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台湾の「サービス貿易協定」反対運動をめぐる、下地真樹さんからの批判に対する応答(2) [東アジア・現代]

前回に引き続いて、台湾の「サービス貿易協定」反対運動をめぐる、下地真樹さんからの批判に対し応答を行います。

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私の元文章は
台湾の「サービス貿易協定」反対運動
続・台湾の「サービス貿易協定」反対運動
以下では、上の文章を〈論A〉、下の文章を〈論B〉と略します。

下地さんの批判文は
https://www.facebook.com/mon.mojimoji/posts/545541075559331
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私は〈論A〉で次のように書きました。

今回の騒動の論点は、大きく二つあるように思う。一つは、中国との「サービス貿易協定」の内容自体の可否の問題。もう一つは、協定の調印・承認をめぐる民主的手続きが正当なものであったかどうかの問題。(中略)少なくとも後者の民主的手続きの問題において、馬政権はあまりに拙速に事を運ぼうとしたきらいがある。さもなければ問題がここまでこじれるはずがない。この点では、立法院を占拠している学生のほうに一定の理があるだろうし、馬政権が立法院占拠中の学生を実力で排除することに慎重なのもそのためだろう。

この後者の「民主的手続き」の問題について、下地さんは次のように指摘しています。

「協定の調印・承認をめぐる民主的手続きが正当なものであったかどうかの問題」は、代替不可能な重要性を持つ問題であって、この一点だけをもってしても、この協定は破棄されるべきと言っていい。協定が真実台湾の人々のためになるとしても、この協定は破棄されるべきである。

協定の調印・承認をめぐる馬政権の民主的手続きの正当性に明らかな瑕疵があるのであれば、下地さんの言うように、この協定は破棄されるべきだと、私も思います。

次に、第一点の「サービス貿易協定」の内容自体の可否の問題について、私は〈論A〉で次のように書きました。

ただし、サービス貿易協定自体の内容自体については、台湾内でも理解に相当の差があるようだ。この協定が成立した場合、台湾の社会構造上、どの階層にどのような利益・不利益があるのかについては、はっきりと断定することができない。現時点では、協定反対運動の主力は学生(および大学教員の一部)のようだ。学生たちは労働団体にストライキを呼びかけているものの、組合側の反応は鈍い。(中略)そもそも、中国の市場経済をグローバル資本主義の中にどのように位置づけるかによって、台・中のサービス貿易協定の意味合いは変わってくる。そこを明確にしない限り、協定反対運動の本質もまたはっきりしない。

これについて、下地さんは次のように述べています。

【(前略)たとえば、反原発では積極的に発言している芸能人が、今回の件ではほとんど発言しない。最近の台湾・中国・香港の芸能界はほとんど統合されていて、映像作品などもその三つの地域の合作で作られるものが極めて多い。ゆえに、中国に反発するような政治運動への共感は示しにくいだろう(実際、台湾の芸能人を締め出せ、というような動きもあるらしい)。既に存在している経済関係から利益を得ている人たちはいて、それゆえにこの問題に積極的に賛成できない場合は当然ある。ただし、ここで確認しておくべきは、それは必ずしも今回のサービス貿易協定が利益をもたらすから、と想定すべき理由はない、ということだ。協定が利益をもたらすから、と想定すべき理由はない、ということだ。(本当は、サービス貿易協定の中身に立ち入って評価すべきだろうが、あまりに長くなりすぎるのでやめておく。)

あまり話がかみ合っていませんが、下地さんが上で述べていることにも特に異論はありません。私がいぶかしく思うのは、これに続く下地さんの次の文章です。

そして、上記論考の最大の問題点と私が思うところは、これを「反中」と位置付けた上で、あろうことか日本の排外主義と重ね合わせるように論を進めている点だ。

上記引用の「これ」とは台湾のサービス貿易協定反対運動を指しているようですが、下地さんによれば、私はこの運動を「反中」と位置付けた(!?)という。そしてこの運動に関して私が「日本の排外主義と重ね合わせるように論を進めている」(!?)という。それを示すものとして、下地さんは〈論A〉の私の次の文章を引用しています。

報道を見る印象では、協定反対運動の中に「反中」の色彩が濃いことも否定できない。参加者の中には明らかな排外主義者もいる。日本のネット右翼たちがこの運動を応援しているのもそのためで、「敵(中国)の敵は味方」といった感覚だろう。仮に、協定の相手がアメリカ(および中国以外の主要資本主義国)であったら、反対運動はここまで盛り上がっただろうか?

私は、この運動の中に「『反中』の色彩が濃い」ことを指摘しているのであって、この運動の本質を「『反中』と位置付けた」のではありません。また、私はこの運動を「日本の排外主義と重ね合わせて」いるのではなく、日本の右翼がこの運動に含まれている「『反中』の色彩」を喜び応援しているという明白な事実を、私は指摘しているにすぎません。

さらに下地さんは次のように続けています。

当然、そういう人はいるだろう。しかし、中国の体制下で暮らしたいか?とリアルに考えざるをえない台湾の人にとって、「それは嫌だ」という感覚は、「反中」で片づけられるようなものではない。

なぜ「中国の体制下で暮らしたいか」云々という言葉が突然出てくるのでしょうか?今議論しているのは「サービス貿易協定」の問題です。この協定は、台湾の人びとを直接に「中国の体制下で暮ら」させる危険にさらすものなのでしょうか?「サービス貿易協定」の問題と、中国の現政権が台湾との「統一」を目指しているという事実とが、いったいどのようにリンクしているのか、下地さんから具体的な説明をいただきたいと思います。もし、両者が必然的に結びついていることを説明できず、下地さん(あるいは協定反対運動の学生)が両者を意図的に混同させているとすれば、それこそ悪質な「反中」プロパガンダというほかありません。

従って、この件についての具体的な説明をいただかない限り、「『それ(中国の体制下で暮らす)ことは嫌だ』という感覚は、「反中」で片づけられるようなものではない」という下地さんの指摘は、今議論している「サービス貿易協定」をめぐっては何の意味もないことになります。

そして下地さんは続けて述べます。

冒頭で基本認識として述べたように、中国という国が決してほめられた状況にある国ではないこと、かつ、それが現在の国際秩序においては妥当な手段であるとしても、中国が台湾に対して取っている外交姿勢はきわめて暴力的な性質を持っていることは確認してほしい。それらを前提にして、多くの台湾人が「統一ではなく現状維持を望む」と考えるのは、排外主義的な反中でも嫌中でもなく、きわめて当たり前の政治感覚だと思う。それは現実の中国政府の反人権的なありようという裏付けのある、否定できない態度だと思う。

繰り返しますが、「統一」云々の問題と、「サービス貿易協定」の問題とは、どのようなつながりがあるのでしょうか?「多くの台湾人が『統一ではなく現状維持を望む』と考えるのは、排外主義的な反中でも嫌中でもなく、きわめて当たり前の政治感覚だと思う」というのは当然なことです。しかし仮に、協定反対運動の学生たちが、「統一」をめぐるこの「当たり前な政治感覚」を、それとは本来直接の関係がない「サービス貿易協定」と意図的にリンクさせ、その「政治感覚」を協定反対運動に動員しているとすれば、それこそ排外主義的な反中プロパガンダだと言わねばならなくなります。この件について、下地さんに明確な説明をお願いします。

結論として、下地さんは次のように主張しています。

台湾でも嫌韓・嫌中の傾向は強まっていると聞くけれども、そのことを引き合いに中国の体制の問題をないかのように扱うことは、中韓における反日感情を理由に日本政府・日本社会の問題から目を反らすのと同じような過ちだと思う。中台問題についても、普遍主義の観点から考えるならば、中国政府の帝国主義的性質から目を反らすわけにはいかないはずだ。

そもそも、台湾の「サービス貿易協定」反対運動の問題と、「中国の体制」の問題とは、本来直接に関係しないものでしょう。台湾の「サービス貿易協定」反対運動の問題点を指摘している私に対して、「中国の体制の問題」「中国政府の帝国主義的性質」を批判していない(?)ことを非難するのは、全くおかしな話です。日本右翼の従軍慰安婦に関する言説を批判する人に対して、ベトナム戦争での韓国軍の残虐行為をめぐる韓国内の言説のあり方を問題にしないからといって非難する人びとの態度と、何が違うのでしょうか?

最後に、下地さんは「追記」として、次のように述べています。

台湾資本が大陸でやっている非道な行為については、もちろん責任はあるだろうが、今回のサービス貿易協定や学生運動につなげて論じるのは無理がある。 第一に、第一義的には、これは資本の国籍の問題ではなく、資本の問題だということ。第二に、たとえば、日本資本が開発独裁政権を政治的に支えて環境破壊などをお目こぼしさせたりすることなどに比すると、台湾資本には中国政府に対してそこまでの支配力は発揮しえない。責任があるとしても、One of themに過ぎないと思う。これに反発する責任は、台湾の学生たちにあるのだとしたら、同じくらいには、私たちも日本資本に対する責任を通じて責任を負っているのであって、今回の件で引き合いに出すのは違うと思う。

「サービス貿易協定」反対運動の問題点を指摘する私に、「中国の体制の問題をないかのように扱うこと」(?)は「過ち」だとまで述べたのは下地さんです。そのご自身が、中国資本の台湾への侵入の脅威を叫ぶ学生については、「台湾資本が大陸でやっている非道な行為」について「つなげて論じるのは無理がある」という。

もちろん、台湾の学生は、台湾資本の行為に対して直接の責任はないでしょう。しかしこの問題について私は〈論B〉で、台湾資本が中国大陸で展開する工場で中国労働者に苦汗労働を強いている事実、そしてそのような「血汗工場」の実態が中国の民衆から批判を浴びている事実を、台湾企業「富士康」(Foxconn)を例に説明したうえで、次のように述べました。「もし中国資本の脅威を口々に訴えている台湾の学生たちが、大陸中国に進出した台湾資本の工場における苦汗労働の問題には口を閉ざすのであれば、それはエゴイスティックな「嫌中」運動と言われても仕方がない。少なくとも、大陸中国10億の民衆は、そのような運動に何の共感も覚えないだろう」と。中国の民衆がこのように考えることも、下地さんは「無理がある」と言うのでしょうか?

さらに先の引用で、下地さんは【第一義的には、これは資本の国籍の問題ではなく、資本の問題だ】として、台湾の学生には責任がないという。もちろん「直接の責任」はないでしょう。しかし私が〈論B〉で述べているのは、次のような問題意識があるからです。「グローバル資本主義に抵抗するためには、世界の民衆が連帯せねばならない。排外的ナショナリズムはそうした連帯を不可能にし、結局運動を敗北へと導くことになる」。グローバル資本主義に対する、台湾と中国の民衆同士の連帯を私は願っています。そうした連帯こそ、台湾の民衆が望まないやり方による中国の強権的「統一」に対する、真の防波堤になるのではないでしょうか。

例えば、フィリピン・トヨタにおける不当解雇事件に対して、日本の労働者はフィリピンの労働者と連帯し、日本のトヨタ本社に対する抗議を長年行っています。
フィリピントヨタ労組を支援する会
グローバル資本主義に抵抗するためには民衆のグローバルな連帯が、とりわけ多国籍資本の本国の労働者と、投資先国の労働者との連帯が不可欠だと、私は考えます。この点、台湾の学生たちも自覚してほしいところです。

なお繰り返すように私は、台湾の「サービス貿易協定」反対運動の本質を、「反中」「嫌中」運動と断定しているわけではありません。「もし中国資本の脅威を口々に訴えている台湾の学生たちが、大陸中国に進出した台湾資本の工場における苦汗労働の問題には口を閉ざすのであれば、それはエゴイスティックな「嫌中」運動と言われても仕方がない」と、私は仮定形で指摘しています。彼らが台湾資本の中国工場における苦汗労働の問題に目を開くことを通じて、中国の民衆と連帯してグローバル資本主義と対抗する道を切り開いてゆくことを私は願い、またその可能性を信じています。

後記


台湾の「サービス貿易協定」反対運動をめぐる、下地真樹さんからの批判に対する応答(1) [東アジア・現代]

台湾のサービス貿易協定反対運動をめぐる私の文章に対して、下地真樹さんからFB上で批判をいただきました。大事な論点を含んでいると考え、以下、応答させていただきます。非常に長文に渡るので、議論に興味のない方はスルーしていただければと思います。

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私の元文章は
台湾の「サービス貿易協定」反対運動
続・台湾の「サービス貿易協定」反対運動
以下では、上の文章を〈論A〉、下の文章を〈論B〉と略します。

下地さんの批判文は
https://www.facebook.com/mon.mojimoji/posts/545541075559331
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まず、下地さんは次のように述べています。
紹介されている二つの論考を読んでみた。わかるところはもちろんある、という反面、結論にはほとんど同意できない。というか、結論以上に、論の全体が醸し出している雰囲気が受け入れられない、といった方が正確かもしれない。

「論の全体が醸し出している雰囲気」云々はさておき、下地さんは私の二つの論考の「結論にはほとんど同意できない」ということなので、まず、二つの論考の「結論」を下に書き出してみます。

〈論A〉の結論:〔丸腰・非暴力の学生に対する馬政権の暴力的対応については強く抗議する。ただし、中・台のサービス貿易協定自体をめぐる問題について、早急な決めつけは避けたい。ましてや、日本人が自分の(潜在的な)「反中」意識を台湾の大衆運動に投影している有様には、違和感を禁じ得ない。グローバル資本主義への抵抗運動は、生存権=人権を根拠としなければならない。そこに排外主義を交えることは、結局運動の自殺行為となるだろう。中国大陸10億の民衆といかに連帯するかが問われている。

〈論B〉の結論:〔グローバル資本主義に抵抗するためには、世界の民衆が連帯せねばならない。排外的ナショナリズムはそうした連帯を不可能にし、結局運動を敗北へと導くことになる。日本にも、「実習生」「研修生」といった名目で中国人労働者をこき使う苦汗工場がある。中国に進出した日本企業の労働問題もしばしば起きている。このような、グローバル資本主義がもたらすさまざまな問題についての認識を、各国の民衆が国境を越えて共有し合うことから始めなければならないと思う。

下地さんは、これらの「結論」に「ほとんど同意できない」とあります。しかし実は、下地さんは批判文全体の中で、これらの「結論」のどの部分に対して、どのような理由で「同意できない」のか、具体的に書かれていません。少なくとも私の頭では理解できませんでした。

すると、下地さんはこれらの「結論」に対して何か言い分があるというより、むしろご自身の言われるように「論の全体が醸し出している雰囲気が受け入れられない」ことが、私への批判文を書いた最も重要な点なのだろうと、考えざるを得ません。

では下地さんの言う、私の二つの論考の「全体が醸し出している雰囲気」とは一体何でしょうか。あらかじめ結論を言うと、下地さんの批判文全体から察するに、それは私が「中国政府」の「反人権的」・「帝国主義的性質」を批判せずに台湾の運動の問題点ばかりを指摘している(ようにみえる)、ということなのだろうと思われます。この点について詳しくは後述します。

さて、下地さんは、私の文章に対する批判の前置きとして、ご自身の議論の「大前提」を次のように述べています。

現在の体制としての中国政府は、決してほめられたものではない。私は日本政府も、近代日本の帝国主義も、戦後の新植民地主義的経済侵略も歴史修正主義も、全部ごめんこうむるけれども、現在の中国政府も同じくらい勘弁してくれと思っている。死刑件数の多さもそうだし、中国外交の膨張主義的な方向性、威圧的な傾向等、相当に問題があると思う。これは日本政府との比較において話しているのでは「ない」。そういうことを比較してどちらが「マシ」という発想を、こういう問題については僕はしない。「ジャイアンとスネ夫、どっちが優しい?」みたいな問いに、ほとんど意味などないと思う。

なぜ私の文章に対する批判の大前提として、現在の「中国政府」の「体制」の問題が突然出てくるのか、疑問です。が、もちろん下地さんの指摘する個々の問題は、一般論としては承認できるものです。

下地さんはご自身の議論の「大前提」についての説明を、さらに次のように進めています。

台湾において、中国との統一問題は、それを歓迎する向きであれその逆であれ、具体的現実的にイメージされざるをえない問題である。これは日本に暮らす私たちの状況とは決定的に違う。いわば、社会の構成員全部が尖閣に住んでるような状況だ(……これはまぁ、誇張はあるが。ま、いいか)。もちろん、人々は日々の生活を平穏に営んでいるけれども、台湾=中華民国政府が国際社会からかなりの程度排除されていて、多くの国際機関に参加できていないことも周知の事実だ。

中国は、これもまた周知のように、台湾との「統一」を目指している。そのこと自体は、とりあえずはいい。しかし、問題は、中国政府による統一へ向けた動き・外交は、台湾を対等なパートナーとみなして、対等なパートナーとして話し合える条件を整えた上でなされているのではまったくないということだ。既に述べたように、台湾=中華民国は多くの国際機関から排除されている。当然、中国政府の意向である。台湾が、多額の援助金と引き換えに辺境の小国と国交を開いたかと思えば、中国からのさらなる援助によって再度国交断絶されたりする。台湾の存在に対する国際的認知度は、そのイタチごっこの中で右に左にいつも揺れている。

これは、現在の主権国家システムと国際法の枠組みの中では、まったく合法かつ正当な活動である。しかし、これは本質的にパワーゲームであって、このような仕組みの中で国際的な地位を左右される台湾社会にとって、どれほど暴力的な状況かは強調してもしすぎることはない。それが現状の仕組みの中で妥当な方法であるかどうかは、その暴力性が問題かどうかとは別の話だ。各国政府の公式見解がこうした枠組みに従うとしても、私たちの個々人が責任を持つべき認識において当然に是とすべきことかどうかは別の話だ。

ここでの下地さんの趣旨をまとめると、大陸中国政府の台湾をめぐる外交政策は、現在の国家システムの枠組みにおいては「合法かつ正当な活動」だが、台湾社会にとって「暴力性」をもっている、ということでしょう。これも一般論としては否定できないことでしょう。なお私も〈論A〉の中で、「台湾の将来を台湾の民衆自身が決めるべきなのは当然だ。大陸中国の政権が武力侵攻の選択肢を否定していない以上、台湾の人びとがそれを不安に感じるのも当然だろう。」と書いています。

下地さんの議論の「大前提」の説明はさらに次のように続きます。

私は、日本政府の問題を棚に上げて中国たたきに勤しむバカどもが心底から嫌いだけれども、中国政府の帝国主義性について消極的になる日本の左派ないしリベラル(ないしその他呼び方は何でもいいけれども、そういう一群の人たち)については疑問を禁じ得ない。

ここで唐突に、「中国政府の帝国主義性について消極的になる日本の左派ないしリベラル」に対する批判が飛び出しています。文脈からして私も入れられているのでしょうが(そのことは後の論述から明白)、こうした乱暴な決めつけがなぜ問題であるかは、下地さんが続けて書いている文章と合わせて読めば、はっきりします。

私は(以前から私のことを知っている人は知っていることだけれども)、中国韓国日本その他の歴史性はあり、その人それぞれのルーツや立場性はあり、そうしたことを考慮に入れて物は考えるべきだと思うけれど、たとえば「韓国のナショナリズム」は「日本のナショナリズムと同列にではなくとも」批判されるべきだと思うし、「今すぐ」するべきだと思う。「日本人だって」するべきだと思う。「後回し」にするような話じゃない。

外国の「ナショナリズム」に対する批判は、「今すぐ」するべきで、「後回し」にすべきではない、という下地さんの主張。わかるようでわからない物言いですが、それは、「今すぐ」「後回し」という言葉の意味が曖昧で、融通無碍に使うことができるからです。

例えば、安倍首相の靖国参拝について批判する人は、「中国政府の帝国主義性」についても「今すぐ」批判しなければならないのでしょうか?「今すぐ」批判しない人は、「中国政府の帝国主義性について消極的」だ、というレッテルが貼られてしまうのでしょうか?同様に、日本右翼の従軍慰安婦に関する言説を批判する人は、ベトナム戦争での韓国軍の残虐行為をめぐる韓国内の言説のあり方の問題についても「後回し」にすべきではない、ということでしょうか?

確かに下地さんは、「日本のナショナリズムと同列にではなくとも」という留保をつけている。しかしこの留保の表現も曖昧で、どのようにでも使える便利な言葉のようです。

そして後で見るように、下地さんは私が「中国政府の帝国主義性」を「今すぐ」批判しない(ように見える)ことを非難するのです。すると当然ながら論理上、ご自身が「台湾ナショナリズム」を「今すぐ」批判しないことに対しても非難が返ってくるはずですが、しかしどういうわけかご自身はそのことについて頬かむりしているようです。それも、この「今すぐ」「後回し」という言葉の曖昧さによって、巧みにそうした非難を逃れることができるからでしょう。

こうした下地さんの論法の危険性は二つあります。一つは、日本の過去の侵略行為の犯罪性を薄めようとする人々が重宝する論法だということ。もう一つは、「どっちのナショナリズムも悪い」式の水掛け論となりがちで、批判の切れ味が鈍ることです。

下地さんとは違い、私は次のように考えています。いまの国家制度のもとで政治的権利(とくに国政の)を行使できる「国民」は、それ以外の人よりも、自国政府の過去・現在の政策がもたらす悪業に対してより大きな責任を負わねばならない、と。

外国(中国)に暮らしている私は、この問題により敏感です。中国公民(国民のこと)でない私は、中国政府に対する権利や責任の度合いも、中国公民とはおのずから異なり、中国の政治に参加する権利は全くありません。したがって、中国の政治問題や社会問題について論評・批判する姿勢は、中国公民の人たちと異ならざるをえません。

私が東アジアの問題にかんして日本国家の政策に由来する悪業を特に強く批判するのは、「日本国民」として重い責任を負っているからです。例えば、日本に暮らしている中国人労働者の人権侵害に対して、さまざまな制約によって声を出せない当事者に代わって強く批判する責任が、「日本国民」にはあると思います。「どっちのナショナリズムも悪い」式の水掛け論を脱する道は、それぞれのネーションに属する人がこうした自分の責任を自覚することにある、と私は考えています(なおネーションの「はざま」にある人びとについては、今は措きます)。

そして実際、多くの人びとが日本国民としての深い責任の自覚からさまざまな行動を起こしてきました。日本国家の過去の侵略戦争が中国などアジア各地にもたらした惨禍の責任を、厳しく追及する日本市民も少なくありません。例えばそうした市民に対して、「中国政府の帝国主義性について消極的になる日本の左派ないしリベラル」などと非難することは、いったい何の意味があるのでしょうか?もちろん下地さんはこんな非難はしない方だと、私は信じておりますが。

下地さんがご自身の議論の「大前提」として述べていることについての私の意見は、以上のとおりです。次に稿を改めて、私の二つの論考に対する下地さんの批判の趣旨を、逐一検討してゆきます。
(続く)


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