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メーデー  その過去と現在、世界と日本 [日本・労働問題]

今日はメーデー。世界の労働者の祭典だ。世界各地で、実に多くの人びとがさまざまな趣向を凝らして街頭にくり出している様子は、ネットでも見ることができる。やはりこの日に国境を越えて同時に行うことに、メーデーの意義があることを強く感じる(日本の連合系メーデーが日をずらしているのは寂しい限り)。

中国ではメーデーを「五一国際労働節」という。習近平国家主席も昨日、視察先の新疆ウイグル自治区のウルムチで全国人民に向けてメーデーのあいさつを行い(その後ウルムチ南駅で爆発事件が発生)、新聞やテレビなどもメーデーのお祝いにあふれている(が、中国では民衆の集会や示威運動が厳しく制限されているため、これまた寂しい限り)。中国ではメーデーは三連休で旅行に出る人も多く、高速道路や鉄道は大混雑だ。

メーデーの起源は、アメリカで1886年5月1日に行われた8時間労働要求デモ(この直後にヘイマーケット弾圧事件が起きた)にある。国家権力の弾圧をはね返し労働者の権利を広げてゆくためには、労働者の国境を越えた連帯が不可欠であることから、1889年7月の第二インターナショナル創立大会で、毎年5月1日を国際的な闘争日とすることが決議された。翌1890年5月1日、第1回国際メーデーが開催され、欧米の各都市で多くの労働者が権利を求めてデモ行進を行った。

ちょうどその頃パリに滞在していた酒井雄三郎(中江兆民の弟子)は第1回メーデーにおける労働者の示威運動を取材し、欧米の労働運動や社会主義運動の現状や来歴について、日本の総合雑誌『国民之友』に詳しく書き送った(「五月一日の社会党運動会に就て」『国民之友』1890年7月23日)。日本でメーデーが知られるようになった端緒だ。こうした見聞を踏まえて酒井は、日本でも「トレードユニオン」(労働組合)をいずれ組織する必要があることを述べ、それを受けて『国民之友』社説も同様の主張をおこなった(「労働者の声」『国民之友』1890年9月23日)。それから7年後の1897年12月1日、金属・機械・造船業など重工業に従事する労働者1183名によって、日本最初の労働組合「鉄工組合」が結成される。

日本の第1回メーデーは1920年(ただし5月2日。翌年から5月1日)に開催されている。だが、日本で労働者が権利獲得を求めて最初に大規模な示威運動を行ったのは、その二十年前の1901年4月3日に開催された「労働者大懇親会」に遡る。この日、東京・向島の野外広場には、鉄工・活版工・人力車夫・魚河岸人足・木挽職・商店員など、さまざまな職種の労働者二万人以上が、職場・団体ごとに色とりどりの旗を押し立てて集結した。発起人の片山潜は満場の労働者を前に、労働法制・普通選挙権など労働者の権利を政府に要求する決議案を読み上げ、大拍手をもって採択された(拙著『日本社会民主主義の形成』日本評論社、2013年、第6章)。

それから百十数年、日本の労働者は長い苦難の運動を通じて、さまざまな権利をみずからの力で勝ち取ってきた。だがしばらく前から資本・経営側の反動攻勢が続き、安倍政権のもとで労働法制のさまざまな改悪が企まれている。先人たちの苦闘を無にしかねないような彼らの攻撃に対して、労働運動の側の足並みは乱れがちで、政権にへつらうような動きすらあるのは残念でならない。が、この〈冬の時代〉においても労働者の権利を守るために果敢に闘っている多くの人たちには敬意を表したい。

もちろん日本だけではない。アジア各国、欧米諸国でも、新自由主義グローバル経済のもとで資本側の攻勢が続く。国境を越えた労働運動の連携なしに、グローバル資本主義の攻勢をはね返すのは難しい。メーデーの原点に立ち戻って考えたい。

長春だより

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