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沖縄と満洲――被害と加害のはざまで [沖縄・琉球]

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沖縄女性史を考える会編『沖縄と「満洲」――「満洲一般開拓団」の記録』(明石書店、2013年)。少し前、勤務先の学校の図書館から、日本語の本で何かいいものはないかといわれて、推薦したうちの一つがこの本だ。

1936年、満洲国新京(現・長春市)の関東軍司令部は、二十年間に日本から百万戸・五百万人を満洲へ農業移民として送り出す計画を立て、満洲国政府・日本政府に承認させた。この国策に基づき38年、沖縄県は三万戸・十五万人の県民を満洲に移住させて「沖縄分村」を建てる構想を立案し、40年に「満洲開拓農民先遣隊」として68名が黒竜江省に入植。以後多くの沖縄の農民男女が「開拓団」として海を渡った。

開拓農民に与えられた土地の多くは、無人の荒野を開墾したものではない。もともとそこで暮らしていた漢族・満州族・朝鮮族などの地元農民を、「匪情悪化」を口実に有無を言わさず暴力で強制移住させ、その農地を「無人地帯」として満洲開拓公社が安く買いたたき、そこに日本の開拓民を移住させたのだ。それは、日本軍の暴力を背景とする帝国主義侵略政策以外の何ものでもない。

1920年代半ばから30年代にかけて、沖縄は不況のどん底にあえいでいた。琉球処分後に日本資本主義に強制的に組み込まれ、サトウキビという単一商品作物の生産を国策として割り当てられていた沖縄。その植民地的な経済構造はきわめて脆弱で、昭和恐慌そして世界恐慌という荒波の前にひとたまりもなかった。

当時の農民の主要な食物だった甘藷すら不作に陥った年には、山野に自生するソテツを毒抜きして食べて飢えを凌ぐ惨状が、各地にみられた(ソテツ地獄)。食べるために沖縄から多くの人びとが海を渡り、日本本土そして海外へと移住していった。1940年、沖縄県民の海外在留率が9.97%と、他府県に比べて圧倒的に高い比率を示すのはそのためだ。

こうした状況で、満洲移民という国策に沖縄県が積極的に応じたのは必然だった。県の募集に応じた沖縄の農民たちは続々と満洲に渡った。彼らは一面、日本帝国の植民地的な沖縄政策の犠牲者であった。しかし他面では、沖縄の人びともまた大日本帝国臣民として、満洲侵略の尖兵としての役割を結果的に担ったことは否めない。とりわけ、土地を奪われた中国東北農民から見れば、日本本土農民も沖縄農民も、侵略者の手先である「日本鬼子」として何の変わりもない。

1945年8月の日本敗戦・満洲国崩壊後、沖縄の女性や子どもたちも多くが置き去りにされ、ソ連軍侵攻の混乱の中で命を落とした人や、酷寒の中国東北の地に残留孤児・残留婦人として取り残された人が少なくない。なお、サイパン島など南洋群島に移住した沖縄人たちも、多くが戦火に巻き込まれて悲惨な最期をとげたことは周知のとおりだ。沖縄戦に巻き込まれた県民とおなじように、海外に移住した同胞たちの多くもきびしい運命に直面せざるを得なかった。

私の父方の祖父母はともにヤンバル出身の生粋の沖縄人だった。ソテツ地獄下の沖縄を去ってヤマトに渡った祖父はやがて日本帝国の官吏となり、天皇の勅任官として台湾の某地方に派遣され、植民地統治の一端を担った。その間私の父も台湾で生まれている。アジア・太平洋戦争の末期、米軍が台湾に上陸していたら、私はこの世に存在しなかった可能性が高い。しかし米軍は台湾をスルーして沖縄に上陸したため、父の一家は生き延びることができたのだ。

その結果、私もこうしてこの世に存在している。沖縄人でありながら、日本帝国の植民地官僚として、沖縄戦を経験せずに無傷で生き延びた者の子孫である私が、沖縄そしてアジアに対しどのように向かい合えばいいのか、今も悩みは深い。

その私が、かつて満洲国の首都新京と呼ばれ、日本帝国の植民地経営の中心地だった長春にやって来て、はや四年目。七十数年前、沖縄の多くの貧しい農民たちがこの都市を通過し、はかない希望を抱きつつ、現実には大陸侵略の尖兵として、酷寒の満洲各地に散っていった。零下20度を下回る夜、そのことをこの地で想うとき、いたたまれない気分になる。日本帝国主義の犠牲者でもあり侵略者でもあった沖縄の人びとが、満洲の地にどのような経緯で移住し、いかに悲劇的な逃避行で去って行ったのか、中国東北の人びととともに考えたい。

長春だより

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