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満洲国の爪痕(3)満洲国総合法衙――無数の「合法的」殺戮の記憶 [満洲国]

家族連れやカップルたちの遊覧ボートでにぎわう南湖公園の休日。湖の対岸にある森の向こうに、ひときわ目立つ異様な雰囲気の建物が見えます。1936年に建てられた「満洲国総合法衙」です。
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地上四階(中央部六階)・地下一階、建築面積1万5千平方メートルの巨大な建物の中には、満洲国最高検察庁・同最高法院(最高裁判所)・新京高等検察庁・同高等法院など、満洲国の主要な司法権力機関が置かれていました。これらの機関は、満洲国の治安体制の一環としても重要な役割を担っていました。

日本の軍事力によって強引に造られた満洲国の特徴の一つは、その極端な暴力性にあります。日本の過酷な支配に抵抗する現地民衆に対しては、徹底的な弾圧が加えられました。そうした暴力的弾圧(すなわち殺害)を正当化する根拠法となったのが、1932年に制定された「暫行懲治叛徒法」と「暫行懲治盗匪法」という二つの法律です。とりわけ後者は、現場での緊急措置として即決処分を認めており、抗日運動に参加した人々を「匪賊」とみなして「討伐」するために大きな威力を発揮しました。1932年から40年までに「合法的」に「討伐」(殺戮)された「匪賊」の死者数は、公式の数字でも六万五千人以上に及びます(荻野富士夫「「満洲国」の治安法」『治安維持法関係資料集』第4巻)。

上の二つの暫定的な立法に代わる恒久的な治安法として1940年12月、満洲国政府は「治安維持法」を公布・施行しました。この治安維持法の立法に関わり、新京高等法院の審判長として数々の思想治安事件を裁いた飯守重任(1906~1980年)は、次のような手記の一節を残しています。

「この法律を立法することに依って、ぼくはいわゆる熱河粛清工作に於いてのみでも、中国人民解放軍に協力した愛国人民を一千七百名も死刑に処し、約二千六百名の愛国人民を無期懲役その他の重刑に処している。ぼくの立法した「治安維持法」の条文は愛国中国人民の鮮血にまみれている。」(荻野、前掲論文より引用)

このように満洲国においては、無数の中国民衆が「合法的」に殺されていったのです。こうした「合法的」殺戮の血にまみれた「満洲国総合法衙」は、日本の敗戦後に中国国民党政府に接収され、さらに国共内戦を経て人民解放軍に接収されて、中国人民解放軍空軍病院(通称四六一医院)の建物として現在もそのまま使われています。
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〔上の写真は「満洲国総合法衙」(現・中国人民解放軍空軍病院)正面玄関。下は総合法衙の建物を描いた「満洲国」時代当時の絵葉書〕
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長春だより

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