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文化大革命の傷跡――元紅衛兵たちの「お詫び」 [中国・近現代史]

文化大革命が猛威を振るった1960年代後半、北京師範大附属女子中学(現・北京師範大学附属実験中学)で「紅衛兵」として活動した元生徒20数名と、当時の教員およびその遺族30数名が昨日(1月12日)面会し、元生徒たちは四十数年前に自分の先生に対して行った暴行致死事件について「お詫び」を述べました。
(『新京報』1月13日)http://epaper.bjnews.com.cn/html/2014-01/13/content_489922.htm?div=-1

事件のあらましは次のようなものです。1966年6月2日、北京師範大附女子中学に「命をかけて党中央を守れ、毛主席を守れ」という壁新聞が突然張り出され、同校の幹部や教員たちに対する攻撃が始まりました。翌日から学校は文革派によって占拠され、授業は停止、代わりに毛沢東の著作の学習が命じられます。学校の至る場所に教員たちを次々と告発する壁新聞が連日張り出され、生徒は教員を呼び捨てにし、さらに罵倒、糾弾が始まりました。

生徒の糾弾の標的になったのは、同校の副校長(当時校長は設置されなかった)だった卞仲耘さんという50歳の女性でした。若かりし頃抗日戦争に参加し、建国後の49年から教師としてずっと同校に勤めてきた卞副校長は、しかし文革の開始とともに「反毛」思想の持ち主とみなされて壁新聞や面前で連日生徒に罵倒され続けました(彼女の「罪状」として、地震で避難する際に毛沢東の肖像を持ち出すことに消極的だったことなどが挙げられました)。

66年6月23日、卞副校長の全校糾弾大会が開かれ、彼女は跪かされたうえ両手を縛り上げられ、教え子らから殴る、蹴る、泥を口や目に入れられる、唾を顔中に吐きかけられる、といった暴行を受けました。さらに8月5日、「反革命修正主義分子」とみなされ、生徒の紅衛兵らによって、腹を蹴る、顔を踏みにじる、大小便を頭からかける等、いっそう激しい暴力にさらされ、意識を失い手押し車の中に投げ込まれたまま亡くなりました。彼女の死亡証明書には「死因不明」と記され、残された四人の子供たちと夫は泣き寝入りのまま長いこと沈黙を強いられました。

文革終了後の1979年、遺族は北京市公安局および検察院に卞さん殺害事件の捜査と起訴を求めましたが、時効のため不起訴とされました。その後も事件の究明を求める遺族の訴えは絶えることなく、ようやく2009年、元生徒らによって卞副校長の銅像が造られ、そして昨日のお詫びとなったわけです。

昨日、事件のお詫びをした元生徒の中に、宋彬彬氏がいました。宋氏は中国共産党の「八大元老」の一人宋任窮の次女で、66年当時北京師範大附女子中学の高等科三年生。卞副校長糾弾のきっかけとなった最初の壁新聞を張るなど、同校の紅衛兵のリーダーとして「活躍」しました。卞副校長の殺害から間もない66年8月18日、宋彬彬氏は天安門の楼上で毛沢東に「紅衛兵」の文字が刺繍された腕章を捧げ、毛沢東から「宋要武」の名を与えられたことで有名です。

宋彬彬氏は父親の失脚とともに一時期下放されましたが、72年に長春の大学に入学、80年代に米国に移住してマサチューセッツ工科大学で博士号を取り、アメリカ国籍も取得しそのまま永住生活を送っています。

今回北京を来訪した宋彬彬氏は、遺族らとの面会で涙を流し、亡くなった先生への「お詫び」の意を表す一方、当時自分は暴力を振るったことはなく、他の生徒の先生に対する暴力を止められなかったことに自分は責任を感じる、という趣旨を述べました。

文革時の暴力事件の遺族に対し当事者が「お詫び」したことについて今回報道したのは、独自取材で定評のある『新京報』ですが、この記事は多くの人の注目を集め、ネット上にさまざまな意見が書き込まれています。文革が中国社会に残した傷は今なお癒えてはいないようです。

http://epaper.bjnews.com.cn/html/2014-01/13/content_489922.htm?div=-1
http://politics.caijing.com.cn/2014-01-13/113810571.html

長春だより

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