置かれて将校兵士らが立ち、戦勝気取りだが国際法を無視したこのおごり、逸脱退廃、自ら暴露して恥じない力の過信憤激したわたしは、背景に烏を飛び交わせ暗雲を配し、叉銃の剣先に中国人の首を刺し、傍らには面相卑しく肩いからせた将校を立たせた版画を作り、ひそかに持っていた」(同上)。

北京魯迅博物館の黄喬生氏によれば、ケーテ・コルヴィッツの作品が魯迅によってはじめて中国で紹介されたのは1931年のこと。この年の2月、中国左翼作家聯盟(左聯)の五名が国民党政府に殺害される事件が起きた際、魯迅は上海のドイツ書店からケーテの版画作品「犠牲」を買い、左聯の機関誌『北斗』に転載して五名を追悼したのである。黄氏によれば、魯迅が購入したケーテ・コルヴィッツの版画は全部で16幅、そのほとんどはケーテのサインのある原版で、2009年9月にベルリンのケーテ・コルヴィッツ美術館長が魯迅博物館に来訪した際それを鑑定し、ケーテが信任していたドレスデンの印刷社の手によるものだと判明したという(文化中国、http://culture.china.com.cn/zhanlan/2010-03/28/content_19699625.htm )。

ケーテ・コルヴィッツと魯迅との間の橋渡しをしたのはアグネス・スメドレーらしい。彼女は1919年からベルリンに八年住んでいたが、その間1925年にケーテ・コルヴィッツと知り合い、29年に中国に来て上海に居住し、中国の左翼運動に深く入ってゆく。彼女を通じて魯迅はケーテの作品に出会ったと想像される。

現在、アジアでケーテ・コルヴィッツの作品を最も多く所蔵しているのが、沖縄の佐喜眞美術館だ。1931年に魯迅が紹介したケーテの版画「犠牲」も佐喜眞美術館にある。2011年9月、北京の魯迅博物館で、魯迅生誕130周年記念として、佐喜眞美術館所蔵の版画・彫刻など58点を展示する展覧会が開催された。北京魯迅博物館長の孫郁氏は、ケーテの作品をドイツからではなくあえて沖縄から借り受ける理由として、「沖縄は東アジアの近現代史を考える上で重要な場所」だとし、支配者が描く歴史ではなく、常に犠牲を強いられる弱者の怒りと悲しみの記憶、そして未来を信じて立ち上がろうとする精神が沖縄にあるからだ、と語った。(琉球新報、2010年3月8日 http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-158856-storytopic-64.html )。孫館長はまた、「魯迅は国家権力の立場ではなく、民衆の視点で表現活動をしていた。佐喜眞美術館にも、国家の歴史記述とは違う民衆の声、表現の声がある。ケーテの出身地ドイツではなく、沖縄から作品を借りることは、東アジアの歴史的記憶を掘り起こし、沖縄・日本・中国の関係性を新しい視点で見直すきっかけになる」とも述べた(同上紙、2010年3月7日 http://ryukyushimpo.jp/variety/storyid-158816-storytopic-6.html )。

ケーテ・コルヴィッツがつなぐ中国と日本そして沖縄。彼女が作品の中に込めた平和への熱意が、東アジアに近年張りつめている固い氷を融かすのに役立つことを心から願う。

長春だより

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