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「満洲国」の爪痕(5)――長春・人民大街 [満洲国]

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写真の街路は、私の住んでいるアパートの面する「人民大街」です。かつて長春が「満洲国」の首都「新京」と呼ばれていた1938年、首都の中央を南北に貫く大動脈として、この道路は完成しました。当時の名は「大同大街」。
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【2013年5月撮影】

1931年満洲事変を起こして中国東北地方の奥深くまで侵略した日本の関東軍は、翌32年に「満洲国」を建国し、南満州鉄道(満鉄)の北方の拠点である長春を「新京」と改称して新国家の首都としました。満洲国を牛耳る関東軍や満鉄の日本人を中心に、新京を国都として整備する都市計画の立案が行われ、まもなく新市街の建設が始まりました。その際、満鉄の新京駅から真っ直ぐ南に延び新市街の中央を貫くメインストリートとして、幅員54メートル、全長10キロメートルに及ぶ「大同大街」が整備されたのです。
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【写真左、新京特別市・満洲事情案内所共編『新京概観』1936年(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Manchukuo_Hsinking_Map_1936.jpg )。写真右、現在の長春市街図(googleマップより)】

この街路の建設過程で、いくつもの村落が強制撤去され、村人は流離を強いられました。そうした過程を経て大同大街には、事実上の最高権力機関である関東軍司令部をはじめ、関東軍憲兵司令部、満洲国首都警察庁、満洲中央銀行、満洲国協和会中央本部など、支配権力を象徴する建物が立ち並んでゆきます。
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【1939年の大同大街(wikipediaより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Manchukuo_Hsinking_avenue.jpg )】

1945年満洲国の崩壊後、ソ連軍の占領下で新京は再び長春と改称され、大同大街も「斯大林(スターリン)大街」へと名を変えました。長春が中華民国国民政府の施政下に置かれた1946年、スターリン大街は「中正大街」(中正は蒋介石の正名)に改称され、共産党軍による包囲戦を経て長春が「解放」された48年、再び「スターリン大街」の名に戻されました。

それから50年近く経過した1996年、ソ連崩壊など時代の変化を踏まえて、長春市政府は「スターリン大街」を「人民大街」に改称して現在に至ります。

大同大街をはじめ、国都建設計画によって整備された新京の街路は、ほぼそのまま現在の長春の中心市街をなしています。関東軍司令部は中国共産党吉林省委員会として、憲兵司令部は吉林省人民政府として、首都警察庁は長春市公安局として、満洲中央銀行は中国人民銀行長春支店として再利用され、今も人民大街にその威容を誇っています。
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【人民大街沿いの中国共産党吉林省委員会(旧・関東軍司令部)】

タグ:満洲国 長春

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