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SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)についての雑感 [日本・現代社会]

安倍政権が安保法案をめぐり衆院憲法審査会で墓穴を掘って以来、法案の違憲性について多くのメディアが盛んに報じるようになった。それを追い風に、安保法案の阻止を目指す市民運動が活発になっている。そこでにわかに脚光を浴びて運動の中心に躍り出たのが、SEALDs(シールズ―自由と民主主義のための学生緊急行動)だ。

このたび機会あってSEALDsのホームページを熟読してみたが、その主張にはいくつか疑問を感じるところがあった。私とてわざわざ海外から、せっかく盛り上がってきた運動に冷や水を浴びせるつもりはない。しかし日本社会の民主主義と東アジアの平和について考えるうえで重要な問題だと考え、以下にあえて疑問点を記しておきたい。

SEALDsの主張は「CONSTITUTIONALISM(立憲主義)」・「SOCIAL SECURITY(社会保障)」・「NATIONAL SECURITY(安全保障)」の三点から成る。なかでも最も問題だと考えるのは、「安全保障」についての彼らの考え方だ。

SEALDsは外交・安全保障政策について次のように主張している。

---------------(引用はじめ)
私たちは、対話と協調に基づく平和的な外交・安全保障政策を求めます。現在、日本と近隣諸国との領土問題・歴史認識問題が深刻化しています。平和憲法を持ち、唯一の被爆国でもある日本は、その平和の理念を現実的なヴィジョンとともに発信し、北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮するべきです。
----------------(引用おわり)

ここでは、北東アジアの平和を脅かすものとして「領土問題」と「歴史認識問題」の二つが指摘されている。前者の領土問題についてSEALDsがどのような主張をもっているか、HPからはうかがい知ることができない。後者の歴史認識問題をめぐっては、あっさりと「歴史認識については、当事国と相互の認識を共有することが必要です」と述べたうえで、次のように続けている。

-----------------(引用はじめ)
先の大戦による多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した日本には、世界、特に東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャルがあります。
-----------------(引用おわり)

ここには図らずも、彼らの歴史認識が吐露されている。日本国は「多大な犠牲と侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した」というのである。確かに1995年の村山談話は、「国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」た歴史について「痛切な反省の意を表し」、「わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません」と述べている。

だが、そうした「犠牲と侵略」に対する日本国の「反省」は、どれほど実効性をもつものだっただろうか。例えば慰安婦問題について、日本政府は公式の謝罪を回避して、総理個人の「気持ち」を示した「おわびの手紙」と民間の寄付による「償い金」でお茶を濁そうとしたが、こうした姑息策は元慰安婦の方々の人権の回復を妨げる結果をもたらしている(本ブログ記事「『朝日』の慰安婦関連記事について」を参照)。日本国が過去の侵略責任を真摯に清算しない限り、「当事国と相互の認識を共有すること」などできるはずがなく、東アジアに真の平和的秩序が打ち建てられることは決してないだろう。

そうした狡猾な日本国の「平和主義」を心底から信じるようなお人好しの国など、世界中どこにも存在しない。日本国が「侵略の反省を経て平和主義/自由民主主義を確立した」などという、日本国内でしか通用しない内向きの幻想の上に立って、「東アジアの軍縮・民主化の流れをリードしていく、強い責任とポテンシャル」が日本国にはある、などと平然と語る日本人の(おそらく無意識の)傲慢な独善性に、アジアの多くの人びとは当然反発し、身構えることは間違いない。現状において、日本が「北東アジアの協調的安全保障体制の構築へ向けてイニシアティブを発揮する」可能性などゼロであることに、そろそろ気が付いてもよいはずなのだが。

そしてHPの冒頭には、SEALDsの根本的な立場が次のように述べられている。

-----------------(引用はじめ)
SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)は、自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し、そして行動します。  私たちは、戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統を尊重します。そして、その基盤である日本国憲法のもつ価値を守りたいと考えています。この国の平和憲法の理念は、いまだ達成されていない未完のプロジェクトです。
-----------------(引用おわり)

ここで高々と掲げられている「戦後70年でつくりあげられてきた、この国の自由と民主主義の伝統」とは、いったい何だろうか?戦後いや戦中から一貫して、「安全保障」の名目で沖縄に多大な犠牲を強い続けて恥じない日本国と、それを黙認し続けてきた国民のどこに、「尊重」すべき「自由と民主主義の伝統」があるのだろうか?「守る」べき「自由で民主的な日本」など、かつて存在したことがあるのだろうか?

そもそも日本国の民主主義の危機は、安倍政権になって突然生じたわけではない。「いまだ達成されていない未完のプロジェクト」たる「平和憲法の理念」を実現する道は、戦後の日本国の民主主義なるものの欺瞞を撃つことから始めなければならないだろう。昨年来高まってきた自己決定権の回復を求める沖縄の叫びは、そのことを私たちにはっきりと認識させたのではなかったか。

私たちは、日本の自由民主主義の伝統を守るために、従来の政治的枠組みを越えたリベラル勢力の結集を求めます」とSEALDsのHPは謳っている。確かにさまざまな平和勢力が結集して安倍政権を圧倒することは、この社会の民主主義を前進させるうえで喫緊の課題だろう。だが、「日本の自由民主主義の伝統」なるものがアジアや沖縄からの問いかけを無視するものであるならば、それを「守る」ことが平和勢力の結集軸になるとは、私にはとうてい考えられない。

以上、あえて厳しく書いてみた。中国に住んでいる私の、日本の最近の運動に対する誤解もあるかもしれないが、一つの問題提起として必ずしも無意味ではないと信じる。

もちろん、戦争はイヤだというSEALDsの若者たちの声が真摯なものであること自体を疑っているわけではない。戦争になれば真っ先に駆り出されるのは彼らだからだ。とはいえ、現在東アジアに垂れこめる暗雲は、安倍極右政権が転びさえすれば吹き飛ばされるような薄っぺらなものではなくて、近代アジア150年の歴史的因縁と深く重く結びついたものであることを、忘れるべきではないと思う。そのためにも日本の若者たちは、島国的・独善的な閉鎖性に陥ることなく、アジア各地の若者たちとこの問題を積極的に討論してみてはどうだろうか。

長春だより

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