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「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者について [日本・近代史]

本ブログ5月1日の投稿で、日本で最初に労働組合の結成の必要を説いた文章の一つとして、明治時代の総合雑誌『国民之友』の95号(1890年9月23日)の社説欄に掲載された無署名の論説「労働者の声」について触れた。この論説について、最近二村一夫氏が、その筆者を高野房太郎とする説を唱えている(二村一夫『労働は神聖なり、結合は勢力なり―高野房太郎とその時代』〔岩波書店、2008年〕98~102頁。なお、ほぼ同じ趣旨の文章が、WEB版『二村一夫著作集』第6巻の「高野房太郎とその時代(38)」にある)。

だが私は、この二村氏の説は誤りで、「労働者の声」の筆者は竹越与三郎(三叉)である蓋然性が高いと考える。その根拠については、拙著『日本社会民主主義の形成―片山潜とその時代』(日本評論社、2013年)の「第4章 日本における「社会問題」論の形成」の注(73) で詳論したが、注の中で述べたこともあって人の目に触れることが少ないと思われるので、このブログの記事として以下に転載しておきたい(なお転載にあたり、文章を若干手直ししてある)。

二村氏は前掲書(およびWEB版の前掲論文)において、「労働者の声」の筆者は高野房太郎であると主張する根拠として、以下の諸点を挙げている。①労働組合と協同組合の結成が日本の労働者の地位を向上させる鍵であるという「労働者の声」の論旨が、高野の「日本に於ける労働問題」『読売新聞』1891年8月7~10日(高野房太郎著、大島清・二村一夫編訳『明治日本労働通信』〔岩波書店、1997年〕所収、277~288頁)と「完全に一致」している。②「労働者の声」が、その呼びかけを労働者に向かってではなく知識人に向けて訴えている点で、高野の姿勢と「完全に一致」している。③「吾人」「労役者」「友愛協会」「不幸に遭遇」という用語が共通している。④「労働者の声」の筆者は、労働組合や協同組合に対する深い知識と、日本の労働者の組織化に対する強い熱意とをもっていると考えられるが、同じ主張をその後も展開し続けた人物は高野のほかに見当たらない。

だがこれらの諸点は、いずれも論拠として不十分である。まず①について、「労働者の声」は、「同業組合」(労働組合)の機能として、疾病・火災など不慮の事態に備える共済的機能と、雇主の圧制に抵抗するためのストライキ機能とを挙げているが、他方高野の「日本に於ける労働問題」は、「労役者の結合」(労働組合)の機能として、主に「自尊自重の念」「謹厚篤実の風」「貯蓄の念」などを労働者に植え付ける教育的機能を重視する一方、労働者の「同盟罷工」や「ボイコット」は「資本家の有力なる結合」の前に効力を失っていることを指摘している。また高野において、組合の共済的機能は、組合の目的として二次的な「方便」とされ、「労働者の声」における位置づけとは異なる。このように、両者の論旨は決して一致しているとはいえない。

次に②について、労働組合の結成を労働者自身に任せておくべきではない理由として、高野の「日本に於ける労働問題」は、日本の労働者における倫理性の欠如を強調するのに対し、「労働者の声」は、日本の労働者が世論を喚起する手段を持たないことを指摘するにとどまり、労働者の倫理性についての言及はない。

さらに③について、「労働者の声」と高野の文章の間には、用語の一致よりも不一致のほうが目立つ。例えば「労働者の声」が用いる「同業組合」という語は、同時期の高野の諸論稿には現れず、「労役者の会合」「労役者の結合」という言葉を高野は用いている。またストライキについて、「労働者の声」では「罷工同盟」の語が多用されているのに対し、高野は一貫して「同盟罷工」の語を用いている。

最後に④について、労働者の組織化に対する『国民之友』の熱意の冷却は、徳富蘇峰や竹越与三郎らのその後の思想的転向を考えれば不思議ではないことから、この点も「労働者の声」を高野の執筆と断定する論拠にはなり得ない。

そもそも「労働者の声」は『国民之友』の社説欄に掲載された論説であるが、民友社と何ら関係のない無名の青年高野が『国民之友』の社説の原稿を執筆したという、およそ異例に思われることを主張するのに、二村氏の挙げる論拠はいずれも説得力を欠くといわざるを得ない。

なお二村氏は、「私が知る限り、これまでこの論文の筆者を探索した人はいません」と書いているが(二村、前掲書、98頁。同じ趣旨は「高野房太郎とその時代(38)」にもある)、実際は家永三郎氏がこの論文の筆者について晩年の徳富蘇峰に直接尋ねており、竹越三叉(与三郎)か山路愛山であろうという回答を得ている(家永三郎「「労働者の声」の筆者」『日本歴史』〔55号、1952年12月〕40~41頁)。またこの問答を踏まえて、竹越が筆者である可能性の高いことが研究者からすでに指摘されている(佐々木敏二「民友社の社会主義・社会問題論」(同志社大学人文科学研究所編『民友社の研究』〔雄山閣、1977年〕所収、154頁))。

事実、竹越はすでに1880年代末から社会問題に対して高い関心を示している(前掲拙著、第4章第3節を参照)。そして、民友社と無関係な無名の一青年にすぎない高野と異なり、民友社の幹部である竹越が『国民之友』の社説を執筆するのはごく自然なことである。

以上述べた結論として、「労働者の声」の筆者が高野房太郎である可能性はきわめて低く、竹越与三郎がその筆者である蓋然性が高いと言わねばならない。


【追記(2018年5月14日)】

ここでの私の批判に対し、二村氏はWEB版『二村一夫著作集』の「高野房太郎とその時代」の追補として、「再論・「労働者の声」の筆者は誰か?─大田英昭氏に答える(1)─」と題する文章を2018年4月に公開し、反論を試みている。

この二村氏の反論に対し、私も本ブログの2018年5月13日の記事「二村一夫氏の反論に答えるーー「労働者の声」(『国民之友』95号、1890年9月23日)の筆者をめぐって」において、再反論したので、ご参照願いたい。

長春だより

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