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「満映」から「長影」へ(2) [東アジア・近代史]

「満洲映画協会」(満映)についての前回の投稿の続き。

1945年8月、ソ連軍が満洲(中国東北部)に進攻し、日本の敗戦とともに満洲国も崩壊した。その直後の8月20日、満映理事長の甘粕正彦は自殺。長春はソ連軍の軍政下に置かれた。

映画製作の政治的重要性を知る中国国民党と共産党は、満映を自勢力の支配下に接収するため、それぞれ水面下で工作した。中国共産党は密かに党員を満映に送り込み、元日本共産党員で満映職員の大塚有章を通じて多数の日本人スタッフの協力を得ることに成功し、9月「東北電影工作者聯盟」を発足させた。大塚はマルクス経済学者河上肇の義弟で、1932年に日本共産党に入党し、いわゆる赤色ギャング事件の実行犯として逮捕され、懲役十年の判決を受けて服役。出獄後1942年満洲に渡り、甘粕の庇護を受けて満洲映画協会上映部巡映課長に就任していた。

東北電影工作者聯盟は、満映理事の和田日出吉との交渉の末、満映の権利を接収する合意を得た。こうして共産党は、満映獲得競争で国民党に一歩先んじ、10月1日、「東北電影公司」を設立した。同公司の技術者や職員の多くは満映の人員を引き継ぎ、多数の日本人が引き続き雇用された。大塚と西村龍三・仁保芳男の三名は同公司の指導機構の委員に加わり、約200人の日本人スタッフがその運営に協力したという。

その後、国共内戦が始まる中、中国東北にも国民党が進軍し、中国共産党は長春をいったん放棄した。長春を占領した国民党は旧満映の施設を接収したが、その直前に東北電影公司は多くの機材を合江省興山(現・黒竜江省鶴崗市)に移動させて、ここに「東北電影製片廠」を設立、日本人スタッフもこの逃避行に従い、中国共産党の闘士たちと苦楽をともにしながらここで映画製作に携わった。長影旧址博物館にはこうした日本人たちの協力について説明するパネルが展示されており、1946年末に東北電影製片廠の芸術・技術・事務三部門に在籍していた日本人84名全員の名前が記されている。その中には、映画監督の内田吐夢・木村荘十二らの名がみえる。
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国共内戦下の困難な状況で、東北電影製片廠が製作した映画としては、『民主東北』が有名だ。『民主東北』は47~49年に製作された十七編のシリーズで、その大半は内戦をめぐるプロパガンダ的ニュース映画だが、劇映画・人形劇なども含まれており、現存するフィルムは国共内戦期の重要な映像資料となっている。
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(『民主東北』第1・2輯「民主聯軍営中的一天」1947年5月1日 http://www.56.com/w22/play_album-aid-7861381_vid-NjE1MTc1ODc.html

なお、この『民主東北』シリーズの製作には、日本人スタッフも重要な役割を果たした。撮影の福島宏・岸寛身・気賀靖吾、編集の岸富美子らである。うち岸富美子は、京都日活を経て39年満洲に渡り満映に入社、李香蘭主演の「白蘭の歌」(1939年)などの編集に関わった経歴をもつ映画人だ。彼女は数年前のインタビューで、東北電影製片廠での思い出を次のように語っている。

「〔満映の〕国策映画を作ってきた自分が、急に中国共産党主導の映画づくりにかかわり、日本軍の蛮行を描くなかで、『本当に日本はこんなことをやったのか』という驚きと戸惑いも。また映画と政治はどうかかわるのかと深刻に考えたこともありました」。「私は長男を生んだばかりで育児も大変。当時中国には私たちのような技術者がいなかったので、たびたび徹夜作業も。その時は、宿舎まで授乳のためにジープで送迎してくれたり、監督は気を使ってくれました。期日までに完成し、中国電影局からOKが出た時は、撮影所あげて万歳しました」。(『日中友好新聞』2008年8月5日 http://www.jcfa-net.gr.jp/shinbun/2008/080805.html )。なお彼女は53年に帰国した後、新藤兼人らと独立プロをつくるなど、戦後日本の映画界でも活躍した。(『はばたく映画人生―満映・東映・日本映画 岸富美子インタビュー』せらび書房、2010年)

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(旧日本陸軍の九二式歩兵砲。長影旧址博物館に展示。中国共産党の人民解放軍は、かつて抗日戦争中に鹵獲した九二式歩兵砲を大量にコピー生産し、国共内戦や朝鮮戦争に投入した。)

1948年5月、反転攻勢に出た中国共産党の東北人民解放軍は長春を包囲、五か月にわたる包囲戦の末、10月に国民党軍を降伏させた(この包囲の間、長春市内に数十万の餓死者が出たといわれる)。こうして国民党の手に落ちていた旧満映の建物・施設は再び共産党に接収され、翌年東北電影製片廠も旧満映の敷地に戻った。その後55年、東北電影製片廠(東影)は長春電影製片廠(長影)へと改名する。
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(現在の長影)

東北電影製片廠で活躍した日本人スタッフの一人に、草創期のアニメーション・人形劇映画作家として有名な持永只仁(1919~1999年)がいる。持永は戦前から戦中にかけて、芸術映画社の漫画映画班でアニメ製作に携わった後、45年に渡満し満映に入社した経歴をもつ。彼は東北電影製片廠で、人形劇映画『皇帝夢』(1947年)や、アニメ映画『甕中捉龞』(1948年)などを製作。
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さらに上海電影製片廠で『謝謝小花猫』(1950年)、『小猫釣魚』(1951年)などを作った。
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(『小猫釣魚』https://www.youtube.com/watch?v=evjK_hgfnUg )

53年に帰国した後も、持永は日中友好に関わり、1967年10月に中国を訪問した際には、毛沢東と親しく面会している(一位让中国人民难忘怀的日本动画专家持永只仁 http://shaoer.cntv.cn/children/C20976/20110331/100277.shtml )。
没後の2006年、東方書店から持永の自伝『アニメーション日中交流記』が刊行された。
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長春だより

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