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「大逆」事件という兇悪な国家殺人――1911年1月24・25日 [日本・近代史]

103年前の昨日(1月24日)、「大逆」事件の被告としてでっち上げられた幸徳秋水ら11名が、日本の国家権力によって惨殺されました(翌日には管野スガも殺害)。

この非道な国家犯罪の発端は1910年5月25日、長野県明科の機械工の宮下太吉が「爆発物取締罰則」違反の容疑で検挙されたことにありました。宮下宅からは多数のブリキ缶や火薬原料などが発見され、それらが明治天皇の暗殺を目的とする爆弾の材料として準備されたことが、宮下の自供によって明らかにされました。

宮下は民衆を覚醒させる手段として明治天皇殺害を思い立ち、菅野スガら三名と相談しながら、爆弾実験などを行っていました。しかしこの計画が具体化しないうちに、警察は宮下の爆弾製造を察知してこれを捕縛、きびしい取調べの末に天皇暗殺計画についての自白を得たため、爆弾事件は皇室危害罪(大逆罪)の適用される「大逆事件」へと展開してゆきます。

大逆罪を規定する刑法第73条は、天皇などに対して実際に危害を加える行為だけでなく、危害を加えようとする一切の企て、すなわち予備・陰謀・幇助などをも刑罰の対象とし、その全てについて死刑に処す、という恐るべきものでした。

20世紀はじめの日本において、天皇制国家の帝国主義戦争に正面から反対し、自由と人権の擁護を最も強く主張したのは、社会主義者たちでした。彼らは、日本政府が帝国主義政策を遂行してゆくうえで、最大の障害でした。そこで政府は、宮下らの爆弾事件を利用し、この機会をとらえて「大逆」罪を発動することによって、社会主義者たちを「合法的」に殺戮し絶滅することを企んだのです。

検察当局は、天皇暗殺計画の首謀者は著名な社会主義者の幸徳秋水であると決めつけ、6月1日に逮捕しました。さらに検察は、宮下ら四名による爆弾事件の本来の構図を恣意的に書き換えて、幸徳を中心とする社会主義者、とりわけ「無政府主義者」による全国的な「大逆」陰謀事件という筋書きを捏造しました。この架空の構図に沿って、本来の爆弾事件とは何の関係もない社会主義者が、全国各地で次々に検挙されたのです。最終的に「大逆事件」の共犯者として起訴された者は二十六名に及びました。

このでっちあげ事件の裁判は異例のスピードで展開され、1911年1月18日、大審院は幸徳秋水ら24名に死刑判決を下しました(翌日、うち12人が明治天皇の「仁慈」(?)によって無期懲役に減刑)。そして判決から一週間もたたない24日、市ヶ谷の東京監獄で幸徳ら11名の、25日に管野スガの死刑が執行されてしまったのです。

それから103年目の1月24日、国家権力によって12名が惨殺された現場である東京監獄の跡地を私は訪ねました。その一部は現在、新宿区の富久町児童公園となっています。かつて刑場があったとされる場所には1964年、日本弁護士連合会によって「刑死者慰霊塔」が建てられました。

監獄跡地の公園では、おしゃべりに夢中な母親たちのそばを小さな子どもたちが走り回り、かたわらのベンチではお年寄りが日向ぼっこしています。穏やかな冬の日、その片隅にひっそりと建つ慰霊塔には、心ある人によって新しい花が供えられていました。平和な世界の実現のために身命を賭しながら、それがあだとなり天皇制国家権力によって「大逆」の血祭にあげられた12名の犠牲者たち。103年前に行われたこの兇悪な国家殺人に対して怒りを新たにしつつ、彼らの志をいかに受け継ぐべきか、思いをめぐらした一日でした。

【写真は、東京監獄の刑場跡地に建つ「刑死者慰霊塔」(1月24日)】
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長春だより

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