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大井赤亥氏への回答(SEALDsをめぐって) [日本・現代社会]

SEALDsのHPの文言について論じた拙論に対して、今度は大井赤亥氏からfacebook上で批判がありました。

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大井氏によれば、SEALDsのHPの文言は、トイレによく見られる「いつもトイレをきれいにご使用いただきありがとうござます」という標語と同様のレトリックである。この標語は、全ての人がトイレをきれいに使っているという事実を示すものではなく、「だれもがトイレをきれにつかっている」という建前をもって、「あなたもトイレをきれいに使え」とプレッシャーをかけるためのものだ。「日本は平和国家である」「日本は自由と民主主義を確立した」「日本は犠牲と侵略を反省した」というSEALDsの主張もそれと同様、現にある事実を示すものではなく、「自民党でさえ『建前』として述べているその規範を前提化し、それを当然とすることで、『だから現政権も平和主義でいろよ』『自由と民主主義にしたがって振る舞えよ』『侵略と犠牲を反省しろよ/少なくとも河野談話・村山談話くらいは保持しろよ』というプレシャーをかけている」のだ、という。 そして大井氏によれば、SEALDsは必ずしも日本が完全な平和・自由・民主主義の国家だと考えているのではない。ただしこれらの標語は「建前」として安倍政権すら踏襲しているわけだから、この標語によって「そういう『建前』を守れよ、少なくともその線にまで戻って、その線を順守して政治を行えよ、というメッセージ」をSEALDsは発している。そしてこのメッセージこそ、現在の政局や言葉をめぐるヘゲモニー闘争において重要性を増しているのだ、というのである。
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以上が大井氏の主張の要旨ですが、私はSEALDsのHPの主張をこうしたレトリックとして捉えようとする氏の発想自体に、疑義を覚えます。

そもそも大井氏が言う日本の「トイレ」の標語のレトリックは、多数の人が日常的にトイレを比較的きれいに使っているという事実の前提があって、はじめて成り立つものでしょう。世界有数の清潔さを誇る日本の公衆トイレだからこそ、そうした標語は機能することができるわけです。しかし例えば、仮に中国の普通の公衆トイレにそのような標語を掲げたとしても、残念ながら何の意味もありません。現実と余りにも異なるそうした標語は、政権党の下部組織が街のいたるところに掲げている「きれいごと」と同じく、民衆には皮肉な一瞥で無視されるだけでしょう。

SEALDsのHPの文言も同様です。「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」という主張が、仮に大井氏のいうような政権にプレッシャーを与える「レトリック」であるとしましょう。そこにもやはり、日本国民の多数が(完全無欠でないまでも)比較的に「平和主義者」であり「自由と民主主義」の擁護者であり、かつての「侵略と犠牲」をある程度「反省」している、ということが前提として想定されているのです。

ところが私が批判するのは、大井氏をはじめ多くの人が無自覚にもっているそうしたナイーブな発想自体なのです。

確かに、現天皇が「平和主義者」(?)だと称賛されるのと同レベル程度には、日本国民も「平和主義者」なのでしょう。だが私は、こうした意味で「平和主義」をうんぬんする言葉の薄っぺらさ、胡散臭さに、とても耐えられません。

何度でも言いましょう。旧大日本帝国のアジア侵略の責任を日本国が真摯に引き受け、謝罪し、清算しない限り、日本国の「平和主義」なるものは空念仏だ、と。大日本帝国の侵略責任に対して真剣に取り組まないような「平和運動」も同じことです。私の知っている中国の人たちは、そうした運動に対して表面上は愛想よく笑顔を見せるかもしれませんが、侵略責任をスルーするような日本人の偽善を心の底でせせら笑うに違いありません。

そうした侵略責任問題の中で、東アジアで今最も注目されているのは慰安婦問題です。ところが、日本の全国紙の中で最も「リベラル」と言われる『朝日新聞』や、同紙および岩波書店の『世界』が重用する「リベラル」な知識人たちすら、慰安婦問題について日本国の国家責任を真剣に追及しようとしません(拙ブログ記事「『朝日』の慰安婦関連記事について」および「高橋源一郎氏の「慰安婦」論」 を参照)。こうした日本国の現状で、「先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります」などと主張することがいかに傲慢で独善的なものかは、言うまでもないでしょう。

たとえこうした文言が政権に「プレッシャー」を与えるためのものだとしても、侵略責任への真剣な取り組みへの決意を欠いたその「平和主義」が結局、「河野談話」・「村山談話」を擁護する程度の線で止まってしまうのは明白でしょう。これらの談話は周知のように歴代の日本政府が踏襲してきたもので、現在の安倍極右政権すら建前としては否定していません。この現状維持の線では、日本政府が慰安婦問題をはじめとする過去の侵略の国家責任を引き受けることは、まずありえません。ところが東アジアに平和的秩序を打ち建てるために一歩を踏み出すには、この線を突破して、日本国に過去の侵略責任を引き受けさせ、謝罪・清算させるという市民の決意が、絶対に不可欠なのです。

「自由と民主主義」についても同様のことがいえます。大井氏の論理では、日本国民の多数が一応は「自由と民主主義」の擁護者だということが前提にされなければなりません。だがそうした意味での日本国の「自由」や「民主主義」がいかに薄っぺらなものであるかは、前の二つの記事で指摘したとおりです。そもそも、「自由と民主主義に基づく政治を求めます」と宣言しているSEALDsの支援者らしき多くの人びとが、ある韓国人の女性研究者(在日コリアンではない)の冷静な問題提起に対して罵倒と誹謗を集中させるという、およそ民主主義とは正反対の行動を続けているのは、もはやブラックユーモアというしかないでしょう(この問題については近く再論する)。

大井氏には、まずは中国に来て、地方都市の路上の公衆トイレにでも入り、果たして件の標語のレトリックが有効なものかどうか、とくと考えてみることを勧めます。そのうえで、日本の「平和主義」「自由と民主主義」の惨状に照らして、SEALDsのいくつかの主張の妥当性・有効性についても、再検討していただきたいものです。

〔後記:一部字句修正しました。6月25日14時25分(北京時間)〕

長春だより

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