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中国の地域医療に尽くして70年――元日本兵医師の生涯 [日中関係]

2010年12月1日、山東省済南で一人の老人が息を引き取った。山崎宏さん、享年102歳。山崎さんはこの地で七十年近く地域医療に尽くしてきた日本人医師だ。地域の人たちは親しみをこめて彼を「山大夫」と呼ぶ。亡くなった翌朝、山崎さんの小さな家には親族や元患者などが集まり、故人を偲んだ。
http://news.iqilu.com/shandong/yaowen/2010/1202/372356.shtml

中国や香港のメディアの報道によれば、山崎さんの人生行路は次のとおり。

1908年岡山県真庭市生まれ。医業を志すも、1937年7月盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発。まもなく山崎さんも召集され、第10師団歩兵第33旅団に従軍、同年8月天津郊外の塘沽に上陸した。同旅団は天津南方の馬廠付近で中国国民革命軍第29軍と激しい交戦を繰り広げた。山崎さんは後方勤務だったが、前線から送られてくる多数の負傷兵を見るうちに、戦争に対する疑問が頭をもたげた。

11月、部隊が河南省鄭州付近に駐屯していたとき、山崎さんは日本兵が中国の女性から2、3歳の男の子を奪い取って殺そうとしているのを見た。このとき逃亡を決意したという。ある日の晩、歩哨が居眠りしている隙に軍営から逃走。殺したくない、殺されたくない一心だった。飢えつつ放浪する山崎さんに対し、中国民衆は彼の着る軍服から日本兵だと分かっていたが、それでも食べ物を与えてくれた。また疲労困憊してある農家の門前で倒れたとき、農民夫婦は山崎さんを助け、衣服や食べ物まで与えて送り出してくれたという。

山崎さんは日本軍占領下の済南に着き、名を変えて鉄道局の倉庫番の仕事にありついた。ある日上司は、倉庫から物を盗む中国人を捕えて撃ち殺すよう、山崎さんに命じた。しかし山崎さんは、貧困ゆえの盗みだと考え、寝たふりをして盗まれるに任せた。かつて軍営を脱走したときに中国民衆から受けた衣食の恩返しのつもりだったという。

まもなく山崎さんは、河北唐山から済南に逃げてきた中国人女性を妻に娶った。1945年の日本降伏後、山崎さんは故国の家族に自分のことを知らせた。とっくに戦死したものと思っていた家族は山崎さんの生存を知って狂喜したという。兄が帰国を勧めてきたが、しかし山崎さんは断った。「贖罪のためにここに留まり、恩返しせねばならない」と。そして日本で学んだ医学知識を生かし、線路脇に小さな医院を開業した。最初はこの「鬼子大夫」のところに来る患者は少なかったが、貧乏人は無料で診察したので人気を得、しだいに患者も増えてきた。

日中国交正常化の後、日本の大使館員が山崎さんのもとを訪れ、質問した。「今でも中国人はあなたを「鬼子」と呼んでいると聞きますが、あなたはなぜここに留まっているのですか?」山崎さんは次のように答えた。「彼らが恨んでいるのは、あの当時の日本人です。まったくそのとおりなのだから、私はここに留まり日本人を代表して贖罪しなければならないのです。」その後日本政府から毎年送られてくる年金を、山崎さんはほとんどすべて中国の人びとのために寄付した。

土地の人は言う。小さい時病気をするといつも「山大夫」に診てもらった、今では子どもたちも山大夫に診てもらっている、と。

http://qnck.cyol.com/content/2009-11/24/content_2951970.htm
http://v.ifeng.com/documentary/special/riben/#2daaa7a6-4408-4d5e-a958-3681c069098d


山崎さんの遺体は、生前の本人の意志により献体に出されることになった。父親を送り出した後、娘の山雍蘊さんは参列者に向かって深くお辞儀をし、中国人民に対して、父を寛大にも許してくれたことを父に代わって感謝します、と述べた。

タグ:日中関係

長春だより

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