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「満映」から「長影」へ(1) [満洲国]

今年8月にオープンした「長影(長春映画製作所)旧址博物館」を先月訪れた。長春における映画製作の歴史はたいへん興味深いものがあるので、少し紹介したい。
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〔長影旧址博物館の主楼。旧・満洲映画協会(満映)の社屋で、昨年全国重点文物保護単位(国家級の重要文化財)に指定された〕

長春は中国最大規模の映画製作所「長春電影製片廠」(長影)を擁する、映画産業の中心地だ。その淵源は、長春が満洲国の首都新京と呼ばれていた1937年、満洲国と南満洲鉄道(満鉄)の折半による共同出資で国策映画会社「満洲映画協会」(満映)が設立されたことにある。すでにその四年前、関東軍(満洲に駐屯する日本軍)参謀の小林隆少佐の提唱で、関東軍と満洲国警察の支持のもと「満州国映画国策研究会」が発足していた。

満洲では日本の侵略以来、中国人・朝鮮人の抗日パルチザンと日本軍との戦闘が続いており、人工的な傀儡国家である満洲国に対する「国民」の忠誠心はきわめて低かった。37年7月には盧溝橋事件によって日中全面戦争の火ぶたも切られ、民心を鎮撫し国家への忠誠心を涵養して、戦争への精神面での動員を図ることが急務とされていた。満洲国の統治機関のそうした意図に基づいて、重要な国策企業として設立されたのが、満映だ。

満映では設立から8年間で、プロパガンダおよび娯楽向けの劇映画108本と、記録・教育映画189本が製作された。満映の発展を推進したのは、関東大震災のどさくさに紛れて大杉栄・伊藤野枝夫妻と6歳の甥を惨殺したことで悪名高い東京憲兵隊の元大尉甘粕正彦だ。甘粕は出獄後、満洲に渡り、関東軍特務機関のもと、満洲事変下のさまざまな謀略工作に暗躍した後、満洲国民生部警務司長、協和会(満洲国の政治的宣伝・教化機関)中央本部総務部長などの重職を歴任し、1939年に満映理事長の座についた。彼のもとで満映の大幅な機構改革が断行され、軍・警察による統制が強化される一方、日本から多くの映画人が高給で招聘された。

満映の看板スターとなった李香蘭(山口淑子。今年9月に死去)のデビュー作「蜜月快車」は1938年の制作(その主題歌「我們的青春」https://www.youtube.com/watch?v=NpCj6av3Id0 )。彼女は日本人だが満洲の奉天(現・瀋陽市)生まれで中国語に堪能、満映によって満人(中国人)女優として宣伝され、世間でも当時そう信じられていた。1944年に発売された彼女の「夜来香」は、抗日戦争中に「漢奸」(売国奴)歌曲と蔑まれつつも大陸でヒットした(李香蘭の歌う「夜来香」https://www.youtube.com/watch?v=fZCHk-McCws )。満洲国および日本の多くのプロパガンダ映画に出演した彼女は、敗戦後に漢奸として処刑されそうになったが、結局日本国籍の保持が判明して、生きて帰国することができた。

甘粕が満映理事長になった1939年、新京の洪熙街(現・紅旗街。長春の繁華街の一つ)に新しい製作所と新社屋が落成した。この建物は現存し、「長影旧址博物館」の主楼となっており、昨年「全国重点文物保護単位」(国家級の重要文化財)に指定された。その玄関の柱石には「定礎 康徳六年七月」という満洲国の年号が今も残る。
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1939年の時点で、新京には映画館が11館あった。うち35年に営業が始まった豊楽劇場は「東洋第一」と呼ばれ、座席数1124席、最大二千人を収容できたという。その建物は長春一の繁華街の重慶路に現存し、市の文化財に指定されている。
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〔重慶路に現存する旧・豊楽劇場〕

長春だより

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