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再び二村一夫氏の反論に答える(1)――「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって [日本・近代史]

【はじめに 論争の経緯と問題の所在】

まず、労働史研究者の二村一夫氏(法政大学名誉教授)と私との間の論争の経緯をふりかえっておこう。

論争の中心のテーマは、『国民之友』の95号(1890年9月23日)の社説欄に掲載された無署名の論説「労働者の声」の筆者は誰か、という問題である。「労働者の声」は、日本で最初に労働者の組織化を主張した論説として、日本の労働運動史上に記念碑的な意味をもっている。

この論争の前提として、次の二つの先行研究がある。

(a) 歴史家の家永三郎氏は、『国民之友』(民友社)主宰者の徳富蘇峰から、「労働者の声」の筆者は竹越与三郎(号は三叉)か山路愛山であろう、という証言を得ていた(家永三郎「「労働者の声」の筆者」『日本歴史』55号、1952年12月)。

(b) 上の証言をふまえて日本近代思想史研究者の佐々木敏二氏は、「労働者の声」の筆者について、山路愛山の筆とは考えにくく、竹越三叉の可能性が高いと推定しつつも、それを断定する決め手はないとした(佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収))。

二村一夫氏と私との論争の経過は、次のとおりである。

①二村氏はその著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』(岩波書店、2008年)において、「労働者の声」の筆者をこれまで探索した人はいないと述べ、その筆者について四つの論拠を挙げて、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」と断定した(98~102頁)。なお、ほぼ同じ趣旨の文章が、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」にある

②私は拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の「第4章 日本における「社会問題」論の形成」の注(73) において、二村氏が「労働者の声」の筆者をめぐる二つの先行研究を無視していることを指摘し、二村氏がその筆者を高野房太郎であると断定する四つの論拠はいずれも説得力に乏しいことを述べた。そのうえで「労働者の声」の筆者について、二つの先行研究と文章の内容から、竹越三叉の蓋然性が高いとした。(この注の全文は、文章を若干手直ししたうえで、本ブログ2014年5月5日の記事「「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について」の中に再録してある。)

③二村氏は2018年4月、WEB版『二村一夫著作集』の「高野房太郎とその時代」の追補として、「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(1) 」と題する文章を掲げた。そこで二村氏は、先行研究を無視した自身の誤りを認めたうえで、家永氏による蘇峰証言の真実性に疑問を呈し、「労働者の声」の筆者として「社外執筆者」が存在する可能性を主張した。また、「労働者の声」の声の筆者は竹越三叉である蓋然性が高いとする私の説を批判して、文体と文章の内容とから、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」と主張した。

④私は本ブログ2018年5月13日の記事「二村一夫氏の反論に答える―「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」において、『国民之友』の社説である「労働者の声」の筆者として「社外執筆者」の存在可能性を主張する二村氏の説に根拠がないことを指摘した。また、「三叉・竹越与三郎が「労働者の声」を執筆した蓋然性は、限りなくゼロに近い」とする二村氏の主張の根拠が説得力を欠くことを指摘したうえで、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説が成り立ち得ない理由を再論した。

⑤二村氏は2018年5月20日、WEB版『二村一夫著作集』に「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論 (2)」(以下、「再論(2)」と略す)と「大田英昭氏に答える─〈労働者の声〉の筆者は誰か・再論(3)」(以下、「再論(3)」と略す)を掲載した。二村氏は「再論(2)」で、「労働者の声」の筆者が山路愛山ではないことを述べ、「再論(3)」では、高野房太郎が「労働者の声」を執筆したという説は成り立ち得ないとする私の批判に反論し、高野執筆説を改めて主張した。

「再論(2)」での、「労働者の声」の筆者が山路愛山でないという二村氏の主張自体に、私はとくに大きな異論はない。そこで本稿では、主として「再論(3)」を検討の対象とする。

「再論(3)」の内容を具体的に検討する前に、まず「労働者の声」の筆者を高野房太郎と断定する二村一夫氏の説が成立するためには何が必要か、私の考えを示しておこう。

まず、「労働者の声」が、『国民之友』の「国民之友」欄に掲載された論説であることに注意する必要がある。「国民之友」欄の論説は『国民之友』の社説であり、蘇峰ないし蘇峰に代わる民友社員の記者が原則として無署名で執筆し、民友社の主義主張を掲げたものである。それは現在に至るまで、『国民之友』を史料として研究する者の共通認識といえる。

民友社とは何の接点もなかった高野房太郎が『国民之友』の社説を執筆したなどという、従来の民友社研究の常識から外れた突飛な説を二村氏が主張するには、次の三つの条件が必要である。

第一の条件として、『国民之友』の無署名社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とはおよそ無縁な若者が同誌の社説を執筆したという事例を挙げることが、二村氏には必要である。

第二の条件として、『国民之友』の社説「労働者の声」の筆者は民友社員ではない、と断定できる根拠を、二村氏は示さねばならない。

第三の条件として、高野房太郎が「労働者の声」の筆者であることを論証するに足る積極的な根拠を、二村氏は示さなければならない。なお二村氏は前掲著書『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』で、文体と文章の内容とから四つの根拠を挙げたが、それらがいずれも説得力がないことを、私は前掲拙著および本ブログ2014年5月5日の記事で指摘してある。

以上三つの条件を二村氏の「再論(3)」が満たしているかどうか、それぞれ検討を加えてゆこう。

【1.『国民之友』の無署名社説に「社外執筆者」は存在するか?】

1.1 『国民之友』の寄書制度と社外者の投稿について

二村一夫氏は、民友社と何の接点もなかった高野房太郎が『国民之友』の社説「労働者の声」を執筆した可能性を主張する一つの理由として、『国民之友』の寄書制度(一般の投書家、および著名な有識者に委嘱された「特別寄書家」による)を挙げている。

この寄書制度は、二村氏があげつらうまでもなく、『国民之友』についていくぶんの知識をもつ者には周知のことである。『国民之友』における寄書の論説や創作・批評・雑文にはいずれも署名があり、文章の責任の所在が明示されている。つまりそれらは、民友社自身が責任をもって主義主張を掲げる「国民之友」欄の無署名社説とは、はっきり区別されているのである。したがって、こうした『国民之友』の寄書制度の存在は、特別寄書家ですらない高野房太郎が一般投書家として社説を執筆したという可能性を主張する根拠になるどころか、むしろそれを否定するものである。

ちなみに、『国民之友』第八巻総目録には、「我国民之友初号発刊以来今日まで投稿したる諸氏」(つまり1887年2月の創刊から1891年6月現在まで)の一覧表が掲載され、152人の社外投稿者の氏名を見ることができる(下の写真を参照)。しかし、その中に高野房太郎の名前はない。つまり、この期間(「労働者の声」が掲載された1890年9月23日を含む)において、高野が『国民之友』に投稿した事実は確認できないのである。
国民之友投稿者1.jpg
「我国民之友初号発刊以来今日まで投稿したる諸氏」『国民之友』第八巻総目録(復刻縮刷版『国民之友』第8巻〔明治文献、1966年〕所収)

1.2 鉄面生「山縣伯に与ふるの書」『国民之友』(86号、1890年6月23日)について

二村一夫氏は、『国民之友』の社説として社外執筆者の投稿が掲載された事例が存在するとして、次のように述べている。

-----------------(引用はじめ)
このほか ─ 大田氏にはとても信じ難いことでしょうが ─ 数は限られていますが社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実があります。それもご要望にピッタリの「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者が同誌の社説を執筆したという実例」が存在するのです。「労働者の声」が発表されるちょうど3ヵ月前、1890(明治23)年6月23日発行の第86号 の巻頭論文「山縣伯に與ふるの書」がそれです。「労働者の声」が同じ「国民之友欄」ではあっても巻頭ではなく、論説の2番目に掲載されたのに対し、この「山縣伯に與ふるの書」は『国民之友』の文字通りの巻頭論文です。

(中略)

このように、「白面の一書生」の投稿が、『国民之友』の社説欄、それも巻頭に掲載された事例が、明白に存在するのです。今ではほとんど使われない言葉ですから念のために付記すれば、「白面」とは、年が若く経験の乏しい者、青二才を意味しています。大田氏が「民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われること」は、決して異例ではないのです。
-----------------(引用おわり)

ここで二村一夫氏は、「民友社とはおよそ無縁で同誌に寄稿したことすらない無名の若者」が『国民之友』社説を執筆した例として、『国民之友』(86号、1890年6月23日)の社説欄に掲載された、鉄面生なるペンネームの付された論説「山縣伯に与ふるの書」を挙げている。二村氏は、この論説の冒頭にある「余は白面の一書生」云々などという口上を真に受けて、これを社外執筆者による投稿と思い込んでいるらしい。

しかしこの論説は、二村一夫氏の不用意な臆測に反して、徳富蘇峰の執筆したものなのである。この文章はそのまま徳富蘇峰の著作『人物管見』(民友社、1892年)に転載され、さらに『蘇峰文選』(民友社、1915年)にも収録されている。

蘇峰文選1.jpg
『蘇峰文選』(民友社、1915年)目次。画像は国立国会図書館デジタルコレクションより。画像転載許可済み(国図電1801044-1-175 号)

この社説「山縣伯に与ふるの書」の内容は、山縣有朋首相に対して「自ら国務大臣の責任なる者は、議院に対する責任なる事を明言」することを要求し、議会無視の超然主義を採らないよう呼びかけたものである。『国民之友』は前年の第67号(1889年11月2日)に掲載した政治批判がもとで一か月に及ぶ発行停止処分を受けていた。蘇峰は再度の発停を覚悟しつつ、鉄面生なる仮名に託して、あえてこの論説を執筆・掲載したものと思われる。

なお、『国民之友』の1887年2月創刊号から1895年12月の第276号(竹越三叉の民友社退社が96年1月初めに公表されたので、ここを区切りとする)までの総目録を通覧すると、「国民之友」欄の社説のうち、外部からの投稿の形式をとったものが二つだけある。一つは上記の「山縣伯に与ふるの書」であり、もう一つは望教生なるペンネームの付された「板垣伯に与るの書」(114号、1891年4月3日)である。実は後者も、蘇峰の上記の著作『人物管見』に収録されており、やはり蘇峰の執筆したものであることがわかる。つまり、当該時期の『国民之友』において、二村氏の力説する「社説欄=「国民之友欄」にも投稿が掲載された事実」などというものは、一つも確認できないのである。

1.3 小括

繰り返すが、『国民之友』社説の位置づけをめぐって当事者や研究者の間で長年共有されてきた事実認識を、二村一夫氏があえて疑い、「「労働者の声」の筆者は高野房太郎に違いない」(二村、前掲書、102頁)などという断定的な主張を維持したいのであれば、まず『国民之友』の無署名社説を「社外執筆者」が書いたことの明らかな実例、それも当時の高野のように民友社とは無縁な若者が同誌の社説を執筆したという事例を挙げることが、第一の条件として必要である。しかし、そうした事例は(二村氏の不用意な思い込みを除いて)一つも確認することができない。そればかりでなく、『国民之友』の152人にのぼる社外投稿者の名を記した一覧表に、高野房太郎の名は見いだせないのである。

したがって、「労働者の声」の筆者を高野房太郎とする二村一夫氏の主張は、学術的な検証に耐える根拠を欠くものといわねばならない。

(以下、続く)

追記1:『蘇峰文選』の画像を追加しました。(2018年6月16日)

追記2:「再び二村一夫氏の反論に答える(2)」をアップしました。(2018年6月16日)

追記3:「再び二村一夫氏の反論に答える(3・完)」をアップしました。(2018年6月18日)

長春だより

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