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1945年5月、中国・延安での野坂参三演説のパンフレット [東アジア・近代史]

先日、山東省威海の古本屋から一冊のひどく黄ばんだパンフレットを発見し、購入しました。

日中戦争末期の1945年4月から6月にかけて、中国共産党第七回全国代表大会が延安で開催されました。毛沢東、朱徳、劉少奇、周恩来ら錚々たる指導者が居並ぶ中、一人の日本人がこの会議に参加し、演説を行いました。岡野進こと野坂参三(1892~1993)、のちの日本共産党議長です。私が手に入れたのは、このとき野坂がおこなった「建設民主的日本(民主的日本の建設)」と題する演説を記録した、当時の小冊子です。この演説の内容自体は、戦後『野坂参三選集』にも再収録され、天皇制に関する柔軟な方針を提出したことで知られています。が、45年当時のパンフレットということで、歴史マニアの血が騒ぎ、すぐさま買ってしまいました。
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1940年2月、野坂は周恩来を同行者としてモスクワを出発、カザフスタン、新疆を経由して、3月に延安に入りました。野坂らは同年夏、中国共産党の後援を得て延安に「日本労農学校」を創設、日本軍捕虜らの反戦教育に従事しました。延安には「日本人反戦同盟」も組織され、1944年「日本人民解放連盟」へと発展し、日本の敗戦の日が近づくのを見据えて、在中国さらには内地の日本人に向けて、日本の民主化を目指して働きかけてゆくことが目指されました。

さて、敗戦間近の1945年5月、延安で野坂がおこなった「建設民主的日本」と題する演説は、敗戦後における日本の民主化の見通しと、それを実現するための政策を述べたものです。そこでは、以前共産主義者と対立関係にあった「合法的左翼」の日本無産党や、社会大衆党の中の反軍的な人々、さらには尾崎行雄ら自由主義者とも緊密に提携し、各種の民主的勢力を結集することを通じて、平和と民主主義を敗戦後の日本に建設することが目指されています。

民主主義を建設するための政策としては、軍部の特権を剥奪し、皇室・重臣・枢密院・貴族院、等々の制度を廃止あるいは無力化すること、言論・著作・出版・集会・結社および信教の自由などを完全に実現すること、十八歳以上の男女の普通選挙で選出された議会および議会で選出された政府に政治権力を担わせること、などが主張されています。さらに、軍部指導者などの戦犯や、軍と積極的に協力した反動政治家、さらに特高警察・思想検事などを、厳重に処罰すべきだと述べられています。

なお天皇制については、天皇の特権および専制的政治機構は廃止するが、日本人の中に天皇崇拝が根強いことにかんがみ、「天皇の存廃問題に対しては、戦後に一般人民投票により決定することを、われわれは主張する。投票の結果、たとえ天皇が存続するとしても、この時の天皇は専制権力を持たない天皇でなければならない」と述べています。なお、当初の野坂の演説草案では「一般人民投票により決定する(由一般人民的投票来決定)」の前に「できる限り速やかに(尽速)」の二字があったのが、毛沢東の意見でこの二字が削除されました。「この投票の問題については、その時期が早いほうが有利か遅いほうが有利か、情況を見たうえで決定すべきだ。私の予想では、日本人民が天皇を不要とするのは、恐らく短期に到達できることではない」というのが毛沢東の考えでした(1945年5月28日付毛沢東の書簡)。

野坂の最晩年の1990年代はじめ、ソ連共産党関係の文書が公開・調査されるにおよび、スターリン大粛清時代の1939年に野坂の長年の同志だった山本懸蔵がスパイ容疑で銃殺された事件に、野坂が関与していたことが発覚し、また戦後もソ連との秘かな連絡があったとして、日本共産党は1992年、百歳の野坂を名誉議長から解任、さらに除名処分としました。それについて部外者の私は何も言う必要がありませんが、そうした毀誉褒貶とは別のレベルで、野坂の思想と行動は確かに歴史的検討に値すると考えています。

なお1945年延安での野坂の演説は、次の言葉で結ばれています。「これらの民族〔中国、日本、朝鮮および南洋各国〕の解放事業と将来の発展の上で、偉大な中華民族と産業の発達した日本民族との協力が、非常に大きな力となるであろう。中国人民が、平和的で民主的な日本との協力を拒絶することは決してあり得ない。日本ファシスト軍部を打倒せよ!中日人民の団結万歳!」。

長春だより

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