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クロポトキン『相互扶助論』と近代日本 [日本・近代史]

昨日、神保町の古本屋の店頭に、赤茶けたクロポトキンの『相互扶助論』(P. Kropotkin, Mutual Aid)の英語版(1919年刊)を見つけた。百円で購入。
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『相互扶助論』は、クロポトキンがイギリス亡命中の1902年にロンドンで初版が刊行。たちまち反響を呼んで版を重ね、世界各国の社会主義者・アナーキストに大きな影響を与えた。日本では、クロポトキンと文通していた幸徳秋水が本書の翻訳に着手したものの、病を得たため山川均に交代して翻訳が続行された。その間「屋上演説事件」(1908年1月)で検挙された山川は、巣鴨監獄の中で第1・2章の翻訳を完成させ、出獄後の1908年6月に『動物界の道徳』と題してシリーズ「平民科学」の第四編として有楽社から出版した。
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(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/832768/73

この「平民科学」シリーズの序文に編者の堺利彦は次のように書いている。「科学に平民科学と貴族科学若しくは富豪科学との別を立てる訳は無い。然〔しか〕し今の世では、学問は殆んど富豪貴族の独占となるべき勢ひである。…(中略)…既に斯〔か〕くの如くなれば、彼等の科学には必ず階級的偏見が混じて居る。科学の真髄は固より一様に平民と貴族と富豪とに通ずべき者であるが、只だ其の実際の応用に至つては、或は故意に、或は不知不識〔しらずしらず〕に、枉〔ま〕げて自己階級の利益を計る事になる。…(中略)…そこで平民には平民の科学が必要である。平民は如何なる場合にも自ら考へて独立の判断を為す必要がある。

こうした観点から編纂された「平民科学」シリーズには、山川によるクロポトキンの『相互扶助論』の抄訳のほか、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』(1884年)のうち国家論を除く部分が堺利彦の訳で『男女関係の進化』と題して、シリーズの第三編として刊行されている(1908年)。当時の官憲によって最も危険な思想として厳しく取り締まられていた無政府主義や社会主義の主要著作をいかにして合法的に世に送り出すか、当時の人びとの苦心のあとが偲ばれる。

だが、「平民科学」シリーズの出版直後の1908年6月、堺・山川・大杉栄・荒畑寒村ら十六名が検挙され、うち十二名に重禁錮一年から二年半の判決が下った(赤旗事件)。社会主義者・無政府主義者ら二十四名に死刑判決が下され、うち十二名が処刑された「大逆事件」の大弾圧が始まるのは、その二年後である。

大逆事件という弾圧の嵐を「縊り残され」て生き延びた大杉栄は1915年の秋、東京の丸善の店頭にクロポトキンの Mutual Aidが売られているのを見たという(「動物界の相互扶助」『新小説』1915年10月)。丸善に置かれていたのは同年の初めにロンドンで刊行された廉価な普及版であったが、昨日私が神保町で百円で買ったMutual Aidはその二刷(1919年)なので、丸善で大杉が手に取ったのとほぼ同じ体裁のものと思われる。

大杉はこれを全訳し、『相互扶助論』と題して1917年10月に春陽堂から刊行した。この訳書も日本の読書界に非常な反響を呼んだようで、大杉が関東大震災で憲兵隊に虐殺された翌年の1924年6月には31版を重ねている。
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(国立国会図書館近代デジタルライブラリーより http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979698

1920年前後は、日本社会でアナーキズム思想が最も勢力を得た時期だ。同年、コミンテルンの密使からの要請で、上海で開かれた極東社会主義者大会に出席したのは大杉だったし、同年末に結成された日本社会主義同盟でも、アナーキストの勢力はマルクス主義者のそれと肩を並べていた(両者は未分化でもあった)。

そのころ、アナーキズムへの関心はアカデミズムにも広がっていた。東京帝国大学経済学部の紀要『経済学雑誌』の創刊号(1920年1月)には助教授森戸辰男の「クロポトキンの社会思想の研究」が掲載され、無政府共産の革命思想が紹介された。なお、森戸のこの論文は「国権の変更と国法の廃絶を企図」したと官憲によって断定され、森戸自身も新聞紙法の「朝憲紊乱」の罪で起訴されて、大審院で禁固3カ月の有罪判決が確定した(森戸事件)。大学における学問の自由を日本国家が蹂躙した一例として、忘れてはならない事件である。

おそらく1920年前後の無政府主義の華やかなりし頃、この列島社会の誰かが購入し、大震災・戦災さらには戦後の変転をもくぐりぬけ、何の因果か昨日たった百円で私の手に落ちたMutual Aid 。その赤茶けた頁をめくるたびに、古い紙の匂いとともにさまざまな感慨にとらわれる。

最後に、クロポトキンの『相互扶助論』の結論を大杉栄の訳文で引いておきたい(クロポトキン原著、大杉栄訳『相互扶助論』〔春陽堂、1917年(第31版、1924年)〕405~406頁)。

-----------------------------(引用はじめ)
相互扶助は、氏から氏族に、氏族の聯合に、民族に、そして遂に少なくとも理想の上にだけは全人類にまで拡張した。同時に又此の原則は精煉された。

原始仏教や、原始キリスト教や、或る回々教先達の文学や、宗教改革の初期の運動や、殊に又十八世紀及十九世紀に於ける合理的又は哲学的運動に於ては、復讐の観念や、『正当の報ひ』と云ふ観念、即ち善に報ゆるに善、悪に報ゆるに悪と云ふ観念を全く放棄する事が益々強く確かめられて来てゐる。『損害に対して復讐しない』と云ふ、又は隣人から受けようと思ふよりも多く与へると云ふ、より高尚な観念が、公平とか公正とか又は正義とか云ふ単純な観念よりももつと優れた、且つもつと幸福に導く原則、本当の道徳原則である、と主張されて来た。

そして人は、愛と云ふ常に個人的な若しくはたかだか氏族的なものによつてではなく、自分が一切の人類と一つのものであると云ふ意義に訴へて、其の意義によつて自分の行為を導かれるようになつて来た。

斯くして吾々は、人類進化の最初にまで遡る事の出来る相互扶助の実行の中に吾々の倫理観念の疑ふべからざる確実な起原を見出すのである。そして吾々は、人類の道徳的進歩に於ては、相互闘争よりも此の相互扶助の方が主役を勤めてゐると断言する事が出来るのである。そして又吾々は、此の相互扶助が今日猶広く拡がってゐると云ふ事に、吾々人類の更に高尚な進化の最善の保障を見出すのである。
-----------------------------(引用おわり。なお段落の区切りは引用者による)

三菱マテリアルとアジア人強制連行――中国人被害者との「和解」の陰に隠れた、朝鮮半島出身者に対する補償問題 [東アジア・近代史]

報道によれば、第二次大戦中に日本が実施した中国人の強制連行をめぐって、責任企業の三菱マテリアル(旧三菱鉱業)と中国側被害者の交渉団が包括和解に合意する方針を固めたという。
中国人強制連行和解へ 三菱マテリアル、3700人に謝罪金『中日新聞』7/24

和解合意案の主な内容は、(1) 三菱側は第二次大戦中、日本政府の閣議決定に基づき日本に強制連行された中国人労働者約3万9千人のうち3765人を三菱マテリアルの前身企業とその下請け会社の事業所に受け入れ、労働を強いたことで「人権が侵害された歴史的事実」を認める、(2) 三菱側は痛切な反省と深甚なる謝罪の意を表明する、(3) 三菱側は基金に資金を拠出し、対象者計3765人に対し一人当たり10万元(約200万円)を支払う、(4) 三菱側は記念碑建立費1億円、調査費2億円を拠出する、(5) 和解合意により、本件事案は包括的・終局的な解決と確認する、などである。

すでに19日、三菱鉱業が第二次大戦中に米国人捕虜を強制労働させていた件で、三菱マテリアルが米ロサンゼルスで米国人捕虜に謝罪したことについては、中国でも報道されており、中国メディアは中国人民に対する謝罪を強く要求していた(三菱为何只对美国道歉 中国不强怎能让日本低头『環球時報』7/22)。その後昨日から、三菱マテリアルが米国人捕虜への謝罪に続き、イギリス・オランダ・オーストラリア人捕虜そして中国人労働者に対しても謝罪する意向であることが報道された(三菱高管:将向其他二战受害国致歉并赔偿中国劳工『中国日報』7/23 )。そして今朝、和解合意案の内容が日本メディアを引用する形で報じられている。

今回の合意は一見、旧日本帝国のアジア諸国に対する侵略責任の清算と和解に向けて一歩前進したかのようにみえる。しかし今回の三菱マテリアル側の態度には、決して見過ごすことのできない深刻な問題が伏在していることを、あえて指摘せねばならない。

今朝の新華社通信は、三菱マテリアルの社外取締役の岡本行夫氏(元外交官僚、小泉内閣時の内閣官房参与、首相補佐官)が22日に東京で行った会見について詳報している。その中には、日本メディアの報道には管見の限り見いだせなかった内容が含まれているので、ここに紹介しておく。

それによれば、岡本氏は、日本企業が第二次大戦時に外国人労働者に奴隷的労働を強いたことの罪を認め、「われわれは戦争捕虜にもっともひどい苦難を強いた企業の一つであるから、必ず謝罪せねばならない」と述べ、強制連行された中国人労働者に対しても謝罪する意向であることを示した。

ただし新華社によると、岡本氏の謝罪対象には「例外」があるという。それは朝鮮半島である。岡本氏は会見において、日本が朝鮮を併合し植民地統治を実施したことは「朝鮮半島で犯した最大の罪」であることを認め、その内容として、日本が朝鮮の人びとの民族性を根絶しようとし、名前や言語を奪い、神道の信仰を強い、二等公民として扱ったことを指摘している。しかし岡本氏は同時に、朝鮮半島出身の労働者に対して賠償すべきかどうかについては、「別問題」だと述べた、というのである。岡本氏の語るところによれば、朝鮮半島は当時日本の植民地統治下にあり、従って朝鮮半島の労働者は日本公民に属し、日本人と同じく国家総動員法に基づき労働に従事していた、という。(一日企高管表示愿向中国劳工道歉 达成和解、新華社、7/24

戦時中に奴隷的な苦役を強いられた欧米諸国や中国の人びとに対しては謝罪する一方、同様の苦役を強いられた朝鮮半島出身者に対してはいまだ自らの責任を認めようとしない、という三菱マテリアルの態度は、歴史認識の狡猾な使い分けであると、私は考える。ここに、先日の世界遺産登録をめぐる日本政府と韓国政府との論争で、朝鮮半島出身者に対する「強制労働」を最後まで認めなかった安倍政権の態度と近似するものがあるのは明白だろう。このような歴史修正主義を、日本国は東アジアのパワーゲームにおいて巧妙に利用しようとしているのではないか、という疑いすら抱かせる。こうした日本側の卑劣なやり方は、東アジアの平和に資するどころか、深い禍根を未来に残すことにつながるだろう。

そもそも侵略責任問題について、日本政府はアジアの民衆に対し、その公的な責任を真摯に引き受けて謝罪・賠償を行ったことは一度もない。今回の件も、一民間企業と中国人被害者の方々との間の和解合意案であり、日本政府が公式に罪を認めて謝罪・賠償するわけではない。確かに、被害者の方々個人に対する金銭補償は喫緊の課題であろうが、しかし民間基金方式による謝罪金の支払いというやり方では、日本の侵略責任問題が本質的に清算されたことにならないことは、慰安婦問題をめぐり「アジア女性基金」が引き起こした混乱をみても明らかではないか。

旧日本帝国の後継国家である日本国の民である私たちは、東アジアの民衆たちと将来平和のうちに生きていくためにも、その最低限の条件として、旧日本帝国が犯した侵略責任を日本政府に真摯に引き受けさせ、謝罪と賠償を行わせなければならない、という重い責務を負っている。それを抜きに、戦後の「平和国家」日本(?)を自画自賛したり、東アジアの平和のために日本国が何かリーダーシップを取れるなどと夢想したりすることの傲慢さに、私たちは思いを致さねばならないだろう。

SEALDs問題をめぐる『週刊金曜日』の記事(岩本太郎氏)について [日本・現代社会]

『週刊金曜日』7月17日号(40~41頁)に掲載された、「SEALDsの見解をめぐりウェブ上で起きた批判と反論の応酬」と題する岩本太郎氏の記事を読みました。SEALDsの公式HPの声明文について鄭玹汀氏が自身のフェースブックに批評を書いたことをきっかけに、先月からネット上に発生した出来事について、岩本氏は記しています。しかし岩本氏のまとめ方にはいくつかの深刻な問題があり、この間の出来事について読者をミスリードする恐れがあると感じました。以下、その問題点を記します。

第一に、「批判と反論の応酬」という見出し自体が問題です。岩本氏は、SEALDsの見解に対する批判者として鄭氏と私の名前を挙げ、「SEALDsを支援・応援する人々」との間に「応酬」があったかのように書いています。確かに、私と「SEALDsを支援・応援する人々」との間には相互の批判・反批判の「応酬」がありました。しかし鄭氏の批評に対しては、「SEALDsを支援・応援する人々」から一方的に多数の誹謗中傷や侮辱の言葉が投げつけられたことで、議論の前提自体が破壊されてしまいました。それは決して「批判と反論の応酬」と呼べるものではなく、明らかに一方的なバッシングというべきものだったのです。

そもそも私と鄭氏は、SEALDsの声明文が、日本国が過去の侵略責任をいまだ清算していないという現実をスルーして、「平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」などと語っていることを問題にし、そうした姿勢がアジアの人びとに対していかに〈傲慢〉で〈独善〉的なものであるかを指摘する点で、共通する論旨を展開しています。

しかし不思議なことに、暴力的なバッシングは鄭氏に対してのみ起きたのです。このバッシングに加わった人たちの多くは、鄭氏が用いた〈傲慢〉・〈独善〉的という言葉に非難の矛先を向けました。ところが、私も鄭氏と同様の論旨でこれらの言葉を用いているにもかかわらず、私に対するバッシングは起きていません。なお私は、SEALDsの中心メンバーの一人である奥田愛基氏から直接の応答を受けましたが、鄭氏の批評はSEALDsメンバーから無視されつづけています。

こうした不可思議な現象の背景には何があるのでしょうか?米津篤八氏は、私が日本人男性で鄭氏が韓国人女性であるという属性の違いゆえの、差別があるのではないかと推測しています。私も米津氏の推測におおむね同意します。

さらに問題なのは、『週刊金曜日』における岩本氏の記事が、このような差別を紙媒体で再生産していることです。岩本氏は、東アジアに平和的秩序を打ち建てるための大前提は日本国が過去に犯した侵略責任を真摯に清算することにある、という私の主張のポイントを一応指摘しています。ところが岩本氏は、鄭氏の主張の具体的内容には何ら触れることなく、SEALDsの見解を鄭氏が「独善的かつ傲慢な姿勢のあらわれ」と批判した、とだけ書いているのです。

上述のように、SEALDsの支持者たちによって鄭氏に対する一方的なバッシングが行われたという事実を伏せて、「批判と反論の応酬」などという表題でこれを糊塗した岩本氏は、さらに鄭氏の主張のうち特定部分のみを恣意的に取り上げることによって、結果的にこのバッシングの片棒を担いでしまっている、と言ってよいでしょう。これが岩本氏の記事がはらんでいる第二の問題点です。

鄭氏に対しSEALDs支持者たちの行ってきたバッシングの実態を示すものとして、社会運動家の野間易通氏が、鄭氏に対する数々の悪質なツイートを集めたうえで、鄭氏を「間抜け」呼ばわりして作成したまとめサイトがあります。そうした悪質ツイートやまとめサイト作成が、鄭氏に対する名誉毀損ないし侮辱に当たる可能性の非常に高いことや、ツイートの一部に脅迫の要素すら含まれていることを、SEALDs問題をめぐっては私と異なる見解に立つ高林敏之氏もはっきりと指摘しています

ところが岩本氏は記事の中で、「互いに距離が離れた場所でネットでの応酬もあってかキツイ言葉も飛び交い、大田さんが『人権侵害』と言い出すまでにエスカレートした」と記しているのみです。岩本氏は当然、野間氏が作成したまとめサイトの存在を知っているはずですが、ここに含まれる悪質なツイートをも「キツイ言葉」として済ませてしまうところに、岩本氏の人権感覚が現れています。ここに第三の問題点があり、上記の第二の問題点とあわせて、岩本氏の記事が結果的に、現在もなお続いているSEALDsの一部支持者たちによる鄭氏に対する人権侵害を助長しかねないことを、私は恐れます。

私は6月26日の拙ブログ記事で、SEALDs支持者による鄭さんへの一方的なバッシングと人権侵害について次のように書きました。「日本に暮らす外国人の人権を、本来その擁護者であるはずの社会運動の人びとが、理不尽にも踏みにじるという事態は、いまだかつて目にしたことがありません。しかもそれを、運動の中心にいる関係者たちが容認するならば、日本の社会運動史上まず類例をみない醜悪な不祥事となるでしょう」、と。

日本の市民・社会運動の有力な媒体である『週刊金曜日』に、こうした醜悪な人権侵害を容認し助長しかねない記事が掲載されたことに、私は強い憤りを感じます。

SEALDs(シールズ)の奥田愛基さんへの応答 [日本・現代社会]

SEALDs(シールズ)の奥田愛基さんへ

SEALDsのHPの文言をめぐり、私が拙ブログに書いた批判について、facebook上にコメントをいただき、ありがとうございます。

SEALDs(シールズ)は大学生を中心とする運動であるにもかかわらず、奇妙なことに、私の批判に対して応答・反批判・罵倒してきたSEALDsの支持者たちは、ほとんどが大学生とは思われない年齢の人ばかりだったので、驚いていました。ようやく、SEALDs本来の大学生メンバーであり、HPの声明文を書いた一人である奥田さんから応答をいただい、大変喜んでおります。以下、大きく三つの問題について述べさせていただきます。

1、旧日本帝国のアジア侵略責任の問題

繰り返し述べてきたように、東アジアに平和的な秩序を打ち建てるための大前提は、かつて日本帝国が犯したアジア侵略の責任を今の日本国家が真摯に引き受け、清算することです。したがって日本の平和運動は、日本政府が過去の侵略責任を引き受け清算するよう、常に圧力をかけ続けねばなりません。それを怠る限り、日本の平和運動は東アジア各国の人びとから真の信頼を得ることはできません。

SEALDsの声明文は「対話と協調に基づく平和的かつ現実的な外交・安全保障政策を求めます」と述べながら、日本国の侵略責任問題をどのように追及してゆくかについては一言も触れていません。にもかかわらずSEALDsが「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」と主張することは、東アジアの平和に何らつながらないばかりか、そうした日本人の傲慢な独善性に対する、アジアの多くの人びとの反発を呼び起こすことでしょう。

私がそのように断言するのは、私が中国の東北部に住み、皮膚感覚としてそれを感じるからです。日本に住む日本人が、かつて日本に侵略されたアジアの人びとの気持ちを理解するには、多くの想像力が必要でしょう。

私の住んでいる長春は、1931年に日本軍が中国東北部を侵略して傀儡国家「満洲国」をでっち上げ、その国都として「新京」と改名された都市です。新京市の建設のため、多くの地元農民の土地が暴力的に奪われました。日本は満洲国に32万人の日本人開拓移民を送り込みましたが、彼らが移住した土地は、もともとそこに住んでいた中国人の農地を奪い取ったものでした。そうした日本の暴虐に怒って抗日運動を起こした人びとは徹底的に殺戮され、あるいは人体実験の材料として生きたまま身体を切り刻まれました。現在でも、そのことを知らない中国人はまずいません。

今東アジアで注目されている慰安婦問題を含め、大日本帝国のアジア侵略責任を公式に日本政府が引き受けたことは、戦後七十年の間一度もありません。この問題について、SEALDsの声明文はなぜ一言も触れていないのでしょうか。

私の意見に対して、SEALDs支援者たちから多くの反論が寄せられましたが、私が最も重視しているこの問題については、不思議なことに誰ひとりとして真剣に触れようとしません。ただひとり奥田さんだけが、「過去の過ちの清算、真の意味での和解ができる日が、1日でも早くる事を望んでおります」と、この問題にきちんと向き合う姿勢をみせていただけました。

もしSEALDsが東アジアの平和秩序の建設に積極的な役割を果たしたいのであれば、ぜひメンバーの間で討論を行い、SEALDsの公式見解いわば最小限綱領として、日本政府が卑劣にも逃げ続けてきた侵略責任の清算という問題を必ず声明文の中に入れねばならないと、私は考えます。

2、日本の民主主義と沖縄の問題

奥田さんは、SEALDsの学生が30人ほど入れ替わり立ち代り辺野古で座り込みをしてきた事実を教えてくれました。そういうことであれば、沖縄の「復帰」後四十年以上経った今も、日本国の民主主義が沖縄を除外し続けている事実を、SEALDsのメンバーたちが知らないはずはないでしょう。

にもかかわらず声明文には、「戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重し」、「日本の自由民主主義の伝統を守る」、「戦後70年間、私たちの自由や権利を守ってきた日本国憲法の歴史と伝統」、などとあります。これらの文言を読むと、ここで言う「この国」「日本」からは沖縄が除外されているのではないか、と私は感じざるを得ません。

戦後70年、日本国の民主主義が一貫していかに欺瞞的なものだったかを、現在沖縄で行われている闘いは私たちに突き付けています。SEALDsが沖縄の闘いと真に連帯することを求めるのであれば、現在の声明文は必ず改められねばならないと、私は考えます。

3、韓国人研究者に対するSEALDs支持者による深刻な人権侵害の問題

6月18日、韓国人研究者の鄭玹汀さん(在日コリアンではありません)はご自身のfacebook上に、SEALDsに対する批評文を載せました。その内容は、日本の戦争責任問題や歴史認識問題についてSEALDsの声明文の姿勢を問い、そこに垣間見られる若い世代のナショナリズムについて警鐘を鳴らしたものです。それは日本の社会運動に対し、外国人の視点からその問題点を客観的に指摘した、きわめて妥当な内容の批評です。しかし、鄭さんがこの批評文をfacebook上に載せた直後から、野間易通氏ら多数のSEALDs支持者による一方的で猛烈なバッシングがツイッター等を通じて始まりました。それは鄭さんの文章に対する単なる批判ではなく、誹謗中傷・罵倒の限りをきわめ、彼女の全人格を根本的に否定するものでした。果ては脅迫行為にまで至り、日本に住む外国人としての静謐な生活が実際に脅かされています。深刻な人権侵害といえるでしょう。

鄭さんは、この春に再来日したばかりの韓国人研究者であり、在日コリアンではありません。もちろん日本の政治・社会運動とは何の関係ももっていません。彼女は外国人としての立場から、SEALDsのHPを読んでその客観的な感想を正直にご自身のfacebookに書いただけのことです。ところが、彼女に対してSEALDsの一部支持者たちが加えている誹謗中傷・脅迫攻撃は、恐怖と恥辱を与えることで口を封じ、さらには彼女の研究者としてのキャリアまで粉々に打ち砕くことを目的とするような、悪質で卑劣な暴力そのものなのです。

ようやく日本での研究生活が落ち着いてきたばかりの外国人女性が突然、多くの日本人たちから理不尽な攻撃・脅迫行為を受けたのです。その恐怖と苦悩はいかにひどいものだったでしょう。海外に住む私には、そのとてつもない恐怖がある程度察せられます。

鄭さんには、そんな理不尽な仕打ちを受けるべき何の過失もありません。ただSEALDsの声明文を批評しただけで、野間氏らSEALDsの一部支持者たちから袋叩きに遭ったのです。しかも、彼らによる攻撃は今でも延々と続いています。

SEALDsの声明文の冒頭には、「私たちは、自由と民主主義に基づく政治を求めます」と謳われています。批判を受け取り、議論をもって応答するのは、民主主義社会の最も基本的な原則でしょう。ところがSEALDsの一部支持者たちは、「自由と民主主義に基づく政治」を自ら否定するかのように、鄭さんの批評に対して、それを受けとめることを頭から拒絶し、誹謗・中傷・脅迫という暴力をもって答えているのです。

奥田さん。あなたは、執拗に続いている鄭さんに対するこの深刻な人権侵害を、当然知っているでしょう。あなたを含むSEALDsの中心メンバーが、こうしたやり方はおかしいとはっきり表明しさえすれば、この異常事態はすぐに止むはずです。ところが、あなたがたは今に至るまで、人権侵害を防ぐための行動を何一つ起こそうとしていない。なぜですか?まさか、SEALDsを批判した者・運動の邪魔をする者は、外国人であれ、徹底的に打撃を与えて当然だ、という発想をもっているわけではないでしょう?

日本に暮らす外国人の人権を、本来その擁護者であるはずの社会運動の人びとが、理不尽にも踏みにじるという事態は、いまだかつて目にしたことがありません。しかもそれを、運動の中心にいる関係者たちが容認するならば、日本の社会運動史上まず類例をみない醜悪な不祥事となるでしょう。

たとえいかに「正当」な政治的な目的があったとしても、運動遂行の手段として、一人の善良な外国人の人権を踏みにじることが許されてはなりません。それを黙認するような運動は、決してまっとうな運動とはいえないのです。

奥田さん、そしてSEALDsメンバーのみなさん!野間氏らSEALDsの一部支持者たちによって今も執拗に続けられている人権侵害を一刻も早く止めるため、早急に行動することを私は要請します。

〔後記:一部字句を修正しました。6月26日6:26(北京時間)、7:23(同)〕
〔後記2:一部リンク切れのため、リンク先を変更しました。6月27日14:12(北京時間)〕

〔後記3:「人権侵害」についての補足説明 6月28日2:13(北京時間)、一部字句修正11:27(同)〕
野間易通氏は、鄭玹汀さんを批判するツイッター上の発言を集めたまとめサイトをつくっています。SEALDsの一部支持者によって書かれたこれらの発言のうち、U氏やk氏の発言の中には、鄭さんに対する脅迫および名誉毀損などの人権侵害に当たるおそれがきわめて濃厚なものが多数あります。野間氏はそうした鄭さんに対する脅迫・名誉毀損に当たる恐れが強い発言をまとめただけでなく、被批判者を「間抜け」呼ばわりする題名をつけることによって、それら人権を侵害する発言を批判するどころか支持を示す形で、広くネット上に流布しています。

なお6月28日1時58分(北京時間)現在、U・k両氏のツイッターは非公開設定になっています(二人が自分の発言の不適切さを認識し、自発的に非公開にした可能性があります)。にもかかわらず、野間氏が作成したまとめサイトのために、脅迫・名誉毀損に当たる恐れが強い発言が、現在もネット上の不特定多数に流布され続けているのです。

野間氏は社会運動家として、自己の言説行為(まとめサイト作成なども含む)について、社会公衆に対し特に軽からぬ責任を負っています。

野間氏が本来なすべきことは、鄭さんに対する脅迫・名誉毀損に当たる恐れが濃厚な発言がこれ以上拡散することを防ぐため、自分の作ったまとめサイトを閉鎖することです。しかし野間氏はそれを意図的に怠ることによって、U・k両氏が自分のツイッターを非公開にしたあとも、鄭さんの人権を侵害する彼らの発言を不特定多数が閲覧できる状況に置き、その流布を助長しています。

本文中にある「野間氏らSEALDsの一部支持者たちによって今も執拗に続けられている人権侵害」とは、以上の事実を指します。

大井赤亥氏への回答(SEALDsをめぐって) [日本・現代社会]

SEALDsのHPの文言について論じた拙論に対して、今度は大井赤亥氏からfacebook上で批判がありました。

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大井氏によれば、SEALDsのHPの文言は、トイレによく見られる「いつもトイレをきれいにご使用いただきありがとうござます」という標語と同様のレトリックである。この標語は、全ての人がトイレをきれいに使っているという事実を示すものではなく、「だれもがトイレをきれにつかっている」という建前をもって、「あなたもトイレをきれいに使え」とプレッシャーをかけるためのものだ。「日本は平和国家である」「日本は自由と民主主義を確立した」「日本は犠牲と侵略を反省した」というSEALDsの主張もそれと同様、現にある事実を示すものではなく、「自民党でさえ『建前』として述べているその規範を前提化し、それを当然とすることで、『だから現政権も平和主義でいろよ』『自由と民主主義にしたがって振る舞えよ』『侵略と犠牲を反省しろよ/少なくとも河野談話・村山談話くらいは保持しろよ』というプレシャーをかけている」のだ、という。 そして大井氏によれば、SEALDsは必ずしも日本が完全な平和・自由・民主主義の国家だと考えているのではない。ただしこれらの標語は「建前」として安倍政権すら踏襲しているわけだから、この標語によって「そういう『建前』を守れよ、少なくともその線にまで戻って、その線を順守して政治を行えよ、というメッセージ」をSEALDsは発している。そしてこのメッセージこそ、現在の政局や言葉をめぐるヘゲモニー闘争において重要性を増しているのだ、というのである。
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以上が大井氏の主張の要旨ですが、私はSEALDsのHPの主張をこうしたレトリックとして捉えようとする氏の発想自体に、疑義を覚えます。

そもそも大井氏が言う日本の「トイレ」の標語のレトリックは、多数の人が日常的にトイレを比較的きれいに使っているという事実の前提があって、はじめて成り立つものでしょう。世界有数の清潔さを誇る日本の公衆トイレだからこそ、そうした標語は機能することができるわけです。しかし例えば、仮に中国の普通の公衆トイレにそのような標語を掲げたとしても、残念ながら何の意味もありません。現実と余りにも異なるそうした標語は、政権党の下部組織が街のいたるところに掲げている「きれいごと」と同じく、民衆には皮肉な一瞥で無視されるだけでしょう。

SEALDsのHPの文言も同様です。「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」という主張が、仮に大井氏のいうような政権にプレッシャーを与える「レトリック」であるとしましょう。そこにもやはり、日本国民の多数が(完全無欠でないまでも)比較的に「平和主義者」であり「自由と民主主義」の擁護者であり、かつての「侵略と犠牲」をある程度「反省」している、ということが前提として想定されているのです。

ところが私が批判するのは、大井氏をはじめ多くの人が無自覚にもっているそうしたナイーブな発想自体なのです。

確かに、現天皇が「平和主義者」(?)だと称賛されるのと同レベル程度には、日本国民も「平和主義者」なのでしょう。だが私は、こうした意味で「平和主義」をうんぬんする言葉の薄っぺらさ、胡散臭さに、とても耐えられません。

何度でも言いましょう。旧大日本帝国のアジア侵略の責任を日本国が真摯に引き受け、謝罪し、清算しない限り、日本国の「平和主義」なるものは空念仏だ、と。大日本帝国の侵略責任に対して真剣に取り組まないような「平和運動」も同じことです。私の知っている中国の人たちは、そうした運動に対して表面上は愛想よく笑顔を見せるかもしれませんが、侵略責任をスルーするような日本人の偽善を心の底でせせら笑うに違いありません。

そうした侵略責任問題の中で、東アジアで今最も注目されているのは慰安婦問題です。ところが、日本の全国紙の中で最も「リベラル」と言われる『朝日新聞』や、同紙および岩波書店の『世界』が重用する「リベラル」な知識人たちすら、慰安婦問題について日本国の国家責任を真剣に追及しようとしません(拙ブログ記事「『朝日』の慰安婦関連記事について」および「高橋源一郎氏の「慰安婦」論」 を参照)。こうした日本国の現状で、「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」などと主張することがいかに傲慢で独善的なものかは、言うまでもないでしょう。

たとえこうした文言が政権に「プレッシャー」を与えるためのものだとしても、侵略責任への真剣な取り組みへの決意を欠いたその「平和主義」が結局、「河野談話」・「村山談話」を擁護する程度の線で止まってしまうのは明白でしょう。これらの談話は周知のように歴代の日本政府が踏襲してきたもので、現在の安倍極右政権すら建前としては否定していません。この現状維持の線では、日本政府が慰安婦問題をはじめとする過去の侵略の国家責任を引き受けることは、まずありえません。ところが東アジアに平和的秩序を打ち建てるために一歩を踏み出すには、この線を突破して、日本国に過去の侵略責任を引き受けさせ、謝罪・清算させるという市民の決意が、絶対に不可欠なのです。

「自由と民主主義」についても同様のことがいえます。大井氏の論理では、日本国民の多数が一応は「自由と民主主義」の擁護者だということが前提にされなければなりません。だがそうした意味での日本国の「自由」や「民主主義」がいかに薄っぺらなものであるかは、前の二つの記事で指摘したとおりです。そもそも、「自由と民主主義に基づく政治を求めます」と宣言しているSEALDsの支援者らしき多くの人びとが、ある韓国人の女性研究者(在日コリアンではない)の冷静な問題提起に対して罵倒と誹謗を集中させるという、およそ民主主義とは正反対の行動を続けているのは、もはやブラックユーモアというしかないでしょう(この問題については近く再論する)。

大井氏には、まずは中国に来て、地方都市の路上の公衆トイレにでも入り、果たして件の標語のレトリックが有効なものかどうか、とくと考えてみることを勧めます。そのうえで、日本の「平和主義」「自由と民主主義」の惨状に照らして、SEALDsのいくつかの主張の妥当性・有効性についても、再検討していただきたいものです。

〔後記:一部字句修正しました。6月25日14時25分(北京時間)〕

木下ちがや氏からの批判に答える(SEALDsをめぐって) [日本・現代社会]

SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)のHPの主張について私が拙ブログで展開した批判(http://datyz.blog.so-net.ne.jp/2015-06-21-1 )に対して、旧知の木下さんからfacebook上で次のような批判が来ました。「偉そうな文章ですね。きちんと運動に同伴もしないで遠方から高踏な批評を述べてことたれり、という姿勢にしかみえない」と。

これに対して、私は次のように応答しておきます。

木下さん、お久しぶりです。あなたの言う「運動」とはなんでしょうか?あらゆる人の日常のなかに「現場」があり、そこに自分なりの「運動」がある、というのが私の考えです。ご自分たちの関わる「運動」だけが特別に重要で、それに「同伴」しないからといっていきなり罵倒するような傲慢な態度からは、真の民衆の連帯は生まれようがないのではありませんか?そうした態度こそ、120年に及ぶ近代日本の社会運動を毒しつづけ、敗北に追いやった要因の一つではなかろうかと、私は考えております。

それから、私は「SEALDs」の「運動」自体を批判したのではなく、そのHPにある主張(おそらくこの団体の綱領のようなものでしょう)について、私の信じる立場から批判したのです。私の立場というのは、拙ブログで繰り返し表明しているように、東アジアに真の平和をもたらすための前提条件は、旧大日本帝国のアジアに対する侵略責任を日本国が真摯に引き受け、清算することにある、というものです。この立場は私が拙ブログで一貫して述べ続けているもので、ここから「SEALDs」のHPが掲げる「安全保障」政策を批判したわけです。

もしあなたの信じる立場が私と異なるのであれば、「高踏」的の一語で済ませるのではなく、どうぞ反批判をしていただけませんか。有益な議論というものはそういうもので、残念ながら党派性の濃厚な近代日本の社会運動に一貫して欠けているものだと思います。「SEALDs」のHPは「日本の自由民主主義の伝統」を称揚していますが、私が戦後日本の「民主主義」の欠陥をこそ見つめねばならないと考えるのは、そういうわけです。

私は自分の立場から誠意をもって「SEALDs」のHPの主張を批判しました。ところが残念ながら、それはあなた方にいわせると、「偉そう」、「運動の邪魔をするな」ということになるのでしょう。批判が生産的な議論の材料として受け入れられず、友か敵かという党派的・二分論的発想のために、不毛な罵倒の応酬となってしまうのも、日本の民主主義の未熟を示すものでしょう。「SEALDs」の若者たちは、こうした大人たちを反面教師としながら、日本の民主主義を前進させてほしいと、私は心から願います。

(後記:木下氏については当初匿名としていましたが、諸般の事情を考え、日本の社会運動の当事者として責任をもった言論を展開していただくことを期待し、実名に変更しました。6月25日)

SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)についての雑感 [日本・現代社会]

安倍政権が安保法案をめぐり衆院憲法審査会で墓穴を掘って以来、法案の違憲性について多くのメディアが盛んに報じるようになった。それを追い風に、安保法案の阻止を目指す市民運動が活発になっている。そこでにわかに脚光を浴びて運動の中心に躍り出たのが、SEALDs(シールズ―自由と民主主義のための学生緊急行動)だ。

このたび機会あってSEALDsのホームページを熟読してみたが、その主張にはいくつか疑問を感じるところがあった。私とてわざわざ海外から、せっかく盛り上がってきた運動に冷や水を浴びせるつもりはない。しかし日本社会の民主主義と東アジアの平和について考えるうえで重要な問題だと考え、以下にあえて疑問点を記しておきたい。

SEALDsの主張は「CONSTITUTIONALISM(立憲主義)」・「SOCIAL SECURITY(社会保障)」・「NATIONAL SECURITY(安全保障)」の三点から成る。なかでも最も問題だと考えるのは、「安全保障」についての彼らの考え方だ。

SEALDsは外交・安全保障政策について次のように主張している。

---------------(引用はじめ)
私たちは、対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求めます。現在、日本と近隣諸国との領土問題・歴史認識問題が深刻化しています。平和憲法を持ち、唯一の被爆国でもある日本は、その平和の理念を現実的なヴィジョンとともに発信し、北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです。
----------------(引用おわり)

ここでは、北東アジアの平和を脅かすものとして「領土問題」と「歴史認識問題」の二つが指摘されている。前者の領土問題についてSEALDsがどのような主張をもっているか、HPからはうかがい知ることができない。後者の歴史認識問題をめぐっては、あっさりと「歴史認識については、当事国と相互の認識を共有することが必要です」と述べたうえで、次のように続けている。

-----------------(引用はじめ)
先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります。
-----------------(引用おわり)

ここには図らずも、彼らの歴史認識が吐露されている。日本国は「多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した」というのである。確かに1995年の村山談話は、「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た歴史について「痛切な反省の意を表し」、「わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません」と述べている。

だが、そうした「犠牲と侵略」に対する日本国の「反省」は、どれほど実効性をもつものだっただろうか。例えば慰安婦問題について、日本政府は公式の謝罪を回避して、総理個人の「気持ち」を示した「おわびの手紙」と民間の寄付による「償い金」でお茶を濁そうとしたが、こうした姑息策は元慰安婦の方々の人権の回復を妨げる結果をもたらしている(本ブログ記事「『朝日』の慰安婦関連記事について」を参照)。日本国が過去の侵略責任を真摯に清算しない限り、「当事国と相互の認識を共有すること」などできるはずがなく、東アジアに真の平和的秩序が打ち建てられることは決してないだろう。

そうした狡猾な日本国の「平和主義」を心底から信じるようなお人好しの国など、世界中どこにも存在しない。日本国が「侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した」などという、日本国内でしか通用しない内向きの幻想の上に立って、「東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャル」が日本国にはある、などと平然と語る日本人の(おそらく無意識の)傲慢な独善性に、アジアの多くの人びとは当然反発し、身構えることは間違いない。現状において、日本が「北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮する」可能性などゼロであることに、そろそろ気が付いてもよいはずなのだが。

そしてHPの冒頭には、SEALDsの根本的な立場が次のように述べられている。

-----------------(引用はじめ)
SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。  私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。
-----------------(引用おわり)

ここで高々と掲げられている「戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統」とは、いったい何だろうか?戦後いや戦中から一貫して、「安全保障」の名目で沖縄に多大な犠牲を強い続けて恥じない日本国と、それを黙認し続けてきた国民のどこに、「尊重」すべき「自由と民主主義の伝統」があるのだろうか?「守る」べき「自由で民主的な日本」など、かつて存在したことがあるのだろうか?

そもそも日本国の民主主義の危機は、安倍政権になって突然生じたわけではない。「いまだ達成されていない未完のプロジェクト」たる「平和憲法の理念」を実現する道は、戦後の日本国の民主主義なるものの欺瞞を撃つことから始めなければならないだろう。昨年来高まってきた自己決定権の回復を求める沖縄の叫びは、そのことを私たちにはっきりと認識させたのではなかったか。

私たちは、日本の自由民主主義の伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます」とSEALDsのHPは謳っている。確かにさまざまな平和勢力が結集して安倍政権を圧倒することは、この社会の民主主義を前進させるうえで喫緊の課題だろう。だが、「日本の自由民主主義の伝統」なるものがアジアや沖縄からの問いかけを無視するものであるならば、それを「守る」ことが平和勢力の結集軸になるとは、私にはとうてい考えられない。

以上、あえて厳しく書いてみた。中国に住んでいる私の、日本の最近の運動に対する誤解もあるかもしれないが、一つの問題提起として必ずしも無意味ではないと信じる。

もちろん、戦争はイヤだというSEALDsの若者たちの声が真摯なものであること自体を疑っているわけではない。戦争になれば真っ先に駆り出されるのは彼らだからだ。とはいえ、現在東アジアに垂れこめる暗雲は、安倍極右政権が転びさえすれば吹き飛ばされるような薄っぺらなものではなくて、近代アジア150年の歴史的因縁と深く重く結びついたものであることを、忘れるべきではないと思う。そのためにも日本の若者たちは、島国的・独善的な閉鎖性に陥ることなく、アジア各地の若者たちとこの問題を積極的に討論してみてはどうだろうか。

長春の清真寺(モスク) [中国・近現代史]

下の写真は長春の清真寺(イスラム礼拝堂、モスク)。長春市内で最も古い建築物の一つで、吉林省の重点文物(重要文化財)に指定されている。
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そもそも長春という都市は、清朝の後期に長春庁が設置されたことに始まる。小さな街を取り囲む形で城壁が建設されたのは1865年。この地に清真寺が建てられたのはそれを四十年も遡り、1852年に現在地に移転して今日に至る。

清朝末期まで辺境のちっぽけな城市にすぎなかった長春が急速に発展しはじめたのは、二十世紀に入ってからのことだ。その発展は帝国主義列強の満洲(中国東北部)侵略とまさに歩みを共にしていた。帝政ロシアが清朝から奪った利権として満洲を東西・南北に貫く鉄道路線(中東鉄道)を完成させたのが1903年。間もなく勃発した日露戦争によって、日本はロシアから長春以南の鉄道利権を奪い取り(南満洲鉄道=満鉄)、長春駅の周辺に一種の植民地として「満鉄附属地」を設置、その域内では日本が行政・司法・警察・軍事権などを行使した。

1931年9月18日に始まる満洲事変によって中国東北部を手中に収めた日本の関東軍は、翌年「満洲国」を建国、長春を「新京」と改めこれを国都とした。仏教・キリスト教・イスラム教・道教など現地のあらゆる宗教は、その軍事的権力の統制下に置かれ、傀儡国家の統治への利用が試みられてゆく。

1945年8月、日本の敗戦とともに満洲国は崩壊、ソ連軍が中国東北部を席巻した。その後長春では中国国民党による統治が始まるが、まもなく共産党との内戦に突入。東北人民解放軍による五か月間の包囲戦の末、48年10月、長春の国民党軍は降伏した(この包囲戦の間、一般市民に数十万の餓死者が出たと言われる)。

1960年代、文革の荒波は長春にも押し寄せ、清真寺の敷地は市の中学校によって占有された。文革終了後の79年に中学校はようやく移転し、清真寺は修築されてムスリムの信仰の拠点として復活した。かつて清真寺には巨大な榆(にれ)の老木があり、二十メートル四方に枝を伸ばす様子から「九龍榆」と呼ばれてムスリムたちに親しまれていたが、文革の動乱中にひどく痛めつけられたことがもとで、90年代に枯死してしまったという。

現在、吉林省のイスラム教徒人口は約11万9千人で、全人口の0.4%余り(2010年)。清真寺の周囲には、回族(イスラム化した漢民族)をはじめ少数民族の経営するイスラム系のレストランやホテルが立ち並ぶ。なかでも有名なのは「回宝珍餃子館」で、張作霖統治下の1924年に開店した長春有数の老舗だ。
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長春の激動の百五十年を見つめつづけてきた清真寺。このモスクが歴史の数々の荒波に耐え、長春市内最古の建築物という栄誉を担っているのは、それがムスリムたちの信仰の空間としていかに大切に守られてきたかを、物語っていよう。

天皇の「おことば」と立憲主義 [日本・近代史]

明仁氏の名で発表された新年所感が、FB上でちょっとした論議の的になっている。それにしても、今の日本社会のあり方に対して一見批判的なポーズを示す人が、天皇の「おことば」なるものに自分の意見を忖度して欣喜雀躍する姿は、毎度のことながらうんざりさせられる。こうした現象の問題点については、以前池澤夏樹氏について論じたことがあるので、ここには繰り返さない。

民衆を抑圧する日本政府と違って天皇は民衆の側に寄り添っているはずだという空想、天皇こそ世直しの旗手だといった妄想は、明治初年から現在まで日本社会に根強いやっかいな観念だ。こうした観念は、より良い方向へ社会を変革するために何の役にも立たなかったばかりか、日本社会の民主化を阻害し、日本帝国のアジア侵略を草の根で支えるイデオロギー的な役割さえ果たした。

1901年の暮れ、議会開院式に出席した帰途の睦仁(明治天皇)の騎馬車列に、田中正造が直訴を行い、足尾鉱毒被害民の救済を嘆願した。「草莽ノ微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス」で始まる美文の直訴状を執筆したのは、新進気鋭の批判的ジャーナリストであった幸徳秋水。その内容は、「列聖ノ余烈ヲ紹ギ、徳四海ニ溢レ、威八紘ニ展ブ」る「陛下」に対して、鉱毒問題に無為無策の政府当局を非難・告発し、どうか自らの「赤子」を御救いくだされ、と天皇の「深仁深慈」にすがりつくものだった。

こうした田中の直訴が、許すべからざる不敬行為なのか、はたまた忠良なる臣の掬すべき衷心より出た義挙なのか、喧々たる論議を呼び起こした。こうした騒ぎは、一昨年に山本太郎参院議員の「直訴」をめぐっても繰り広げられたように、日本社会におなじみのものだ。

この騒ぎの渦中、幸徳は「至仁至慈の皇室を奉戴」する日本国民が「天皇陛下に直訴せんと欲するに至ること、まことに日本帝国臣民の至情」であると述べて、田中の直訴を自画自賛した(「臣民の請願権(田中正造の直訴に就て)」『万朝報』1901年12月12日)。そのころの幸徳は、「憲法は軽からざるに非ず、然れども勅語は更に重きなり」と、天皇の「おことば」を憲法より上に置くという天皇主義者だったのだ(「勅言下る」『万朝報』1901年3月15日)。

当時ありふれていたこのような天皇主義を、正面から厳しく批判した人がいた。木下尚江だ。木下は田中正造を深く敬愛していたが、直訴という行為だけは容赦しなかった。木下はいう、田中の直訴は「立憲政治の為めに一大非事」である。なぜなら、帝王に向て直訴するは、是れ一面に於て帝王の直接干渉を誘導する所以にして、是れ立憲国共通の原則に違犯し、又た最も危険の事態であるからだ、と(「社会悔悟の色」『六合雑誌』1902年1月)。政治権力、とりわけ天皇制権力が恣意的に行使される余地を許さないという、立憲主義の原則に立った決意が、彼の言葉にはっきりと表れている。そもそも木下は、天皇を神聖不可侵としつつ絶大な大権を与えた明治憲法体制では、真正な立憲政治を実現できないと考えていた。演説会での彼の舌鋒は、おのずとこうした「国体」問題にも及んだ。

幸徳と木下は社会主義の同志だったが、国体=天皇制問題をめぐり意見が一致しなかった。幸徳は、「二千五百年一系の皇統」に基づく「国体」と社会主義とは矛盾なく調和すると信じていたのだ(「社会主義と国体」『六合雑誌』1902年11月)。その幸徳は、しばしば「国体」に触れる発言をする木下を次のように叱りつけたという。「君、社会主義の主張は、経済組織の改革ぢやないか。国体にも政体にも関係は無い。君のやうな男があるために、「社会主義」が世間から誤解される。非常に迷惑だ」、と(木下尚江『神 人間 自由』中央公論社、1934年)。

このように社会主義者にまで浸潤していた天皇主義に対して、木下は憤怒の激語をもらした。「日本の識者が社会党に恐るゝ所はその純白の民主主義に在り。しかれども彼等が目して最も猛悪なる兇漢と指す社会党員すら、一たび諸君の前に立つ時は、「否な、我等は只だ経済的平等を希望するに過ぎず」と汲々弁疏するに非ずや。日本の識者と権力者とが社会党を目して君主政治の顚覆者とするに拘らず、社会党自身は却て之を以て己等を誣ふる者と憤激す。看よ、日本の何処に君主政治を否定する所の思想あり熱情ありや。」(「革命の無縁国」『新紀元』1906年9月10日)。

こうした木下の警告を受け入れたのかどうかは分からないが、田中正造も幸徳秋水もその天皇主義的な観念をまもなく払拭していった。田中は二度と上からの御慈悲にすがることなく、渡良瀬の農民とともに抵抗する道を選び、幸徳はアナーキズムの道を歩みはじめる。

だが一般には、百年前の木下の警告はまもなく忘れられ、その剛直な立憲主義に基づく天皇制批判の思想はついに日本社会に根付かなかった。立憲主義の原則すら無視して天皇にすがりつく「リベラル」は今も後を絶たない。
例えば内田樹氏は、「天皇陛下の政治的判断力への国民的な信頼」を説き、「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう」などと発言している(『AERA』2013年11月18日、雁屋哲氏のブログ「内田先生ご乱心、いや本心か」より重引)。日本国憲法の第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ」、第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」に挑戦する、危険な非立憲的発想といわざるを得ない。

この内田氏の発言について、雁屋哲氏は上のブログで次のように批判している。「こうして、〔内田〕氏の文章を書き写すだけで、私は体の奥底から吐き気というか、脊髄の中に強酸を注入されたらかくもあらんかという、死んだ方が良いようないやな気持ちがこみ上げてきて、正気を失いそうになる。氏はこんなことを本気で書いているのだろうか。国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。・・・(中略)・・・突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。このような言葉は、以前に聞いたことがある。2.26事件の青年将校たちが同じことを言っていた。内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか」。けだし正当な批判だと私は思う。

沖縄と満洲――被害と加害のはざまで [沖縄・琉球]

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沖縄女性史を考える会編『沖縄と「満洲」――「満洲一般開拓団」の記録』(明石書店、2013年)。少し前、勤務先の学校の図書館から、日本語の本で何かいいものはないかといわれて、推薦したうちの一つがこの本だ。

1936年、満洲国新京(現・長春市)の関東軍司令部は、二十年間に日本から百万戸・五百万人を満洲へ農業移民として送り出す計画を立て、満洲国政府・日本政府に承認させた。この国策に基づき38年、沖縄県は三万戸・十五万人の県民を満洲に移住させて「沖縄分村」を建てる構想を立案し、40年に「満洲開拓農民先遣隊」として68名が黒竜江省に入植。以後多くの沖縄の農民男女が「開拓団」として海を渡った。

開拓農民に与えられた土地の多くは、無人の荒野を開墾したものではない。もともとそこで暮らしていた漢族・満州族・朝鮮族などの地元農民を、「匪情悪化」を口実に有無を言わさず暴力で強制移住させ、その農地を「無人地帯」として満洲開拓公社が安く買いたたき、そこに日本の開拓民を移住させたのだ。それは、日本軍の暴力を背景とする帝国主義侵略政策以外の何ものでもない。

1920年代半ばから30年代にかけて、沖縄は不況のどん底にあえいでいた。琉球処分後に日本資本主義に強制的に組み込まれ、サトウキビという単一商品作物の生産を国策として割り当てられていた沖縄。その植民地的な経済構造はきわめて脆弱で、昭和恐慌そして世界恐慌という荒波の前にひとたまりもなかった。

当時の農民の主要な食物だった甘藷すら不作に陥った年には、山野に自生するソテツを毒抜きして食べて飢えを凌ぐ惨状が、各地にみられた(ソテツ地獄)。食べるために沖縄から多くの人びとが海を渡り、日本本土そして海外へと移住していった。1940年、沖縄県民の海外在留率が9.97%と、他府県に比べて圧倒的に高い比率を示すのはそのためだ。

こうした状況で、満洲移民という国策に沖縄県が積極的に応じたのは必然だった。県の募集に応じた沖縄の農民たちは続々と満洲に渡った。彼らは一面、日本帝国の植民地的な沖縄政策の犠牲者であった。しかし他面では、沖縄の人びともまた大日本帝国臣民として、満洲侵略の尖兵としての役割を結果的に担ったことは否めない。とりわけ、土地を奪われた中国東北農民から見れば、日本本土農民も沖縄農民も、侵略者の手先である「日本鬼子」として何の変わりもない。

1945年8月の日本敗戦・満洲国崩壊後、沖縄の女性や子どもたちも多くが置き去りにされ、ソ連軍侵攻の混乱の中で命を落とした人や、酷寒の中国東北の地に残留孤児・残留婦人として取り残された人が少なくない。なお、サイパン島など南洋群島に移住した沖縄人たちも、多くが戦火に巻き込まれて悲惨な最期をとげたことは周知のとおりだ。沖縄戦に巻き込まれた県民とおなじように、海外に移住した同胞たちの多くもきびしい運命に直面せざるを得なかった。

私の父方の祖父母はともにヤンバル出身の生粋の沖縄人だった。ソテツ地獄下の沖縄を去ってヤマトに渡った祖父はやがて日本帝国の官吏となり、天皇の勅任官として台湾の某地方に派遣され、植民地統治の一端を担った。その間私の父も台湾で生まれている。アジア・太平洋戦争の末期、米軍が台湾に上陸していたら、私はこの世に存在しなかった可能性が高い。しかし米軍は台湾をスルーして沖縄に上陸したため、父の一家は生き延びることができたのだ。

その結果、私もこうしてこの世に存在している。沖縄人でありながら、日本帝国の植民地官僚として、沖縄戦を経験せずに無傷で生き延びた者の子孫である私が、沖縄そしてアジアに対しどのように向かい合えばいいのか、今も悩みは深い。

その私が、かつて満洲国の首都新京と呼ばれ、日本帝国の植民地経営の中心地だった長春にやって来て、はや四年目。七十数年前、沖縄の多くの貧しい農民たちがこの都市を通過し、はかない希望を抱きつつ、現実には大陸侵略の尖兵として、酷寒の満洲各地に散っていった。零下20度を下回る夜、そのことをこの地で想うとき、いたたまれない気分になる。日本帝国主義の犠牲者でもあり侵略者でもあった沖縄の人びとが、満洲の地にどのような経緯で移住し、いかに悲劇的な逃避行で去って行ったのか、中国東北の人びととともに考えたい。

長春だより

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